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遠野物語バージョン.1

『遠野物語』(とおのものがたり)は、柳田国男が明治43年(1910年)に発表した、岩手県遠野地方に伝わる逸話、伝承などを記した説話集である。

遠野地方の土淵村出身の民話蒐集家であり小説家でもあった佐々木喜善より語られた、遠野地方に伝わる伝承を柳田が筆記・編纂する形で出版され、『後狩詞記』(1909年)、『石神問答』(1910年)とならぶ柳田の初期三部作の一作。日本の民俗学の先駆けとも称される作品である。

遠野物語における遠野、あるいは遠野郷とは、狭義には藩政時代の旧村が明治の町村制によって編制された遠野、松崎、綾織、土淵、附馬牛、上郷、を指すが、広義には上閉伊郡宮守村、釜石市橋野町、上閉伊郡大槌町、下閉伊郡川井村などの隣接地域も含まれ、その地で起きたとされる出来事も取り上げられている。内容は天狗、河童、座敷童子など妖怪に纏わるものから山人、マヨヒガ、神隠し、臨死体験、あるいは祀られる神とそれを奉る行事や風習に関するものなど多岐に渡る。

作成過程で3つの原稿が存在し、佐々木の話を都度書き記すかたちで作られた草稿にあたる毛筆本、実際に遠野に赴き、自ら得た見聞を加えて人名、地名、数字などの事実関係を補完して作られた清書本。毛筆本の段階では107話であったが清書本の段階で12話が追加され119話となった。そして清書本をもとに初稿が印刷され、初稿を再考し、一部伏字となっていた固有名詞などに手を加えられ完成本となった。これら3つの原稿は、長野県の元衆議院議員池上隆祐が1932年に『石神問答』の刊行に対する記念として『石』の特集号を発行した際、折口信夫、金田一京助らの署名を入れた特装本を柳田へ贈った事に対する謝礼として柳田より池上へ贈られた。池上の没後の1991年に遺族より遠野市へ寄贈され、それ以降は遠野市立博物館が保管している。

『遠野物語』の反響により、昭和10年(1935年)には各地から寄せられた拾遺299話を追加した『遠野物語増補版』が発表された。

執筆への経緯
『遠野物語下染め』および『佐々木喜善先生とその業績』によると、柳田が水野葉舟の仲立ちで佐々木喜善と初めて会ったのは明治41年(1908年)11月4日。

学校から帰宅した佐々木の所に水野が訪れ、連れ立って柳田を訪ね、遠野物語に関する話をして帰ったと佐々木の日記に記録されている。
3日には柳田が佐々木の下宿を訪れ前回の聞き取りに加筆を加え、18日には再び水野と佐々木が柳田を訪ねて夜更けまで聞き書きが行われた。25日付けの佐々木へ宛てられた柳田の手紙には12月以降も2日に会いたいという内容が記載されていることから、佐々木が翌年1月から3月まで遠野へ帰郷した期間はあるが、初夏までの間に月に1度程度の頻度で数回行われたであろうことは、明治42年4月28日に柳田邸で行われた「お化け会」の記事からも推測される。 序文の日時と事実に相違があるが、これは記憶違いではなく、詳細は不明であるが同時に進行していた『後狩詞記』の刊行の後に位置づけたかったとの柳田の考えがあったのではなかろうかと考えられている。

柳田の遠野探訪

旧高善旅館
柳田國男が初めて遠野を訪れたのは明治42年(1909年)8月23日の夜のこと。8月22日(日曜日)午後11時、上野発海岸回り青森行きの列車に乗った柳田は、翌23日に到着した花巻駅で下車。人力車に乗り換え、矢沢村、土沢、宮守、と経て鱒沢の沢田橋のたもとにあった木造三階建ての宿屋で食事と人力車を乗り継ぎ、遠野に到着したのは夜の8時であった。 柳田は遠野では高善旅館に宿をとり、主人の高橋善次郎から馬を借りて伊納嘉矩や佐々木喜善を訪ね、南部家所縁の地などを回ったが、これらの日程には諸説存在しており、定説があるわけではない。ここでは便宜上、岩崎敏夫による説を主として解説を行う。

24日の朝、鍋倉神社近くにあった上閉伊郡役所を訪ね、郡内の説明を地図を貰いうけ、まず土淵村山口の佐々木喜善宅を目指した。あいにく喜善は東京にいたため不在で、家には養母のイチと叔母のフクヨがおり、柳田は来意を伝えると、二人から土淵村で助役を務めていた北川清を紹介された。来た道を1kmほど戻り、訪れた北川家で清より話を聞き、翌日、清の代わりに附馬牛小学校で教員を務めていた息子の真澄が附馬牛まで柳田の案内をすることになった。その日の晩には新屋敷まで伊能嘉矩を訪ねているが伊納は不在であった。

25日、北川真澄の案内で早池峰山道を通り附馬牛に辿り着いた柳田は上柳の附馬牛役場を訪れ、役場書記の末崎子太郎と附馬牛小学校から呼び寄せられた福田恵次郎の二人より附馬牛村の成り立ちや歴史について聞き、附馬牛の源流のひとつである東禅寺跡へと案内された。帰りは石羽根から大袋を通り、その道すがら菅原神社で鹿踊りが行われているのを目撃し、また掲げられたムカイトロゲに旅情を感じ、忍峠へと入っていった。宿に戻ると伊能が訪ねてきたという事であったが、附馬牛を発った時点で黄昏時であったので宿に着いたのは夜の8頃と推測され、既に遅い時間であった事からこの日はそのまま休む事にした。

26日には先日宿を訪ねてきた新屋敷の伊能の家を訪問し、伊能の台湾研究に関する研究資料、および『阿曾沼興廃記』や『旧事記』といった遠野に関する資料、オシラサマや雨風祭の藁人形、あるいは遠野周辺に伝わる妖怪に関する伝承や住人達の生活の在り方を聞いた。

