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いまでもある昔の風習

話しは伝承ですから、かつては実在した生活の一部でした。いまでしたら、人身売買などご法度ですから、しませんが、その当時では、大真面目にいけにえを神にささげた、ようでした。

じゃ、神がそれを食ったり弄んだりするかといったら、そんなの見たことないし、あったとすれば人間のやる猟奇的事件などで、現代でもオカルト映画などであります。

昔は~、今ほど科学的ではありませんから、雨が降らないと神の悲しみとか、地震は大神の怒りとか理由をつけたのでしょう。

ではいまの気象衛星で、世界の天気が測れるかと云ったら、世界的な温暖化統計は測りますが、予想はできない。いや、それが判ったとしたら余計にパニックになってしまう、という観測もあるようです。

ですから、とりあえず「火星」に別荘を作る、というのが人間の底の浅い知恵のようです。

生贄(いけにえ)とは、神への供物として生きた動物を供えること、またその動物のことである。供えた後に(伏字にした)?、・・・、してすぐに供えるもののほか、・・さずに神域(神社)内で飼う場合もある。
『旧約聖書』『レビ記』にある贖罪の日に捧げられるヤギは、「スケープゴート」の語源となった。
動物だけでなく、人間を生贄として供える慣習もかつてはあり、これは特に「人身御供」と呼ぶ。

日本では 、『日本書紀』皇極天皇元年(642年)に牛馬を生贄にしたと言う記録があり、6世紀末 - 7世紀頃の遺跡からは考古学的資料として牛の頭骨が出土する事がある(道教呪術儀礼の影響による)。これは雨乞い儀式の一環であり、農耕にとって重要かつ貴重な労働力(存在)たる牛馬を殺し、それを神に奉げる事によって雨を降らそうとしたものである(河伯信仰ともかかわってくる)。

日本神話では、ヤマタノオロチの生贄として女神であるクシナダヒメが奉げられようとしたが、スサノオがオロチを退治して生贄を阻止した話が有名。
一説に、生贄行事を廃止させたことを物語に(神話化)したともされる。女性が荒ぶる神を鎮めるために身を奉げた神話としては、ヤマトタケルの妻であるオトタチバナヒメの話もある(これも水神に関わる)。

律令時代では、生贄の馬だけでなく、木製・土製の馬形細工も祭祀に用いられ、現在でも見られる絵馬と共に出土する。福島県いわき市の荒田目条理(あっためじょうり)遺跡からは、木製・土製の馬形細工と共に、馬の下顎の骨、そして「赤毛牝(めす)馬」と書かれた木簡と絵馬が出土しており、馬骨の一部しか出土していないが、生贄にされた馬の毛色や性別などの詳細な情報も分かっている。

『続日本紀』延暦6年(787年)11月5日条には、生贄の獣肉を焼き、天帝を祭る「燔祀(はんし)」の儀礼を行ったことが記述されている。一方で、延暦10年(791年)9月16日条では、「伊勢、尾張、近江、美濃、若狭、越前、紀伊などの国々の人民が、牛を殺して漢(あや)神に奉げ祀ることを禁止した」とあり、国家的祭祀としての生贄(中国式儀礼の燔祀)を行う一方で、民間の労力たる牛を殺める生贄は禁じている。(シシリー島ゴッドファーザー)

水神以外にも馬は生贄として奉げられた。古代、交易のために渡来した人達が疫神をもたらすと捉えられたため、中央に迎える前に、疫神を鎮め清める焚火と馬などを生贄にする儀礼が行われた。

そのため、古代の貿易拠点からは馬骨が出土する。石川県羽咋市の寺家祭祀遺跡は、9世紀頃に交流が盛んだった渤海人を迎えるために、ここで疫神に馬を奉げたと考えられており、焚火跡(焼土跡)と馬骨が出土している。

具体的な伝承例として、宇都宮の二荒山神社に源義家が前九年の役(1062年)後に生贄と兵器を奉献したとされる(11世紀中頃、中世期の生贄の一例で、戦勝参り)。

兵庫県赤穂市の堂山遺跡の塩田跡からは、鎌倉時代の馬一頭分の骨が出土しており、近くから漆器椀なども出土していることから、生贄の馬を奉げた祭りの痕跡と考えられている。

南方熊楠の「山神オコゼ魚を好むと云うこと」であるように、神に贄として魚を捧げることがあった。神が二つ目あるものより一つ目のものを好むことから、また神に捧げる魚と通常の魚を区別するために魚の片方の目を傷つけ、「片目の魚」として神に捧げることがある。

