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民衆の英雄「ジャンヌ・ダルク」女像

フランスの女神英雄革命家「ジャンヌ・ダルク」 

フランス「ジャンヌ・ダルク」について、昨今、まったく話題に上がらない不思議な現象に、それっ、どうした理由が起因するのかと、いろいろと歴史と生い立ちを探ってみた。

それで判ったのは当時17歳で蜂起し、19歳の時、異端審問(法曹政治より宗教が社会をコントロールしていた)にかけられ処刑されたという記録だった。後に、その罪は撤回された、というのは天文学哲学「ガリレイ」と同じ救済だ。

もう一つ「アラブの春」ネット革命が10年前にあったが、それも一つの時代のエポックであり、それらは一つのポリシーに貫き通されていたと推察したからだ。

男装兵「ジャンヌ・ダルク」とは

絵がれたドラクロワ」(1798年4月26日)の、代表作でもある「民衆を導く自由の女神」は、実際のジャンヌ・ダルクとは異なる。
「ジャンヌ・ダルク」といったら肌胸もあらわな戦闘姿の絵(ドラクロワ神の擬人化絵)が想像されるが、本人はそれとはまったく異なる軍人だった。

その革命とはほど遠いフランスの17歳田舎娘が、どうして、そんなに大それたアクションをしたのか、探ってみたくなった。

もしかするとそれは、いま世界を覆っている政治体制民主主義資本経済システムから引導される、格差と貧富の差、最大の関心事は、富の寡占的独占が1パーセント富裕層に支配されているという現実打破の、突破口のヒントになるかもしれない。

かつては、ローカルな君主による領土争奪戦(とくにヨーロッパ世界で顕著)であったものが、やがて大型兵器が開発され、その結果世界戦争(フランス、ドイツ、プロイセンの普仏戦争)に及んだことは、もしかすると必然の結果だったかもしれない。いまのこの格差状況を放置しておくと、いずれ、それとは別のスタイルで闘争(戦争)が始まる恐れがある。そして実際、ウクライナで戦闘が起きた。

この話は、前項の「現金輸送車強奪事件」とは無縁な世界だが、娯楽小説、云ってみればエンタメ小説のジャンルとみれば、どう次元のジャンルとして観ることができる。
そこに日本の「白拍子」をくぐらせたとしても、昨今アニメのストーリーからしたら、まったく違和感はない。

それと課題の「白拍子」静御前も同様に散らかりっぱなしだった。これを機会に、一気呵成に仕上げようと考えた。

本音で云うと、その「白拍子」もジャンヌダルクも、小説みたいなものを書いてみたが、中途半端で終わってしまい、その三億円~、ネタを挙げてみてはたと思いだし、その周辺に、過去の記事が放置してあり、思い直して、ここに登場したという問題作だったという勝手な動機付けだった。

1431年5月30日、コーションは最終宣告をし、ジャンヌはその後の世俗での裁判にかけられることなく、ルーアンのヴィユ・マルシェ広場で火刑に処された。

画像 ウジェーヌ・ドラクロワ画家


ウイキペディア

白拍子遊女とは何ですか?
義経の愛した静御前は「白拍子」とよばれる、歌舞をする遊女です。 その起源は巫女にあり、白拍子も雨乞いのために舞うこともあったといわれます。 白拍子舞(しらびょうしまい)は、平安末期から鎌倉時代にかけて流行した歌舞で、もともとは神に捧げる性格のものでした。

時代年も国も気候もまったく異なる、二つの話は、まるでお伽話しのようにシンクロ化して、私に訴えかけてきた、そこには戦場の戦いの場、でありながら女の身分として、社会に融合した女の存在が際立っていた、そこに何かが秘められていると私は感じたからだった。

「ヤタ、ガラス」という不明な飛光体消えたオンナ~
white-outに消えたオンナ~ 
racoco 2021年11月18日 07:38
「ヤタ、ガラス」という不明な飛光体「ねェ好きな子、いるの?」

何気ないその「ねェ好きな子、いるの?」がとても気になった。これがどこで使われていたのか、まったく忘れたしまったそのフレーズが脳で疼く。

それが広告か、ネットかテレビか、そしていつもの記事の中の一フレーズ、キャッチコピーかも判らない。それほど、ありきたりな語句だったが、これだけで一編の映画ができると思った。

もしできたら「Netflix」あたりに売り込むのもいいじゃん、今風だし。いまどきの、あり来たりの純愛恋愛小説でもないし、といって大都会ビル一角に棲むサラリーマン家庭の一人っ子少女(中1)「真那華」が読んでる人気キャラクター漫画ヒロインに投影した、その声優ハスキーVoiceとも違う、そのすこし外れた違和感を醸していたとか。(もしかして好きな子ってアレだったの?)