27日に伊能は高善旅館まで再び出向き、柳田を南部男爵邸へ案内し、屋敷の保守にあたっていた及川忠兵、郷土資料家の鈴木吉十郎の案内で男爵家に伝わる古文書や受け継がれてきた宝物を見た。その後、昼過ぎに人力車に乗り、来たときとは異なり下組町から愛宕橋を渡り、綾織村の小峠を越えて日詰街道を盛岡へ向かった。 後の『現代随想全集』で「帰りに横手から五色温泉に遊ぶ」と述懐されていることから、盛岡から秋田へ行き、帰京したのは31日とされている。

上記の説のほか、遠野に到着した翌日の24日にまず伊能を訪ねたとする説、山口の佐々木家を訪問し「土淵村山口から附馬牛に出る時でした。
それを見に行ったのです。ちょうどシシ踊りなんかしてました」という『民俗学と岩手』における記述から、土淵から附馬牛へ向かったと推測し、一連の行程は25日に行われたとする説。当時の柳田の立場を考慮すると郡役所に立ち寄って何もなく送り出されるのは不自然であるとし、郡役所に立ち寄る事は無かったとする説。あるいは遠野を離れたのは26日であったとする説などが存在する。

作品の評価
1910年6月、350部が印刷者は今井甚太郎、印刷所は杏林舎で、発行所は無く自費出版として刊行された。これらは『後狩詞記』と同じであるが、売捌所として聚精堂(田中増蔵)が挙げられ販売されている。第1号は佐々木へ贈られ、2号は柳田本人用であった。 柳田の前著である『石神問答』は、難解だったためかあまり売れ行きが芳しくなかったのに対し、『遠野物語』は僅か半年ほどで印刷費用をほぼ回収できた。200部は柳田が買い取り知人らに寄贈し、寄贈者では島崎藤村や田山花袋、泉鏡花が積極的な書評を書いた。『遠野物語』を購読した人たちには作家に芥川龍之介や南方熊楠、水野葉舟らがおり、ニコライ・ネフスキー、柴田常恵、小田内通敏など学者にも購読者がいる。特に芥川は本著を購入した当時19歳であったが、親友に宛てた書簡に「此頃柳田國男氏の遠野語と云ふをよみ大へん面白く感じ候」と書き綴っている。当時はあくまで奇異な物語を、詩的散文で綴った文学作品として受け入れられた一方、田山花袋や島崎藤村などからは「粗野を気取った贅沢」あるいは「道楽に過ぎない作品」といった批判的な見方もみられた。

民間伝承に焦点を当て、奇をてらうような改変はなく、聞いたままの話を編纂したこと、それでいながら文学的な独特の文体であることが高く評価されている。

現行の文庫判は、新潮文庫、岩波文庫、角川ソフィア文庫、集英社文庫で重版、初版復刻本『遠野物語 名著複刻全集』(日本近代文学館監修、発売・ほるぷ、新版1984年)も重版されている。
献辞 此書を外国に在る人々に呈す— 

柳田國男「献辞 『遠野物語』」


明治という時代、日本の関心が外へ向く時代にあって、その対極にある日本の山村に目を向けた柳田が周囲に向けて送った言葉であり、清書本で書き加えられ、題名とこの献辞のみ筆で書かれていることから、清書本を印刷所へ持ち込む最終段階で加えられたものと考えられている。

序文
此の話はすべて遠野の人佐々木鏡石君より聞きたり。昨明治四十二年の二月頃より始めて夜分折々訪ね来り此話をせられしを筆記せしなり。
鏡石君は話し上手に非ざれども誠実なる人なり。自分も亦一字一句をも加減せず感じたるままを書きたり。思うに遠野郷には此の類の物語猶数百件あるならん。我々はより多くを聞かんことを切望す。国内の山村にして遠野より更に物深きところには又無数の山神山人の伝説あるべし。願はくは之を語りて平地人を戦慄せしめよ。此書の如きは陣勝呉広のみ。

— 柳田國男「序文 『遠野物語』」

近代化の国是の基、あらゆる事象を西洋的な解釈でもって説き伏せようとする明治にあって、未だ前代的な精神で生き続けている人たちが日本に存在している「現在の事実」を当時の社会に知らしめんとする柳田の考えが書かれている。これまでの考えを否定するかのような都市部に生活する一部の「平地人」に対する警告とも、あるいは山中には列島渡来の民族とは異なる先住異民族がいまだに生存していると考えた柳田の、山人論を立証しようとする意気込みが窺える。

物語の舞台(1話) 初冬の早池峰山
遠野の地理的情報、あるいは地名、歴史に関する解説。陸中国、上閉伊郡の西の半分、山に囲まれて盆地となった地域であり、明治22年(1889年)から明治30年(1897年)の間に旧村が再編され、遠野、土淵、附馬牛、松崎、青笹、上郷、小友、綾織、鱒沢、宮守、達曾部の1町10村となった。近代までは西閉伊郡とも称され、さらに遡れば遠野保とも呼ばれた。

役所の存在する遠野町は、鍋倉山にある横田城とも称される要害屋敷を中心に小さくも城下町としての外観を有し、山奥としては珍しい繁華の地として賑わいをみせていた。伝説では太古遠野の地は一円の湖であったとされており、またアイヌ語の「To(湖)」+「Nup(丘原)」に遠野の語源があるという由来譚も存在している。

