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作家松本清張の『昭和史発掘』

松本清張唯一の失敗作『北一輝論』二・二六事件を読み誤らせた先入観とは?
2017/12/3(日) 13:20配信 THE PAGE
推理小説や社会派ミステリーで実力、人気とも不動の地位を築いた松本清張でしたが、作品の中にはその出来について賛否両論のあるものはもちろん存在しています。

しかし、実在の人物を描いた作品で、清張が完全なる誤認識のまま書き上げてしまったのが『北一輝論』でした。綿密な取材を心がけていた清張が、なぜ間違ってしまったのでしょうか? ノートルダム清心女子大学文学部教授の綾目広治さんが解説します。 

松本清張、唯一の失敗作『北一輝論』とは?
 『昭和史発掘』は1964年7月から71年4月にわたって『週刊文春』に連載されていたが、その連載がもうすぐ終わろうとしていた70年11月に、三島由紀夫と「楯の会」の青年数名が自衛隊基地に乱入して割腹自殺するという事件が起こった。『昭和史発掘』は後に全12巻の本としてまとめられたが、その内の7巻分が二・二六事件の叙述に占められていた。その二・二六事件について執筆中に三島事件が起きたのである。松本清張は事件後すぐに朝日新聞に一文を寄稿して、この事件の檄文が二・二六事件関係の文書と似ていると述べた。

 松本清張には、二・二六事件そのものについてはほぼ書き尽くしたが、その事件の背景にあったとされる北一輝の思想については解明できていないという思いがあったと思われる。さらには、北一輝の思想を根底的に解明し、さらに解体しておかなければ、三島事件のような事件が再び起きて、実際にクーデターに発展するような事態になるかも知れない、という危機意識もあったと推測される。その危機意識から書かれたのが、76年に上梓された『北一輝論』であった。

 この著作は73年に発表した「北一輝における『君主制』」を補筆改稿したものである。また、それよりも前の72年5月には、清張は戯曲「日本改造法案―北一輝の死―」を発表していた。

 この『北一輝論』は本格的な論文によって構成された著作であったが、実は思想史の専門家や北一輝の研究家などの間ではすこぶる評判の悪い著作なのである。その評判の悪さは、清張の著作にあっては極めて珍しいと言える。ある専門家は、「松本のこの本は北研究史上の珍本といってよく、北に対する無知というしかないいいがりにみている」とまで言っている。残念ながら、たしかに『北一輝論』は清張の著作の中にあっては珍しく不出来な著作なのである。何故なのか。それは、清張が北一輝の著作を言わば成心(せいしん)、先入観を持って読んでいるからである。では、それはどういう読みだったのだろうか。まず、北一輝の思想の特徴について次に簡単に見てみたい。
右翼の中で左翼思想を持っていた北一輝
 北一輝が弱冠24歳のときに書いた『國体論及び純正社会主義』は、その題目に象徴されているように、この本は右翼(國体論)の本なのか、あるいは左翼(純正社会主義)の本なのかが、判断しにくい内容である。あえて言うならば、それは国家社会主義を主張する本であった。一般には今日でも、北一輝は右翼の思想家として捉えられているが、彼自身は死ぬ直前まで自分は左翼だと思っていた可能性すらある。少なくとも北一輝自身は、自らを国家社会主義者だと考えていたであろう。

 とくに、この本やその他の著作でも注意されるのは、二・二六事件の青年将校たちのように、天皇に対する崇拝心が北一輝にはなかったことで、北一輝にとっては天皇や天皇制も、国家社会主義を効果的に実現するための道具にすぎなかった。付け加えるならば、同書で「日本の天皇は国家の生存進化の目的の為めに発生し継続しゝある機関なり」と述べられているように、北一輝は一種の天皇機関説論者だったのである。彼にとって最重要なのは国家なのであって、あくまで天皇および天皇制はそれを支えるためにあるものであった。

 この、彼流の国家社会主義の立場は、初期から刑死するまで変わらなかった。明治天皇や天智天皇が、同書で評価されているのも、大化の改新や明治維新という、国家の〈革命〉を成し遂げた人物だったからなのである。繰り返し言えば、北一輝にはほかの右翼たちのような、天皇に対する過剰な思い入れはなかった。

