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個性は幻想というロジック

2023年04月01日記事

個性は幻想…アメリカの精神科医サリヴァンが指摘した「意外な現実」と「その危うさ」

2023/4/1(土) 6:03配信  現代ビジネス 
「個性なんて幻想だ」という言葉を、自分個人の価値を否定されたと捉えるか、「個性的であれ」という規範意識からの解放と捉えるか、あるいは単なる事実の指摘だと思うか、はたまた過激な主張だと思うかは人それぞれだろうが、「個性とは幻想である」といった精神医学の先駆者がいる。アメリカのハリー・スタック・サリヴァン(1892-1949)である。
サリヴァンの『個性という幻想』(講談社学術文庫)を手がかりに、このことについて考えてみよう。
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人間は相違点より共通点の方が多い

 サリヴァンは「科学では一個体にしか現れない差異については取り扱わない」と言う。生物学にしても物理学にしても、あるいは社会学でもたしかにその通りだ。統計を重視し、再現性を重視する。したがって精神医学もそうであるべきだと考える。人間はお互いに「違っているところ」よりも「共通しているところ」の方がずっと多いのだ、と。ある講演で「『真の』自己、一人ひとりに特有の自己などありえないと仰るのですか?」という質問に対して、サリヴァンはこう答える。どれほど「個性」に自信をもっているひとであろうとも、日々きわめて限られた範囲内の行動しかとっていないことは、統計学によって証明可能なファクトです。どれほど個性があろうとも、ほとんどの局面でその他大勢と同じことをするのです。
 人間が没個性的であることと、それぞれが特有の対人パターンを繰り返すものであるという二点は、いずれも客観的観察に基づく妥当なステートメントです。(引用はすべて『個性という幻想』より。以下同じ)
 たしかに大抵の人は食事や排泄をし、寝る。足がどれだけ速い人でも、チーター並みの速度では走れない。人間のすること、できることは、ある一定の幅に収束する。個々人の個性や才能は、どれだけ優れたものであっても、巨視的に見れば一定の幅に収まる程度の差異に過ぎない。
人間は置かれた場所の作用を受ける サリヴァンの「個性とは幻想である」という発言が意味するのは、人間個々人には実際のところたいした差異はなく共通点が多い、ということに留まらない。人間は「個人」が基礎単位なのではなく、人と人との相互作用が基盤にある、という考えも含んでいる。
 『個性という幻想』の訳者・阿部大樹氏は、サリヴァンは、一個体を対象とする医学の一分野ではなく、集団内の相互作用を対象とする社会科学のなかに精神医学を位置づけなおした、と言う。
 再びサリヴァンの言葉を引こう。
 社会化は、それぞれが生きる社会秩序によって現れるものです。一群となった行政システム、感情移入によって正しいと感じ取られる所作、伝統、偏見、流行風俗などが、いつでもどこでも自然発生すると考えることはできないように思うのです。

 たとえアインシュタインの頭脳をもって生まれた乳児も、あるいは人類の全歴史を覚えている子供であっても、やはり一から文化を学ばなくてはならないことになります。そうでなくては、周りに理解してもらうことができませんから。周りから理解されることなしには、内省を膨らませることができません。

中略

 すなわち生化学的世界があらゆる生物にとって必須であるように、文化、社会体制、あるいは言語や定式化された概念などが含まれる環境が人間にとっては必要不可欠なのです。そうであるからこそ、孤立しているとか、空想ばかりで実のある交流を失っていると、それまで高度に社会的だった人物であったとしても堕落してしまいます。
 人間は置かれた環境から影響を受け、ほかの人間との関係のなかで社会化していくのだから、社会から切り離された個人などありえない、というのがサリヴァンの考えだ。
 集団やメディアから、あるいは特定個人からメンタルに対して大きく影響を受けるし、逆に、与えることもできる。
 集団全体に作用するプロジェクトを仕込もうとしている人たちは、現に存在する。個性や人格なるものが確固たるものではなく、移ろいやすい可変的なものだという考えは、今に生きる私たちに馴染みやすい。しかしそのことが意味する危うさに気付いている人は、意外と少ないのではないか。『個性という幻想』は、その表裏に気付かせてもくれる。
飯田一史


■サリヴァンの「個性とは幻想である」という発言が意味するのは人間個々人には実際のところたいした差異はなく共通点が多い、ということに留まらない。人間は「個人」が基礎単位なのではなく、人と人との相互作用が基盤にある、という考えも含んでいる。『個性という幻想』の訳者・阿部大樹氏は、サリヴァンは、一個体を対象とする医学の一分野ではなく、集団内の相互作用を対象とする社会科学のなかに精神医学を位置づけなおした、と言う。 部分引用

それは、とても判りやい解説で、個人、とか個性、その性格とか、判っていそうで、その実、まったく理解していない「自分」のアイデンティティーをギリシア哲学的に、文言変換すると、その像が明確に浮かびあがるようです。

ここ数日、このnote記事有料化にあたって、いろいろ方法論とか、記事内容とか思案しましたが、それこそ私の「個人」スタンスが明確でないと、そうはならないわけです。
その対極としての、著名人とか社会的に知名度が高い人など、noteの場合だと、有名作家とか、画家、ITクリエイターになるでしょうが、いってみればそれは隣の芝生、を観察しているようなもので、その実際を知らないのに自分で想像し、こうあるべき、と仮想空間をシュミレーションしているのでしょう。
それと自分を対比しているわけですから、そこからリアル感は、空想化しているわけですね。これを読んでる皆さんも、ほぼそれに準じているとおもわれます。

いや、それが「マス」というシステムで、大袈裟に云うと、皆がそれと同じことをする、というのが経済の基本ではないかと分析しますが。

それを専門にして知名度を上げたのが成田悠輔氏で、イエール大学で教鞭をとっている人物でした。(re;hackは単なる添え物)

民主主義の未来 優位性後退、崩壊の瀬戸際に
独立行政法人経済産業研究所 成田悠輔 2021年9月6日掲載

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