神の始(2話)
遠野物語の位置
早池峰山早池峰山六角牛山六角牛山石上山石上山
遠野三山
遠野の町は南北の川の落合にあり、以前は七七十里として、月に6度開かれる市には7つの渓谷、70里(およそ28km)の距離から売買のために商人1000人、馬1000頭が集まる賑わいをみせていた。周囲には遠野三山と呼ばれる山々があり、早池峰山、六角牛山、石上山(石神山)、これらには成り立ちに関する神話が存在する。大昔に女神とその3人の娘が遠野を訪れ、来内村の伊豆権現のある所に宿った際、女神は娘達に最も良い夢を見た娘に対して良い山を与えると伝えた。その夜深く天から霊華が舞い降り、姉の胸の上にこれが降りるも、末の娘が目を覚まし、これを自分の胸の上に移すことで最も美しいとされる早池峰山を手に入れた。そして姉達はそれぞれ六角牛山と石上山を得た。
草稿版には夢の中でそれぞれの娘にそれぞれの山が宛がわれたという記載は無く、姉から奪うことで利益を得たという妹の行為に対して柳田の手が加えられたと考えられている。早池峰山はその経緯より、盗みを働いた者がその発覚を免れるよう願掛けをする、といったことでも霊験を得られると考えられ、早地峰信仰の普及に一役買ったとされている。また、これら3つの山は女神が住まう山であるため、遠野の人たちは神罰を恐れ、戦前までこの山には女性が入ることが禁じられていた。かつて神職であるため差支えがないと石上山に入った巫女はその琴線にふれ、大雨風が起こり、姥石と牛石になってしまったという逸話も残されている。
「早池峰山」、「六角牛山」、および「石上山」
参照 山人 I(3話、4話、5話、6話、7話)
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神隠し(8話)
遠野物語の位置
サムトの婆伝承地サムトの婆伝承地
サムトの婆伝承地
黄昏時に子女が生活の痕跡そのままに忽然とその姿を消すという、各地にも類似の話がある神隠しに関する説話。遠野物語では寒戸という場所で梨の木の下に草履を残したまま娘が姿をくらました。その30年後、親類縁者が家に集まっているところ、突然姿をくらました娘が皆に会いたいからと再び姿を現した。かと思うと、また何処かへ去っていったとされている。
里での生活から突然居なくなるということは、その者と死別するということか、あるいは発狂して山野を彷徨うか、異質な存在や遠国の者にかどわかされるなど、さまざまな理由が考えられる。残された者達の悲しみや、諦め切れない苦しみに折り合いをつけるためにこういった話が残され、この事象が山人によるものであると「6話」や「7話」では説かれている。また、人里から離れた場所にはいかなる危険や未知なる存在がいるものか解らないため、見知った場所で生活していくことの安全を諭す事にもこういった話が用いられてきた。
「寒戸の婆」も参照 母殺し(9話、10話、11話)
遠野物語の位置
境木峠境木峠

境木峠
菊池弥之助という、若い頃駄賃付けに携わっていた者が遭遇した話では、道中、薄月夜に仲間とともに境木峠を通り、白樺の木々の生い茂る大谷地というところに差し掛かると、谷の底から突然「面白いぞー」という叫び声が聞こえたという。(9話)

また、ある時、菊池弥之助がきのこを採りに入った山で夜を越そうとしていると、遠くから「きゃー」という女の叫び声が聞こえたという。里へ帰ってみると、叫び声が聞こえた同時刻には妹がその息子に殺されていたという。(10話)

菊池弥之助の妹は母一人子一人の家にあり、息子が嫁をとるも、その嫁と姑の折り合いが悪かった。嫁は度々親里へ帰って戻らないこともあり、次第に息子の孫四郎は狂気を募らせてゆき、ついには母を生かしてはおけないと大鎌を研ぎ始める。この姿に尋常ならざるものを感じた母は事を詫びるも孫四郎はこれを聞き入れない。嫁も泣いて諌めるが取り付く島も無く、母が戸外へ逃れようとするのを見つけると、戸を閉ざして屋内に監禁した。日も傾く頃には母も終に諦め、囲炉裏の傍にうずくまり、ただ泣いていると孫四郎は十分に研いだ大鎌を左肩目掛けて振り下ろす。すると、母は弥之助が森で聞いたという悲鳴をあげた。一撃目は囲炉裏の火棚に引っかかりうまく切れなかったため、次いで右肩を目掛けて振り下ろしたが、これでも絶命には至らなかった。騒動を聞きつけた里の者達は息子を取り押さえ、警察官へ身柄を引き渡すが、その際も息子は暴れて巡査を追い回すなどした。母は滝のように血を流しながらも「おのれは恨も抱かずに死ねるなれば、孫四郎は宥したまはれ」と懇願する様子を見て、駆けつけた者たちに感動しない者はいなかったという。殺人を犯した孫四郎であったが、狂人であるとして放免され、家に戻って余生を過ごしたという。(11話)

この話には凶行に至るもその息子を宥す母、そして一連の騒動の証人となる村人といった話の内容に慈母譚の例を見ることができる。

乙爺(12話、13話)
遠野物語の位置
土淵村山口土淵村山口

土淵村山口
土淵村山口に新田乙蔵という老人が居り、村の者からは乙爺と呼ばれていた。歳は90近くで体を病み、いつ死んでもおかしくない状態であった。この老人は、遠野郷に点在する館の主に関する話、村の家々の盛衰、伝承されてきた歌に関する話、山に伝わる伝説やその奥に住むという人の事などを村で最も知っていたが、あまりに臭いため近寄って耳を傾けようとするものは居なかった。(12話)

乙爺は生まれは良い家柄であったが、若い頃に財産を失い家を傾けたため、世間との繋がりを絶ち、山に小屋を建てて数十年一人で生活していた。甘酒を作り、界木峠を通る人々に売りに行くことで収入を得ており、通る駄賃付けの者たちからは父親のように慕われていた。時折収入に余裕のあるときには町へ降りてきて酒を飲み、赤毛布で設えた半纏を着て、赤い頭巾を被り、町中で踊りながら帰っていったものだが、警察にもこれを咎める者はいなかった。年老いてからは村へ戻り、子供たちは皆北海道へ移住してしまったため、独り残されて12話のような生活をおくり、明治42年(1909年)の夏頃に亡くなった。(13話)

オシラサマ I(14話、15話)