『吾妻鑑』建暦2年(1212年)8月19日条には、守護・地頭に対して、鷹狩禁断令が出されたが、「信濃国諏訪大明神の御贄(ごにえ)の鷹においては免ぜられる」と記してあり、武家法で鷹狩が禁止されても、神に奉げる贄においては特例として使用を認めている。

旧三月酉の日、合計75頭の鹿の頭部を諏訪神社の信仰圏の村々が献じる。また、この地方では好猟を期待して、鹿の頭を氏神に捧げ、願いが叶うと鹿頭の角に注連縄を張るという。

菟足(うたり)神社の風祭では神前で猪を殺す神事があった。しかし、その猪はいつの頃か雀に変わった。これ対し加藤玄智は、佛教史学第一編第10号60頁―63頁(高木敏雄「日本神話伝説の研究」岡書院 大正14年1925年5月20日496頁にて引用)で、「柳田君(柳田國男)も擧げられ居るのでありますが、三河の莵足神社の風祭に昔は女子を犠牲にして居ったのでありますが、後之を猪及び鹿若しくは雀の犠牲を以って之に代えたと伝えて居る如きは明らかに人身供犠に代えるに動物を以てした一例であると思う」と記している。この点、高木敏雄は加藤玄智とは考えを異にしており、人身御供は動物や金銭では代替できないとしている。(資料ウィキぺデア)

「大元神楽」
大元神楽には他の神楽にはもう見られなくなったさまざまな特徴がある。第一の特徴は、大元神楽には、カミさまが降りてこられ、神がかりになることもある点。大元神楽では、現在多くの神楽で見られるような氏子の舞だけではなく、神社の神職さん達によって舞われる神事舞が受け継がれている。このなかでも「託舞」と呼ばれている神がかり託宣の場となるわら蛇の舞が、神職舞として中核を占める。

大元神楽のこの部分は、いま神がかりに至るまでの手順と方法を正確に残す数少ない神楽であるといえる。舞手の気持ちがひとつになるとき、神がかりすることも確かにある。

ご先祖様を祭る祖霊神だったと考えれており、非常に多くの場所で祀られている。同じ集落にいくつもの大元様が祀られていることもあるほどである。これらの小さな神々を古くからの集落単位でくるんで、合同の大元祭祀が行われている。

幕末から明治期にかけて石見地方の西部で起こった新しい神楽の様式は従来の神楽と比べてテンポが早く、大元神楽など古い型の神楽を六調子、比較的新しい石見西部の神楽を八調子と言っている。八調子神楽の場合、この早い調子に合わせて見せる要素が強調され、衣装や小道具もきらびやかなものになり、見せるための工夫によるが、大元神楽では伝統的な六調子が守られている。
島根県江津市桜江町(旧邑智郡桜江町)
「大元神楽」 国の重要無形民俗文化財に指定

昔からの神楽のかたちが色濃く残された託太夫

神霊が託太夫(たくだゆう)の体に憑依(ひょうい)し失神状態に陥った託太夫が神託を発するという、今日では数少なくなった神がかり、託宣の形態がみられ、このような古風を残している点に大元神楽の特色 ...託太夫

「神籬」天穂日命の神籬
神籬(ひもろぎ)とは、神道において神社や神棚以外の場所において祭を行う場合、臨時に神を迎えるための依り代となるもの。
「ひもろぎ」(古代には「ひもろき」)の語源は、「ひ」は神霊、「もろ」は天下るの意の「あもる」の転、「き」は木の意とされ、神霊が天下る木、神の依り代となる木の意味となる。

※異説:檜(ひのき)榁(むろのき)松(まつのき)などのように、待ち合わせの目印となる高木。会う、群がる木の意。但し、末尾の「き」とは甲類で乙類の「木」と音韻上違い、語源的には無関係である。漢字の「神籬」は宛て字であり、「籬」は竹や柴で作られた垣根を意味する。
なお、「垣」も垣根を意味するが、こちらはもともと土塀(土で作られた垣根)を意味していたのが、広く垣根全般を指すようになったものである。ちなみに、「垣籬(えんり)」あるいは「籬垣(りえん)」という熟語もまた、竹や柴の垣根を意味する。なお、「神籬」の本来の読み方は「かみがき」「みづがき」であった。「胙」「膰」「燔」にも「ひもろぎ」の字訓が宛てられているが、これらの元々の意味は神前に供える肉であり、「神籬」と表記する場合とは大きく意味が異なる。

日本神話の天孫降臨において、高御産巣日神(高木神(たかぎのかみ)とも呼ばれる樹神)は、天児屋根命と太玉命(祭祀を行う忌部氏の祖とされる)に、「天津神籬と天津磐境を起こし樹(た)てて、常にわが天孫のために斎(いわ)い祭りなさい」と命じたとされる。