清張はなぜ北一輝の思想を読み誤ってしまったのか?
 だが松本清張は、三島事件の衝撃もあったためか、北一輝の著作を天皇主義者の本として読み解こうとして、北一輝は初期においては社会民主主義者であったが、『日本改造法案大綱』を書いたときには国家主義者に変貌した、というふうな無理な解釈もしている。そして、天智天皇と明治天皇に対しての、北一輝の高い評価を過剰に重視して、それをあたかも天皇という存在への崇拝心であったかのように語るのである。松本清張は、北一輝を一般の右翼思想家と同様のファナチックな天皇主義者として捉えていたのである。しかし、それは大きな誤認であって、北一輝は一貫してクールな国家社会主義者であった。だから、二・二六事件の将校たちは刑死するとき〈天皇陛下万歳〉を叫んだのだが、北一輝は何も言わなかったのである。

 ちなみに、北一輝や西田税(みつぐ)は二・二六事件にほとんど何も関わっていなく、むしろ蚊帳の外に置かれていた。にもかかわらず、その後の裁判において軍首脳は、事件の首魁(しゅかい)あるいは黒幕は軍の外の北一輝たちであって、青年将校たちは踊らされただけのように見せたのである。その方が軍の傷が小さくなるからである。

 このように『北一輝論』は、失敗作であったと言わざるを得ないが、この著作からも窺われるのは、清張の、戦前のファナチックな天皇制に対する批判意識と、それが復活することに対する危機意識であった。では、清張は戦前の天皇制をどう捉えていたのか。次回のテーマとしたい。

(ノートルダム清心女子大学文学部・教授・綾目広治)    



2.26事件のシナリオライター「北 一輝」
2.26事件 戒厳令下の警備 『国際写真情報』第15巻第4号所収
昭和11(1936)年2月26日未明、急進的な陸軍青年将校が所属部隊から約1,400人の兵を率いて首相官邸等を襲撃し、内大臣斎藤実・蔵相高橋是清・陸軍教育総監渡辺錠太郎らを殺害、政治・軍事の中枢である永田町・三宅坂一帯を占拠した。
この史料は、同日に宮中で開かれた非公式の軍事参議官会議で、決起将校達に同情的な荒木貞夫・真崎甚三郎などにより鎮撫・原隊復帰を目的として作成され、決起将校達に伝達されたものであるが、途中で字句が変わるなど、混乱を招いた。事態は決起将校達に一時的に有利に動くように見えたが、天皇が断固たる討伐の意思を示して事態は一転鎮圧へと向かい、29日に終息した。
北 一輝(きた いっき、本名:北 輝次郎〈きた てるじろう〉、1883年(明治16年)4月3日 - 1937年(昭和12年)8月19日)は、戦前の日本の思想家、社会運動家、国家社会主義者。二・二六事件の皇道派青年将校の理論的指導者として逮捕され、軍法会議で死刑判決を受けて刑死した。

右目は義眼であったが、数少ないその肖像写真からも分かるように容貌眉目秀麗であり、二・二六事件後の軍法会議の裁判長吉田悳少将はその手記で「北の風貌全く想像に反す。柔和にして品よく白皙。流石に一方の大将たるの風格あり」と述べている。日ごろから言葉遣いは丁寧で、目下、年下の者にも敬語を使っていたという。裁判では、青年将校たちの決起については自分は関係がないことを主張しながらも、青年将校たちに与えた自らの思想的影響についてはまったく逃げず、死刑判決を受け入れている。


それは「明治維新」にさかのぼる


この2.26事件に直接かかわった人物ではないが、日本軍部に多大な足跡と影響をもたらした軍人「山縣有朋」が金字塔のように燦然と輝いている。これまでの国家戦争スタイルの骨格シナリオを策定した人物として注目されていた。

ヨーロッパ諸国が君主政治から民主政治に移行する狭間の時期、日本もそれに同調して世界情勢を睨んでいた。そこにフランスとプロイセンのいざこざが勃発して、それがやがて世界戦争に向かうという世界戦争殺戮史が展開する。そこにいたのが「山縣有朋」だった。 NHKテレビスペシャル~

政府要人を殺害した「二・二六事件」について、事件の発生から収束までの4日間を分単位で記録した極秘文書が残されていたことがNHKの取材でわかりました。
当時、海軍が記録したもので、青年将校と軍幹部の動きややり取りなどが細かく記されており、専門家は近代日本を揺るがした事件の新たな側面を浮かび上がらせる第一級の資料だと指摘しています。