オシラサマ
部落に1軒は旧家があり、この家は大同と呼ばれ、オクナイサマという神を祀っている。この神の像は桑の木を削って顔を型取り、真ん中に穴の開いた四角い布を上から被せて衣装としている。正月の15日には小字中の村人達が集まってこれを祭っている。また、オシラサマという神もいて、同様に桑の木から造られ、正月の15日には白粉を塗って祭られることがある。大同の家には必ず畳一帖の部屋があり、この部屋で寝ると枕を蹴飛ばされる、体の上に乗られる、何者かに抱き起こされる、部屋から突き飛ばされるなどされ、静かに眠る事ができない。(14話)

オクナイサマを祀る家には幸せが多いという。土淵村大字柏崎の長者、阿部氏が田植えを行っていた時のこと。空模様が怪しいことから早々に田植えを行ってしまいたいと考えていたが、人手が足りず翌日に少し持ち越してしまいそうだと危惧していると、どこからとも無く背丈の低い男の子が現れ、田植えを手伝うと申し出た。昼飯時に差し掛かったので、食事をとらせようと辺りを見回すが姿が見えなくなっていた。しばらくするとどこからか再び現れ、サセ取りを手伝ってくれたこともあって無事、その日のうちに田植えを終える事ができた。主人は感謝し、夕食をご馳走すると男の子を誘ったものの、日が暮れても現れることは無かった。家に帰ってみると縁側に小さな泥の足跡が点々と残されていて、家の中を通ってオクナイサマの神棚の前で途切れていた。主人がゆっくりと神棚の扉を開けてみると、オクナイサマの像の腰から下は田圃の泥にまみれていてという。(15話)

コンセサマ(16話)

コンセサマを祀る家も少なくない。この神の神体はオコマサマとよく似ており、石や木で男性器を模ってこれを祀るのだが、オコマサマの社は里に多く見られるが最近ではその数も少なくなった。
コンセサマとは金勢様、あるいは金精様の漢字が充てられる男性器を模った精神で、生命力の象徴に悪霊や邪気を祓う力、あるいは縁結び、子宝、安産祈願などの加護が得られると考えられ信仰されてきた。オコマサマは東北地方から関東にかけて馬の守り神として信仰されてきたが、祀られた当初は他の神を祀ったものとする考え方もある。多数の駒形神社や馬頭観音の石塔などが存在する遠野で名高い駒形神社は附馬牛の駒形神社であるが、これは中世阿曾沼時代に蒼前駒形明神を祀ったのが初まりとされている。この「そうぜん」という言葉はやまとことばには存在せず、駒形神社の宗社である水沢の駒形神社は延喜式神名帳にも記載されている式内社で、原初山の神である水分神を祀ったものであったという。こういった伝承により、本来の駒形の神というものは北方より伝来したアイヌ語における山の神と関わりのあるものであったが、奥羽からアイヌの影響力が失われていくと共にその原義を失い、何を信仰していたものかわからなくなったところに、全国有数の馬産地としての必要性から馬の神としての神格が与えられたものと考える説もある。いずれにおいても石や木でできた男性器を神体とする点で同じであるが、コンセサマは主として女の神であるの対してオコマサマは馬の神であり、別の神格を有している。『拾遺』14、15、16話などの話から佐々木喜善は少なくない伝承を柳田に語ったと考えられるが、柳田の性の民俗に関する伝承の考え方から、『遠野物語』に取り上げられた内容は極々概説的なものに限られている。

ザシキワラシ(17話)
旧家にはザシキワラシという神様が住む事が少なくない。多くは12~13歳ほどの童子で、時折人に姿を見せることもある。先日も土淵村の大字飯豊の今淵勘十郎という家で、高等女学校で学ぶ娘が帰宅していた時のこと、廊下で男のザシキワラシに遭遇して驚いた事があったという。同じ村の山口に住む佐々木氏の家では、妻が独りで縫い物をしている時に、隣の部屋からなにやらガサガサと物音がするものだから板戸を開いてみるも人影は無く、しばらくは縫い物を続けていたが、しばらくすると今度は鼻を鳴らす音が聞こえてきたという。ザシキワラシが住む家は名誉も財産も思うがままだという。
詳細は「座敷童子」を参照

孫左衛門家の盛衰(18話、19話、20話、21話)
ザシキワラシは女の子供の場合もあるという。土淵村山口の、山口孫左衛門の家には童女のザシキワラシが2人いると伝えられていたが、ある日、同じ村に住む男が街へ出て、その帰り道に橋を渡ろうとしていると、向かいから見知らぬ童女が2人歩いてくるのに出くわした。2人はなにやら考え事をしているようで、男はどこから来たのか尋ねてみると、山口の孫左衛門の家から来たとの事であった。行き先も尋ねてみると、ある村の豪農の家の名を答え、男はこれはおそらくザシキワラシであろう、孫左衛門の家もそう永くは無いだろうな、と思った。ほどなくして、孫左衛門の家では主従20数名が茸の毒にあたり死亡し、その間に出かけていた7歳の娘だけが生き残ったという。(18話)

孫左衛門の家である日、梨の木の周囲に見たことのない綺麗な茸が生えているのに気づき、これを食べるか否かで男たちが相談していた。孫左衛門はあまりに綺麗な茸には毒があるものだ、と食べるのを止めるよう忠告したが、一人の下男がどんなきのこであっても、水を張った桶にいれ、苧殻(アサの茎)でもってよく廻してから食べればあたることはないものだ、と言うのでこれを信じて皆は食べることにした。命の助かった娘はその日、遊びに夢中で昼飯を食べに家に戻らず、難を逃れたという。残された者たちが突然の主人の死に動転している間、生前に主人に貸しがあった、あるいは約束をしていたなどと言う者が次々に現れ、孫左衛門の家からは味噌の類まで持ち出されてしまい、この村はじまっての長者であったが瞬く間に滅んでしまったという。(19話)