その一つが「白拍子」という鎌倉時代にいたシャーマンの巫女(また男)だった。

「もしかしてもしかして、そーなの、違うの、どうなの」???

そんなこと云いたそうな顔してた。だいたい「マナカッカ」が、喋ると何か予感がするんだ。

予感・・・

そう、よ、か、ん。空気が動く、でも風じゃない。空気、空気なんだ、気というか、目にみえない透明な粒子の気(け)、みたいな。

ほら、煙りだってアレ、粒子なんだ、それに雲とか水蒸気とか、みんな細かい粒なんだ。だからその「気」なのさ。

いつも「マナカッカ」のそばにピッタリ寄り添っている「フワリート」が、そういった。

「あしたはアメか」、南西の黒い雲空を見上げて、そう叫んだ。

こんなとき古代記などに登場する鳥がいた。それが黒い「カラス」だ。

画像 熊野本宮大社の鳥居の横に掲げられた八咫烏 旗とレリーフ
Kumano-hon_Yatagarasu_

八咫烏(やたがらす)は、日本神話に登場するカラス。導きの神とされる。神武東征の際、高皇産霊尊によって神武天皇のもとに遣わされ、熊野国から大和国への道案内をしたとされる。一般的に三本足の姿で知られ、古くよりその姿絵が伝わっている。

■八咫烏は、日本神話において、神武天皇を大和の橿原まで案内したとされており、導きの神として信仰されている。また、太陽の化身ともされる。『古事記』では高木大神によって遣わされ、『日本書紀』では天照大神によって遣わされたと伝わる。『古事記』では兄宇迦斯・弟宇迦斯兄弟に神武天皇への帰順を求めるために遣わされるが、兄に鳴鏑で追い返されたとされる。一方『日本書紀』では兄磯城・弟磯城兄弟にそれぞれ帰順を求め、兄には「聞天壓神至而吾爲慨憤時、奈何烏鳥若此惡鳴耶。」と言われ弓矢で追い返されてしまうが、弟はこれに恐れて「臣聞天壓神至、旦夕畏懼。善乎烏、汝鳴之若此者歟。」と言い、葉盤八枚に食べ物を盛って烏に献上した。それで烏は神武天皇のもとへ戻り、兄磯城に反抗の心がある旨を報告したと伝えているなど、両書の伝承に若干相違がある。
その後『日本書紀』においてはその功が労われ、頭八咫烏の子孫は葛野主殿縣主(かづののとのもりのあがたぬし)となり、劒根は葛城国造となっている。なお、八咫烏は『古事記』や『日本書紀』に登場するが、『日本書紀』では、同じ神武東征の場面で、金鵄(金色のトビ)が長髄彦との戦いで神武天皇を助けたともされており、天日鷲神の別名である天加奈止美命(あめのかなとみ)の名称が金鵄(かなとび)に通じることから、天日鷲神、鴨建角身命と同一視される。また賀茂氏の系図において鴨建角身命の別名を八咫烏鴨武角身命としているが、実際は神武天皇と同世代の関係から考えて、記紀に登場する八咫烏とは生玉兄日子命のこととされる。
熊野三山においてカラスはミサキ神(死霊が鎮められたもの。神使)とされており、八咫烏は熊野大神(素戔嗚尊)に仕える存在として信仰されており、熊野のシンボルともされる。近世以前によく起請文として使われていた熊野の牛玉宝印(ごおうほういん)にはカラスが描かれている。咫(あた)は長さの単位で、親指と中指を広げた長さ(約18センチメートル)のことであり、八咫は144cmとなるが、ここでいう八咫は単に「大きい」という意味である。