今回見つかった資料は、昭和11年2月26日に陸軍の青年将校らが天皇中心の国家を確立するとしてクーデターを企て、政府要人ら9人を殺害した「二・二六事件」について、海軍が当時記録した内部文書です。文書には「極秘」の印が押されていて、事件発生から収束までの4日間について、海軍が現場で把握した情報が分単位で記録されています。

このうち、発生からおよそ2時間後の2月26日午前7時に記された第一報とみられるメモは、「警視庁」「占領」、「総理官邸」「死」など、なぐり書きの文字が並び、その衝撃の度合いがわかります。事件の鎮圧には青年将校たちが所属した陸軍が当たりましたが、海軍は陸軍の司令部に連絡要員を派遣したり、現場に「見張り所」を多数設置したりして、青年将校だけでなく、陸軍の動向も監視していました。2日目、2月27日の午後6時半の記録には、陸軍の幹部が青年将校らについて「彼らの言い分にも理あり」と理解を示し、「暴徒としては取り扱い居らず」と発言をしたことが記され、陸軍の対応に一貫性がなく状況が複雑化していることに対し、海軍が警戒していた様子がうかがえます。

さらに事件が収束する前日の2月28日午後11時5分の記録には、追い詰められた事件の首謀者の1人、磯部浅一が天皇を守る近衛師団の幹部と面会して、「何故(なぜ)に貴官の軍隊は出動したのか」と問い、天皇の真意を確かめるかのような行動をしていたことも詳しく書き留められていました。
そして最終日、2月29日の午前8時5分の記録には、海軍の陸上部隊が防毒マスクまで装着し、「直ちに出撃し、一挙に敵を撃滅す」と決心したことが記載され、この直後の青年将校らの投降がなければ、市街戦に突入して東京が戦場になりかねなかった緊迫の記録がつづられています。

「二・二六事件」は、これまで青年将校らを裁いた特設軍法会議の資料など事件後にまとめられた記録が、主な公文書とされてきましたが、今回見つかったのは事件を同時進行で詳しく記録したもので専門家は近代日本を揺るがした事件の新たな側面を浮かび上がらせる第一級の資料だと
指摘しています。

専門家「重要な部分を埋める資料」

軍事史に詳しい大和ミュージアムの館長、戸高一成さんは、「二・二六事件は軍人によるクーデターだが、陸海軍という2つの大きな組織のなかの陸軍サイドのみがほとんど見られて、海軍側の資料がなかった。
今回資料が発見されたことで海軍が事件のかなり大きな要素を握っていたことがわかった。特に、海軍は習慣で、時間を丁寧に記載するため、事件の推移がリアルタイムで書き残されているのは貴重だ」と指摘しています。そのうえで戸高さんは「今後、文書を精査することで二・二六事件の全体像がさらに明らかになる。事件の研究にこの資料が使われていたら、事件の全体像についてもう少し違う見方もあったかもしれず、全体の筋書きのなかで、非常に重要な部分を埋める資料になる」と話しています。

その他、自著記事引用

141年前「西南の役」は昔話じゃない2018.A2
現代版「西南の役」カルロス・ゴーン事件
141年前「西南の役」
は昔話じゃない2018.A2 : 2010/3/パラノイア blog.livedoor.jp
「だが、ほんとうにそれだけなのか。フランス大統領が関係する案件を、東京地検特捜部だけの意向で、しかもゴーン会長ほどの大物を、逮捕できるのか。どうやら日本政府がからんでいる、という情報もある。この事件は、今後も政界を巻き込みながら、まだまだ広がりそうだ。」

と書いた田原氏のオフシャルサイトだった。それは氏の推理であって真偽のほどはわからない。現在時間でいまでもそれは誰にも判らない。


「二・二六事件」海軍極秘文書発見 収束までの4日間詳細に記録
2019年8月15日 19時31分
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190815/k10012036931000.html



SNS時代の平和を問う
歴史のターニングポイント 二.二六事件 全貌(1936年2月26日).2
http://blog.livedoor.jp/raki333/preview/edit/90fdcf015be4e0e14fc47de494b88df0


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