これらの悲劇が起こる前にはさまざまな異変があったという。下男たちが刈っていた秣を取り出そうと鍬で掻き出していると、その中から大きな蛇が出てきた。主人の孫左衛門は蛇を殺さないよう下男たちに命じたが、下男たちはそれを聞かず勝手に殺してしまった。すると、秣の下からは小さな蛇たちが次々と出てきたので、下男たちは面白半分にそれも皆殺しにしてしまった。それだけの数の蛇ともなると捨てる場所も無いので、下男たちは屋敷の外に蛇塚を作り、そこに蛇を埋めたというが、埋めた蛇の数は竹籠で何杯もの数になったという。(20話)

孫左衛門とは村に珍しい学者で、京都より和漢の書を取り寄せては読みふけるような者であった。狐と親しくなることで家に富をもたらそうと考え、庭に祠を設置し、自ら京都に出向いて正一位の神階を得て日々油揚げを供えることを欠かさないなど、少し変人とも言われていた。そうして孫左衛門には狐も慣れ、近づいても逃げたりせず、時には首を掴ませる事も許すほどに気を許すようになったというが、それを聞いた薬師の堂守は、うちの仏様は何も供物を捧げずとも、孫左衛門の狐よりご利益があると度々笑いものにしたという。(21話)

丸い炭取り(22話、23話)

囲炉裏
佐々木氏の曾祖母が年をとって亡くなった時のこと。納棺も済ませ、わけあって気が触れたことで離縁になった娘もその日は家に集まり、親族一同が座敷で眠っていた。喪に服す間は火の気を絶やさずにいるのが慣わしのため、その夜は祖母と母が常居の囲炉裏の前で夜通し火の番を務めていた。母が炭取りを使って炭を継ぎ足していると、裏口の方からこちらへ近づいてくる足音が聞こえてきたため、そちらの方へ目を向けると、入ってきたのは亡くなったはずの曾祖母であった。身に着けた着物も生前からの特徴そのままで、皆が眠る座敷の方へ向かって二人の座る囲炉裏の脇を通ると、二人は声もあげられず、曾祖母の裾に触れた丸い炭取りだけが、ただくるくると回っていた。母は気の強い人だったので、通り過ぎた曾祖母を目で追いかけると、その先の座敷から、離縁になった娘の「おばあさんが来た」とけたたましく叫ぶ声が聞こえた。寝ていた者は皆、その声に目を覚ましたが、ただオロオロと驚くばかりであった。(22話)
その曾祖母の27日の逮夜のこと、夜更けまで知り合いや縁者が集まって皆で念仏をあげていた。用も済んで皆が帰り始めた頃、門口の石にまたしても亡くなった曾祖母の姿があった。後姿が曾祖母の特徴そのままだったので、見た者は誰もその存在を疑いはしなかったが、なぜそこに居たのかはついに誰にも解らなかった。(23話)

大同の家(24話、25話)
村の旧家を大同と呼ぶのは、大同元年(806年)に甲斐の国から移り住んだことに由来しているという。大同は坂上田村麻呂の蝦夷征討の時代であり、甲斐国は南部家の本国である。これらの伝説が合わさってこのようないわれになたのではなかろうか。(24話)
大同の祖先たちがこの地に辿り着いたのは年の暮れであった。急いで門松をこしらえたが、片方の門松を立て終わる前に年が明けてしまった。そのため、この家々では片方の門松を伏せたまま、注連縄を渡すことを吉例としているとの事である。(25話)
田中円吉(26話)
柏崎の田圃のうちと呼ばれる阿倍氏は遠野有数の旧家であり[注釈 1]、この家の先代は彫刻の巧みな者で、遠野一帯の神仏の像にはこの者の作であるものが多い。
田中家の当主は代々円吉を襲名し、二代目円吉も彫刻に長けていた。題目の円吉は文化十年(1813年)頃の生まれで明治26年(1893年)に亡くなった八代目で、土淵村本宿の石田家からの養子と考えられている。明治以前に常堅寺が京都から仏師を招いて十六羅漢や延命地蔵を作らせた際に仏像彫刻の技術を会得したという。この者の作品には土淵村山口にある薬師堂の十二神将、常堅寺の地蔵菩薩、早池峰神社の神門の随神像、田中家の薬師如来などがあり、常堅寺の仁王像移転にも関わっているという。田圃のうちの屋号を持つ田中家がなぜ安倍氏と名乗ったのか、その理由は明らかになっていない。

池端の石臼(27話)
遠野物語の位置
原台の淵原台の淵
池端の石臼

遠野の池のイメージ
遠野にある池端という家の先代の主人が宮古に用事があってその帰り道、閉伊川の辺、原台に差し掛かったあたりで若い女に出会った。この女は「遠野の物見山の中腹にある沼で、沼に向かって手を叩けば宛名のものが出てくるのでこの手紙を届けてほしい。」と頼むので、主人は訝しがりつつもこの頼みを引き受けた。引き受けたとはいえ、怪しく思いながら道を進んでいくと六部に行き会い、事の経緯を説明すると六部は手紙の内容を読み、主人に「この手紙をこのまま持っていけばあなたには大変な災いが降りかかるだろう」と言って手紙の内容を書き換えた。この手紙を持って、言われたように主人は物見山の中腹にある沼で手を叩くと、若い女が出てきてその手紙を受け取った。女は読み終えると主人を労い、お礼にと小さな石臼を主人に手渡した。この石臼は米粒を一粒入れて回すと1枚の黄金が出てくる不思議な石臼で、みるみるうちに池端の家は立派になった。だが、強欲な妻はそれに満足せず、主人が留守の合間にたくさんの米を入れてたくさんの金を得ようとした。すると石臼はひとりでに廻り続け、傍らにあった主人が毎朝石臼に供えた水を捨てていた水溜りに沈んでいき、そのまま見えなくなってしまった。その水溜りは後に小さな池となり、池端という名はこの出来事に端を発しているという。

山人 II(28話、29話、30話、31話)
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畑屋の縫(32話)