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人身御供の伝承を今に 大阪・野里住吉神社の一夜官女祭
関西タイムライン
2021年2月18日 2:01
大阪市西淀川区の野里住吉神社で毎年2月に開かれてきた「一夜官女祭(いちやかんにょさい)」は、人身御供の伝承を今に伝える珍しい祭りである。神の託宣で少女を生贄(いけにえ)として唐櫃(からびつ)に入れ、神社の池のほとりに置いてささげたという伝説があり、祭りでは生贄役の官女が選ばれて神事が執り行われる。祭りの由来を遡って見えてくるのは、かつて人々を苦しめた水害だ。

野里一帯は淀川河口に近く、1909年に新淀川が開削されるまでは、支流の中津川が蛇行しながら東側を流れていた。

少女7人を神前に
祭りは神社を氏神とする野里、姫里、歌島の3地区が交代で担ってきた。行事を取り仕切る当矢(とうや)と呼ばれる家、7人の少女が選ばれ、20日、迎えに来た神職らを前に親と別れの盃(さかずき)の神事をした後、神社に向かう。

19日に行われる神饌(しんせん、神にささげる食事)の調理も重要な儀式だ。餅や蒸した米、豆腐、大根、小豆などとともに、生きているコイ、フナ、ナマズが調理され、7人の官女用に7つの夏越桶(なごしおけ)に入れられる。この桶も官女らとともに当矢から神社に運ばれ、社殿内におかれる。

桶ごとに入れる神饌は決まっており、7人のうち贄(にえ)と呼ばれる1番目の子の桶には魚は入れられない。20日に社殿で行われる神事の際、この子が脱いだ履物はすぐに隠される。ともに少女自身が生贄としてささげられ、戻ってこないことを暗示する決まり事だ。

新型コロナウイルス禍で今年は神饌の調理や神社内での神事のみ行い、官女が参加する行事は省略する形にした。

神社には元禄15年(1702年)と墨書された桶が伝わっており、300年以上前から祭りが続いてきたことを示している。戦国時代の豪傑、岩見重太郎が身代わりに唐櫃に潜み、生贄を差し出させていた邪神(大蛇、狒々〈ひひ〉)を退治したという伝承があるが、祭りの始まりは定かではない。

伝承は時代とともに変化することがある。後世脚色された可能性のある部分を除いて祭りの歴史を遡ると、村人が恐れ、逃れたいと苦しんでいたものの正体は、うねるように急に襲いかかってきた中津川の洪水だったようだ。鎌田義昭宮司は「この地は川の氾濫で何度も壊滅的な打撃を受けたことがあり、一夜官女祭はそうした歴史を伝えていく意義がある」と語る。

時がたって変化するといえば、「白羽の矢が立つ」は今、多くの人の中から抜てきされるという良い意味で使われることが多いが、この祭りのように生贄を差し出す家に選ばれる意味があった。犠牲となる少女に選ばれることも祭りでは名誉となり、当矢は地域の有力者が務めてきた。

自然への畏怖今も
昔は夜が主体だったという祭りの行事は現在、20日午後に行われている。多くの人が集まる部屋が必要な当矢選びも難しくなり、近年は地域の会館を使っている。「官女の親は付き添いで行事に参加する。平日に休まねばならない祭りを負担に感じる人が増え、官女選びも簡単ではなくなってきた」。歌島地区の氏子総代の一人、渡辺剛さんは語る。

住民の困窮と神の託宣をもとにした人身御供伝説は各地にあるが、祭りに昇華させて伝えてきた一夜官女祭は極めて珍しい民俗文化財といえる。祭りの記録を残すことに尽力した故池永悦治さんから教えを受け、野里地区の伝統行事などのガイドをしている井川聡江さんは「一夜官女祭の由来や伝承を知らない住民は意外に多く、見たことがないという人もいる。若い人たちにもっと地域の歴史を知ってもらい、伝えていけるようにしたい」と話す。

21世紀の都市に、昔の人々の大自然への恐れや強い祈りを感じさせるこうした行事が残っていること自体が奇跡に思える。(編集委員 堀田昇吾)

ひもろぎ・解釈(筆者)
「ひもろぎ」これらは「原始宗教」の原義に語られているものである。ふるくはアミ二ズム《アニミズム(英語: animism)とは、生物・無機物を問わないすべてのものの中に霊魂、もしくは霊が宿っているという考え方。19世紀後半、イギリスの人類学者、E・B・タイラーが著書『原始文化』(1871年)の中で使用し定着させた。日本語では「汎霊説」、「精霊信仰」「地霊信仰」などと訳されている。この語はラテン語のアニマ(anima)に由来し、気息・霊魂・生命といった意味である。》に云いつくされる。