三本足の意味
八咫烏が三本足であることが何を意味するかについては、諸説ある。熊野本宮大社では、八咫烏の三本の足はそれぞれ天(天神地祇)・地(自然環境)・人を表し、神と自然と人が、同じ太陽から生まれた兄弟であることを示すとしている。また、かつて熊野地方に勢力をもった熊野三党(榎本氏、宇井氏、藤白鈴木氏)の威を表すともいわれる。三本足の意味が、古来より太陽を表す数が三とされてきたことに由来するとする見方は、宇佐神宮など太陽神に仕える日女(姫)神を祭る神社(ヒメコソ神社)の神紋が、三つ巴であることと同じ意味を持っているとする説もある。 しかしながら、『古事記』や『日本書紀』には八咫烏が三本足であるとは記述されておらず、八咫烏を三本足とする最古の文献は、平安時代中期(930年頃)の「倭名類聚抄」であり、この頃に八咫烏が中国や朝鮮の伝承の鳥「三足烏(さんそくう)」と同一視され、三本足になったと思われる[7]。 元々日本神話にあった「神の使いとしての鳥」の信仰と中国の「太陽の霊鳥」が融合した可能性がある。 
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黒い「カラス」・・・、だって白いカラスってどこにいるの。そもそもカラスが白いと、それカラスと呼ばないじゃん。

ジャンヌ・ダルク(1412年ごろ1月6日 - 1431年5月30日)、15世紀のフランス王国の軍人。フランスの国民的ヒロインで、カトリック教会における聖人でもある。「オルレアンの乙女」(フランス語: la Pucelle d'Orleans[4]/英: The Maid of Orleans[5])とも呼ばれる。

神託
ジャンヌは現在のフランス東部に、農夫の娘として生まれた。神の啓示を受けたとしてフランス軍に従軍し、イングランドとの百年戦争で重要な戦いに参戦して勝利を収め、のちのフランス王シャルル7世の戴冠に貢献した。

その後ジャンヌはブルゴーニュ公国軍の捕虜となり、身代金と引き換えにイングランドへ引き渡された。イングランドと通じていたボーヴェ司教ピエール・コーションによって「不服従と異端」の疑いで異端審問にかけられ、最終的に異端の判決を受けたジャンヌは、19歳で火刑に処せられてその生涯を終えた。

神の啓示を受けたとしてフランス軍に従軍し、イングランドとの百年戦争で重要な戦いに参戦して勝利を収め、のちのフランス王シャルル7世の戴冠に貢献した。その後ジャンヌはブルゴーニュ公国軍の捕虜となり、身代金と引き換えにイングランドへ引き渡された。

イングランドと通じていたボーヴェ司教ピエール・コーションによって「不服従と異端」の疑いで異端審問にかけられ、最終的に異端の判決を受けたジャンヌは、19歳で火刑に処せられてその生涯を終えた。

ジャンヌが死去して25年後に、ローマ教皇カリストゥス3世の命でジャンヌの復権裁判が行われた結果、ジャンヌの無実と殉教が宣言された。その後ジャンヌは1909年に列福、1920年には列聖され、フランスの守護聖人の一人となっている。

ジャンヌが生まれた1412年ごろのフランス王はシャルル6世だったが、精神障害に悩まされており、国内統治がほとんど不可能な状態だった。
王不在ともいえるこのような不安定な情勢下で、シャルル6世の弟のオルレアン公ルイと、従兄弟の「ブルゴーニュ公ジャン1世」(無怖公)がフランス摂政の座と王子たちの養育権をめぐって激しく対立した。そして1407年にオルレアン公が無怖公の配下に暗殺されたことで、フランス国内の緊張は一気に高まった。

オルレアン公と無怖公を支持する派閥は、それぞれアルマニャック派とブルゴーニュ派と呼ばれるようになっていった。
イングランド王ヘンリー5世は、このフランス国内の混乱を好機ととらえてフランスへと侵攻した。イングランド軍は1415年のアジャンクールの戦いで大勝し、フランス北部の多くの都市をその支配下に置くに至る。そしてのちにフランス王位に就くシャルル7世は、4人の兄が相次いで死去したために14歳のときから王太子と目されていた。

王太子が果たした最初の重要な公式活動は、1419年にブルゴーニュとの間に和平条約を締結しようとしたことである。しかしながら王太子が安全を保証した会合の席で、無怖公はアルマニャック派の支持者たちに殺害されてしまう。
無怖公の後を継いでブルゴーニュ公となった息子のフィリップ3世(善良公)は王太子を激しく非難し、フランスとの和平条約締結を白紙に戻してイングランドと同盟を結んだ。そしてイングランドとブルゴーニュの連合軍は、多くのフランス領土をその支配下に置いていった。