遠野物語の位置
仙磐山仙磐山片羽山片羽山権現山権現山
畑屋の縫
千晩ヶ嶽の山中には不思議な沼がある。この沼から湧き出る水のせいか谷一帯は生臭いにおいが立ち込め、山に入って帰ってきた人は何人も居ないという。昔、何の隼人という猟師が山中で白い鹿を見つけたのでこれを追っていくと、鹿は谷を越え、山を越え、この山へと逃げ込んでいった。隼人は来る日も来る日も辛抱強く鹿を待ち続け、千晩がたったころついに鹿を見つけた。鹿を撃つと鹿はさらに逃げていくが、次の山で片足が折れて、舞い戻った千晩ヶ嶽で終に息絶えた。このことから隼人が千晩待ち続けた山を千晩ヶ嶽と呼ぶようになり、鹿の片足が折れた山を片羽山、絶命した場所を死助と呼ぶようになった。死助にて死助権現として祀られているのはこの白鹿だという。
この話は三山の由来譚であり、その舞台となったのが千晩ヶ嶽、現代における釜石市の仙磐山となる。「縫」は「鵺」とされることもあり『拾遺』や『聴耳草子』などに多く取り上げられ、題目の畑屋の縫に関する伝承は遠野市上郷町細越の小字である畑屋に伝わっている。この地には「縫」を祀ったとも、殺めた「畜霊」を祀ったとも云われる畑屋観音堂があり、その棟札には延宝六年(1678年)に機屋村高橋縫之介から頼まれ、中沢村の工藤氏藤九郎が参拝に行った京都で仏師から買い求め、この年の5月14日に購入し、同月29日に届けたものと記されている。この時高橋縫之介は31歳であったという。また、釜石市甲子町には千晩神社があり、その由緒によると勧請されたのは文禄二年(1593年)頃で、次のような伝承がある。

■元文三年(1738年)機屋ノ奴ハ国守ノ命ヲ受ケ千晩山ニ九百九十九日籠リ将ニ千日ニナラントスル暁、千晩様ノ御告ニ依リ国守所望ノ鰭広ノ大鹿ヲ見付ケ之レガ俊足ノ蹄ヲ狙ヒテ少シモ傷ツケスニ射止メテ国守ニ献セリト云フ、其ノ際機屋ノ奴ノ使用セシ鍋ヲ千晩ニ納メタリト云ヘトモ今ハ無シ
—  釜石市文化財報告書 
第十五集『歴史の道 「甲子道と小川新道」』
中世の遠野は阿曾沼氏に代わって南部氏が南下して支配する一方、北上する仙台の伊達氏との間で境界にあった。旧領主であった阿曾沼広長や新支配者の鱒沢左馬之助などと伊達藩の間には三度の戦闘があり(平田・赤羽根峠・樺坂峠の戦い)、さらにその後、小友の赤坂金山の支配権を巡り南部と伊達との境は緊張状態が続いた。それを受け、藩境を明確にするために藩境塚が設置され、御境古人が任命された[37]。元禄10年(1697年)に記された「遠野領における境論争の有無についての書上」には盛岡へ出頭した古人7名の中に「鳥海長峰よりひこう峠迄之様子存候百姓縫殿」という名があり、文書に「縫殿」という名が確認できる。
あるいは、享保七年(1722年)の「御境古人共由緒書上之事」に寄るところ、遠野領の藩境には小友の五輪峠から仙人峠の仙人堂までに7人の古人が充てられ、その中にはたや六左衛門七十五という人物が書き記され、高橋縫之介とはたや六左衛門はいずれも慶安元年(1648年)に生まれたことになる。これらの事から「百姓縫殿」と「高橋縫之介」と「はたや六左衛門」は同一人物と考えられている。
仙磐山は鉱物の標本とも言われるほどの鉱産地であり、その開山譚の背景には六角牛山、片羽山、権現山、五葉山らに深い関わりを持った「畑屋の縫」がいたのではなかろうかとも考えられている。

白望山(33話、34話、35話)
遠野物語の位置
離森離森

白望山
白望の山で野宿をすると、深夜であるにもかかわらずあたりがぼんやりと明るくなる事があるとされ、秋に茸を採りに入った者達が遭遇する事が多い。あるいは、同じく真夜中であるにも関わらず、谷の向こうで木を切り倒す音や何者かの歌声が聞こえてくることもあるという。その他にも、5月に萱を刈りに山に入った際、遠くに満開の桐の花が咲いている山があり、たくさんの人がその木を間近で見ようと山に入ったが、誰一人として木の生えた場所まで辿り着くことはできなかった。また、山奥で金の樋と杓子を見つけた者がいて、持ち帰ろうと試みたというが、あまりに重く持ち上げる事が出来ない。しかたがないので、持ち合わせた鎌で削って持ち帰ろうとするも、鎌の刃がこぼれるだけで傷つけることもできない。しかたがないので一度出直そうと、木に傷を付けながら帰っていき、翌日に人を連れて再びその場所を目指したが、再びそこへ辿り着くことはできなかったという。(33話)
白望の山の峰続きに離森という土地があり、そこの小字である長者屋敷という場所はまったく人気の無い場所であるが、そのような淋しい場所であっても炭を焼いている者がいる。ある夜、髪を二つに分け、長く垂らした女が炭焼き小屋の中を覗き込んでいたという。この辺りでは深夜に女の叫び声を聞くことは少なくないという。(34話)

佐々木氏の祖父の弟が白望の山に茸を採りに行き、夜に野宿していた時のこと、谷を隔てた向こうの森を横切って、長い髪を振り乱した女が走っていくのが見えた。まるで飛んでいるかのように見えるも、すぐに消えてしまったが、その際「待てちや」と二声ばかり声が聞こえたという。(35話)
狼 (おいぬ)(36話、37話、38話、39話、40話、41話、42話)
遠野物語の位置
境木峠境木峠

境木峠
遠野では狼の事を御犬と呼び、猿の経立もそうであるが、狼の経立もまた恐ろしいものである。ある雨の日、小学校から帰る子供が、山口の村に近い二ツ石山で所々に狼がうずくまっているのを目撃した。正面から見ると生まれたての子馬ほどの大きさに見えるが、後ろから見ると存外小さい。とはいえ、狼の呻き声ほど恐ろしいものはない。(36話)