ここで紹介した島根県江津市桜江町の「大元神楽」などは、そうした原型を忠実に伝承したスタイルの日本の「神楽」である。また「ひもろぎ」の空間は、原始宗教スタイルとして、いまでも生活空間の中に存在する。ただ、われわれ現代人が、それに気付いていないだけである。

ウイキペディア

昨今メディアの風聞で「パワースポット」と称して、どこそこの何々、と解説され現地にいくが、さっぱりそれがわからない、という誤解も生じる。
その対象が石とか木とか裏の山とか、風景の一部であるために、ナア~ダ、ということになる。はっきりいって宗教とは、そうしたものである。

そして話をもっともっとさかのぼると、「人身御供」のいけにえの話しになる。

生贄(いけにえ)とは、神への供物として生きた動物を供えること、またその動物のことである。供えた後に殺すもの、殺してすぐに供えるもののほか、殺さずに神域(神社)内で飼う場合もある。『旧約聖書』『レビ記』にある贖罪の日に捧げられるヤギは、「スケープゴート」の語源となった。

動物だけでなく、人間を生贄として供える慣習もかつてはあり、これは特に「人身御供」と呼ぶ。
だから昔の人は(1万年前)そうすることで神を崇拝しカタチとてし色々なものを奉げた。その一番わかりやすいものが 「献饌」(けんせん)という儀式で、人間と同じ食べ物を、神前に供えて、さあ食してくださいと奉げるわけだ。いけにえと同じに、神の望みに供する行為で、生きた人間の場合もある。(霊的存在が肉体や物体を支配する、という精神観、霊魂観、日本で言えば「依り代」に近い観念は、世界的に広く宗教、習俗の中で一般に存在している)、という考え方になる。すべては概念上で構築される。

ただし、その相手がオンナとオンナの場合であると、それは修羅世界を超現実に具現した地獄図に変容する場合もある。
※ユーロビジョンに出場した「コンチータ・ウルスト」(本名:トム・ニューワース)。今回彼はオーストリアの代表として歌謡祭に参加した。

それをみた刹那、そう感じた。みてはいけないもの、あってはならないもの、が目の前に展開している恐怖、そのことだった。
メソポタミア、ギルガメシュ伝説『ギルガメシュ叙事詩』(紀元前2600)は、メソポタミアの歴代王が杉材を求めてレバノンに遠征した事実を神話にして語ったもの。すでにこの時代より、「化け物」が出現し、人間世界の愚行のいましめとして悪魔(精神性)退治がはじまる。そこには観るも恐ろしい悪魔化身が人間に襲い掛かる。

その時代より悪魔退治の話しはあったが実際、そのビジュアルがあったわけではなく、人間の心奥底に棲息する悪魔が突如として出現するという、自分でも身に覚えのある心理的作用の現れなのだ。

従って4616年前のレバノンだろうが2016年の東京だろうが、まったく境界、時間をすり抜けて目の前に現れる。
社会で起きているニュースは、まったくそれをリアルタイムで映像化しているに過ぎない。そしてそれはアッという間に過ぎ去ってしまう。
時間と空間の中を高速で走り去る物体の重さは、速さに比例するという法則を発見したのはアインシュタインである。
※特殊相対性理論は「物理法則はすべての慣性系で同一である」という特殊相対性原理と「真空中の光の速度は、すべての慣性系で等しい」という光速度一定の原理を満たすことを出発点として構築され、結果として、空間 3 次元と時間 1 次元を合わせて 4 次元時空として捉える力学である。
運動量ベクトルは、第 0 成分にエネルギー成分を持つ 4 元運動量 pμ(または p)として扱われ、運動方程式は・・・がなりたつ。

この式は、質量とエネルギーが等価であることを意味する。反応の前後で、全静止質量の和が Δm 減るならば、それに相当する Δmc2 のエネルギーが運動、熱、あるいは位置エネルギーに転化されることになる。

なお、これは原子核反応に限ったものであるという誤解があるが、実際には原子核反応の観測により実証されたというのが正しい。
質量とエネルギーが等価であることは、原子核反応に限った話ではなく、全ての場合において成り立つ。
例えば、電磁相互作用の位置エネルギーに由来する化学反応では、反応の前後の質量差は無視できるほど小さい(全質量の 10-8 % 程度)が、強い相互作用の位置エネルギーに由来する原子核反応ではその効果が顕著に現れる(全質量の 0.1 - 1 % 程度)というだけの話である。水力発電のような重力の位置エネルギーに由来する場合であっても、質量とエネルギーの等価は成り立つ。 (資料ウィキぺデア)


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