1420年にシャルル6世妃イザボーは、シャルル6世が死去したあとのフランス王位を王太子ではなく、イングランド王ヘンリー5世とその後継者に譲るという内容のトロワ条約にサインした。
この条約の締結は、王太子がシャルル6世の子ではなく、イザボーと王弟オルレアン公ルイの不倫の関係によって生まれた子であるという噂を再燃させることになった。
ヘンリー5世は1422年8月に、シャルル6世も2か月後の10月に相次いで死去し、ヘンリー5世の嫡子ヘンリー6世がイングランド王位とトロワ条約に則ってフランス王位を継承した。ただし、ヘンリー6世はまだ1歳にも満たない乳児だったために、ヘンリー5世の弟ベッドフォード公ジョンが摂政として国政を司った。

1429年の初めごろにはフランス北部のほぼすべてと、フランス南西部のいくつかの都市がフランスの手を離れていた。ブルゴーニュはフランス王室と関係が深いフランスを支配下に置いたフランスは歴代フランス王が戴冠式を行った場所であり、フランスがこの都市を失った意味は大きかった。
パリとルーアンを占領したイングランド軍は、王家に忠誠を誓う数少なくなった都市であるオルレアンを包囲した(オルレアン包囲戦)。ロワール川沿いに位置し戦略上の要衝地でもあったオルレアンは、フランス中心部への侵攻を防ぐ最後の砦であり「オルレアンの趨勢が全フランスの運命を握っていた」のである。そしてオルレアンが陥落するのも時間の問題だとみなされていた。

ジャンヌの生涯と生い立ち

ジャンヌの生誕地は現在は記念館になっている。画面右の樹木の後ろに見えるのが、少女期のジャンヌがミサに通った教会である。画像

ジャンヌはジャック・ダルクとイザベル・ロメの娘として生まれた。父ジャック・ダルク(1380年 - 1440年)がロメと呼ばれていたイザベル・ヴトン(1377年 - 1458年11月28日)と結婚したのは1405年のことで、2人の間にはジャクマン、ジャン、ピエール、ジャンヌ、カトリーヌの5人の子が生まれている。
ジャンヌが生まれたのはバル公領の村ドンレミで、当時のバル公領は、マース川西部がフランス領、マース川東部が神聖ローマ帝国領で、ドンレミはマース川西部のフランス領に属していた。
バル公領はのちにロレーヌ公国に併合され、ドンレミはジャンヌの別称である「オルレアンの乙女(ラ・ピュセル・ドルレアン(la Pucelle d'Orleans)」にちなんでドンレミ=ラ=ピュセルと改名されている。
ジャンヌの両親は20ヘクタールほどの土地を所有しており、父ジャックは農業を営むとともに、租税徴収係と村の自警団団長も兼ねていた。当時のドンレミはフランス東部の辺鄙な小村で、周囲をブルゴーニュ公領に囲まれてはいたが、フランス王家への素朴な忠誠心を持った村だった。ジャンヌが幼少のころにドンレミも何度か襲撃に遭い、焼き払われたこともあった。

神の声を聴く

のちにジャンヌは異端審問の場で自分は19歳くらいだと発言しており、この言葉の通りであればジャンヌは1412年ごろに生まれたことになる。
さらにジャンヌが初めて「神の声」を聴いたのは1424年ごろのことで、当時12歳だったと証言している。このとき一人で屋外を歩いていたジャンヌは、大天使ミカエル、アレクサンドリアのカタリナ、アンティオキアのマルガリタの姿を幻視し、イングランド軍を駆逐して王太子シャルルをランスへと連れていきフランス王位に就かしめよという「声」を聴いたという。
聖人たちの姿はこの上なく美しく、3名が消えたあとにジャンヌは泣き崩れたと語っている。

1428年、ジャンヌは16歳のときに親類のデュラン・ラソワに頼み込んでヴォクルール(英語版)(現在のムーズ県)へと赴き、当地の守備隊隊長でありバル公の後継者ルネ・ダンジューの顧問官でもあったロベール・ド・ボードリクール伯にシノンの仮王宮を訪れる許可を願い出た。

ボードリクールはジャンヌを嘲笑をもって追い返したが、ジャンヌの決心が揺らぐことはなかった。翌1429年1月に再びヴォークルールを訪れたジャンヌは、ジャン・ド・メス(英語版)とベルトラン・ド・プーランジ(英語版)という2人の貴族の知己を得た。この2人の助けでボードリクールに再会したジャンヌは、オルレアン近郊でのニシンの戦いでフランス軍が敗北するという驚くべき結果を予言した。


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