昔は境木峠と和山峠の間で駄賃付の者がしばしば狼に遭遇したという。夜に峠を越える時にはたいてい10人くらいで行動し、1人あたりの引く馬は一端綱といって、5、6頭から多くても7頭、全体で馬の数は4~50頭程度になる。ある時、駄賃付の集団が2~300匹ほどの狼に狼に襲われた事があり、その足音は山も鳴り響くほどで、あまりに恐ろしく、馬も人も一ヶ所に集まって火を焚いて襲われないようにした。それでも火を飛び越えてこようとする狼がいるので、馬の綱を解いて周囲に張り巡らしたところ、狼は訝しがり、それ以上襲いかかってはこなかったものの、朝まで周囲で吠え続けていた。(37話)
小友に住むとある老人が町に出て、その帰りの事。狼の鳴き声が聞こえたので、酔っていたその老人はその鳴き声を真似てみたところ、狼が吠えながら後を付いてきたという。さすがに恐ろしくなった老人は急いで家へ帰り、戸を堅く閉ざして息を潜めていたが、一晩中狼の鳴き声は止まなかった。夜が明けて外へ出てみると、馬屋の土台の下に穴を掘り、7頭いた馬が全て食い殺されていたという。それからこの家は身代が傾き始めたと云われている。(38話)

佐々木喜善は幼い頃、祖父と2人で山から帰る際、村の近くの川の崖の上に大きな鹿が倒れているのを見た事があるという。その鹿の腹は食い破られ、死んで間もないからかそこからは湯気が立っていた。祖父はこれは狼がやったのだろう、この鹿の毛皮は欲しいが、狼が近くに潜んで見ているからこれは取ってはならない、と話したという。(39話)

三寸(9センチ強)もあれば狼は草むらに身を隠す事ができる。草木の色の移ろいにあわせて狼の体毛も季節ごとに変わっていく。(40話)

和野の佐々木嘉兵衛が、秋も終わりに近づき、木の葉も散って山もあらわになった時期に境木越えの大谷地へ狩りに行った時のこと。向かいの峰から何百頭もの狼がこちらへ向かって走ってくるのが見えたため、恐ろしくなってこれをやり過ごそうと木に登ると、狼の群れは木の下を足音を響かせ、北を目指して走り去っていった。その頃から遠野の野山からは狼の数が目立って少なくなったという。(41話)
六角牛山の麓にヲバヤ、板小屋という場所がある。ある年の秋、飯豊村の者が萱を刈りにこの場所に行った際、岩穴の中に子供の狼が3匹いるのを見つけ、2匹は殺し、1匹を持ち帰った。それからというもの、狼は他の村の馬を襲うことなく、飯豊の村人の馬を襲うようになった。困った飯豊の村人は狼狩りを行う事にし、その中には普段から力自慢で通った鉄という男もいた。狼を探しに草原まで行くとそこには数匹の狼がいたが、雄の狼は警戒して遠くから様子を伺っていたが、雌の狼は鉄に飛び掛ってきた。鉄はとっさに脱いだワッポロ(仕事着)を腕に巻き、狼の口の中へ突っ込むと、狼は腕に噛み付いてきた。鉄は加勢を求めるも皆恐れて近寄れず、鉄は腕を狼の腹にまで押し込み、狼はその場で死んだものの、鉄の腕の骨を噛み砕き、程なくして鉄も亡くなったという。(42話)

熊と「熊」(43話)
上郷村に熊という男が居た。ある雪の日、知人とともに六角牛山に狩りに行くと、谷深く入った場所でクマの足跡を見つけたため、これを追うことにした。熊が峰を進んでいくと、岩の影にクマがいるのを見つけた。その時、すでに銃を構えるには近すぎる距離のため、熊は銃を捨てるとクマに掴み掛かっていった。知人は熊を助けようとするも、ただ斜面を転がり落ちていく様子を見届けることしかできずにいた。やがてそのままの状態で谷川へ落ち、ちょうど熊が下になった状態であったため、その隙を見計らってクマを討ち取る事ができた。熊は溺れることも無く、爪の傷跡はあったものの、命に別状は無く、この出来事は一昨年の遠野新聞(明治39年11月10日の遠野新聞第13号)にも取り上げられるものとなった。
この話では熊はクマと格闘してもほぼ無傷で生還した屈強な男と書かれているが、新聞記事の内容とは異なる部分がいくつかある。遠野物語では知人と2人で六角牛山へ入ったとなっているが、遠野新聞では篠切の季節(旧暦の10月から雪の降りはじめる季節)に佐藤末松を筆頭とする7~8人からなる一団が沓掛山で遭遇した事件とされている。熊と呼ばれた畑屋の松次郎は負傷で目も当てられない状態となり、着衣はずたずたに裂け、クマが噛み付こうとした際に拳を口に押し込んで難を逃れたために手は酷い有様で、発行時点でも治療を必要としていたとなっている。あるいは、松次郎の近所に住む高橋金助の証言によれば、こちらは怪我は負ったものの、病院へ行く必要があるような状態では無かったとされており、新聞では読み物として面白くするために誇張されていたのではないかと考えられている。
猿の経立(ふったち)(44話、45話、46話、47話、48話)

遠野物語の位置
橋野橋野林崎林崎
猿の経立(ふったち)
六角牛山の峰続きに橋野という村があり、その上にある金鉱で使われる木炭を焼いて生計を建てていた人達の中に笛のとても上手な者がいた。ある日、昼の間に小屋で寝転んで笛を吹いていると、小屋の入り口でなにやら気配がしたのでそちらを見てみるとそこには猿の経立がいた。驚いて起き上がると、おもむろに走り去っていった。(44話)

猿の経立は人と同様に女を好み、里の女性をさらっていく事がある。また、毛を松脂で固め、その上に砂をつけているため、体毛は鎧のようになり鉄砲の弾も通らない。(45話)

栃内村の林崎に住む何某という50歳に近い男が、10年ほど前に六角牛山へ鹿撃ちに行った時の事。鹿を呼び寄せるためにオキ(鹿笛)を吹くと、猿の経立が姿を現した。笛の音を鹿の鳴き声と思ったのか、大きな口を開け、竹を掻き分けて峰を下ってくるので驚いて笛を吹くのを止めると、経立もそれに気づき谷のほうへ走り去っていった。(46話)

遠野では子供を戒める際、六角牛山さんの猿の経立が来る、とよく聞かせる。この山には猿がそれほど多く、緒桛の滝を見に行けば、崖の梢にはたくさんの猿がいる。中には人を見ると、逃げながら木の実などを投げつけてくる猿もいる。(47話)

仙人峠にも猿がたくさんいて、旅人などに石を投げつけて楽しむ猿もいる。(48話)
仙人堂(49話)

遠野物語の位置
仙人峠仙人峠

仙人峠
仙人峠は登りが15里、下りが15里あり、その中間地点には仙人の像を祭ったお堂がある。そして、このお堂の壁は旅人たちが山中で遭遇した不思議な出来事を記すのが昔から慣わしとなっていた。例えば、何月何日の夜に越後から来た者が山中で髪を長く垂らした女に遭遇したところ、女はこちらを見てにこっと笑った。あるいは、猿にいたずらをされた、三人の盗賊に遭遇した、といったことが書き記されていた。
実際は遠野側の沓掛からと釜石側の大橋からでは、大橋からの方が2倍弱の距離があり、厳密には中間地点ではない。この峠には仙人が住むと伝えられ、昭和に入ってからも団体写真を撮れば1人多く写ると云われてきた。昭和10年代に遠野の市川洗蔵によって雨風がしのげる程度の堂が奉納され、その後、トンネルが開通したことにより人通りが少なくなってからは仙人堂の本尊は上郷町佐生田へと遷された。

花 いろいろの鳥(50話、51話、52話、53話)
死助の山には5月の閑古鳥の鳴く頃になるとカッコ花が咲き、遠野の女や子供達はこれを採りに山へ行く。酢に漬けておけば紫色になり、酸漿の実のように吹いて遊ぶこともあり、若い者達の恰好の娯楽となっている。(50話)
山には様々な鳥が生息しているが、最も寂しい声で鳴くのはオット鳥である。夏の夜中に大槌町の方からやって来る駄賃付けの者などが峠を越える際、谷底の方から聞こえてくるという。この泣き声には謂れがあり、かつて長者の娘が親しくしていた男と山へ行った時のこと、気がつくと男の姿を見失ってしまったという。娘は夜になるまで探し続けたが、結局見つける事ができず、終に鳥になり、哀れな泣き声で探し続けているという。(51話)
馬追鳥はホトトギスに似ているが少し大きく、羽の色は茶を帯びた赤で、肩には馬の綱のような縞が、胸の辺りにはクツゴコのような形がある。この鳥にも謂れがあり、ある長者の奉公人が山へ馬を放しに行って、帰ろうとすると1頭足りないことに気がついた。夜通し居なくなった馬を探して山を彷徨うが見つからず、終には鳥になってしまったという。馬追鳥は「アーホー」と鳴き、この地方では馬を追う際に似た声を上げるのだという。また、この鳥は時折里に来て鳴く事があるというが、これは凶作の前触れとされている。(52話)

郭公と時鳥は前世で姉妹であったと伝えられている。ある時、姉が掘った芋を焼き、周りの堅い部分を自分が食べ、真ん中の部分を妹に与えた。すると、妹は姉がおいしい部分を独り占めしているものと考え、憎らしくなり姉を包丁で殺してしまった。姉は鳥になり、方言で堅い部分を意味する「ガンコ、ガンコ」と鳴いて飛び去ってしまった。妹は姉が自分によい部分をくれていたのだと気づくも悔恨にさいなまれ、同じく鳥となって「包丁かけた」と鳴いているのだという。(53話)

閉伊川の機織淵(54話)
遠野物語の位置
小国川と閉伊川の合流地点小国川と閉伊川の合流地点

閉伊川の機織淵
閉伊川の流域には淵が多く、これにまつわる伝説も多数残されている。小国川との落合に川井という村があり、そこの長者に奉公する男が淵の近くで木を切っていると、誤って淵に斧を落としてしまった。主人の斧を無くしてはいけないと、男は淵に潜って斧を探していると、水底に近づくとなにやら物音が聞こえてきて、この音のする方へ近づいてみると、岩陰に家がある事を発見した。家を覗いてみると中では美しい娘が機を織っており、機織台の傍には落とした斧が立てかけてあることに気がついた。斧を返してもらうよう声をかけると女は振り返り、その女は2~3年前に亡くなった長者の娘であったという。「斧は返すので、私がここにいることは誰にも言わないで下さい。約束するなら財産を増やしてさしあげます」と女が言い、それ以降、男は博打で勝ち続け、自分の田畑を持てるくらいに豊かになったという。しばらくその女の事も忘れて生活していたが、ある日町へ出る際、その淵の近くを通りかかったものだから男は連れ立った友人にその事をつい口にしていしまうと、あっというまにその話は村中に広まってしまい、その頃から家産は傾き始め、終いにはまた長者の下で奉公する生活に戻ってしまったという。この話は長者の耳にも入り、長者は何を思ったのか人を使ってその淵に熱湯を注ぎこませたというが、淵は特に変化も無く、そのままあり続けているという。
河童(55話、56話、57話、58話、59話)

河童淵 河童

鉄砲撃ち(60話、61話、62話) まで 
続きあり(以下割愛した)  資料ウイキペディア 

遠野物語バージョン.2 に送る


YouTube検索で、「遠野物語」があったので丸々引用した。これで半日分の労力手間暇が省けた。

バージョン.2では、動画を作る予定。 
(地方神楽音源挿入) .神楽保存曲 (#神楽平凡ccc02.mp3)

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