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政府とメディアに乖離する世論社会

首相、ロシア全土攻撃強く非難「核」使用「予断許さず」 
2022/10/12 共同 岸田文雄首相は11日夜の先進7カ国(G7)首脳のオンライン形式の緊急会合で、ロシアの核兵器使用の可能性について「状況は全く予断を許さない。77年間、世界は核兵器の使用をずっと止め続けてきた。核兵器不使用の歴史は継続しなければならない」と訴えた。ロシアによるウクライナ全土への一斉攻撃について「民間人への攻撃であり、いかなる理由であれ、正当化できない。強く非難する」と強調した。

ウクライナ海軍歩兵隊対ロシア空挺隊、1つの村をめぐる激戦が南部のカギを握る 政治経済 2022/10/11 17:30(forbes.com)
https://forbesjapan.com/articles/detail/51004?n=2&e=48953

先週末ネットに公開された劇的な動画は、ウクライナの第35海軍歩兵旅団とみられる海軍歩兵隊が、ウクライナの穀倉地帯であるヘルソンの戦地に並ぶ狭い森林帯の隠れ場所から出てくる様子を映し出していた。海兵隊は整列して前進し、T-64戦車列を先頭に、歩兵輸送車キルピ、偵察戦闘車(BRDM)らが続いた。 部分引用

それを社会は、どう見聞きしているか?

そうした「有事」ニュースは、このSNSサイトでも、毎日頻繁に掲載されているが、実際のところ、それを注視して読んでいる社会購読者が、どの位いるのかという実態数は知る由もないし、誰がよんでいるかという疑問もある。(国際ニュースとして必須項目である)

また、ここ2.3日の国内政府見解では、北のロケット発射と、核攻撃に言及した記事が、出るようになっており、にわかに緊張の色が、濃厚のようだが、それが政府扇動なのか実際の話しなのか国民はしる術がない。

北のロケット日本上空飛翔事件にしても、「はなはだ遺憾」見解ばかりで、それはすでにオオカミ少年化しており、その先の先手布石を用意しているのかという疑問があっても、手の内は明かせない、という戦略上、それしかないという常とう句は、ますます国民を不安にさせる。
思えば先の戦争時の端緒の似たような曖昧さの中から始まった、ような気配がしないでもない。

そんな中の、冒頭上記ニュースは、一触即発の危険をはらんでいるが、では、その記事を見聞している社会民は、どうなんだろうかという疑心暗鬼は、常につきまとう。

このnote上でも、それに関する有事関連と、戦争歴史の題材を扱った記事を拝見することがあるが、総じて枝葉末節的な、部分解説が大多数で、それに至った経緯が抜けているように感じたので、私なりの戦争歴史始末記事を、断片的に書いてみたい。

題材人物は「石原莞爾」という一軍人だが、戦争上の歴史的人物としては名を馳せていないので無名に近いが、歴史の要所要所に携わっていたタイプとし、取り上げた。(そもそも2.26事件の進路を左右し満州国建国に携わった人物である)

その「石原莞爾」を研究することによって明治維新よりの日本建国の歴史が、その世界標準と、どこでその方向を違えてしまったのかがみえて来る。

2022年10月12日記事

有事に学ぶ「戦略家思想」(石原莞爾)
石原莞爾の思想 -歴史というダイナミズムの捉え方
松下政経塾 源馬謙太郎/卒塾生 2006/8
「石原莞爾」 その名前にはさまざまなイメージが付きまとう。彼自身のその複層的なイメージそのものが、日中戦争から大東亜戦争へと引き込まれていった日本の複雑な情勢を顕しているともいえる。
 本稿は石原莞爾とその思想を俯瞰し、その中からわれわれは何を学ぶべきであるかを考察するものである。画像ウイキペディア


ウイキペディア


1.はじめに
 石原莞爾と聞くと、一般的な評価としては、満州事変を引き起こし日本を戦争へと導いた「戦争犯罪人の一人」というイメージが語られることが多い。他方では、日中戦争を世界平和のための戦争と捉えた平和主義の先駆者という見方もある。

 旧日本陸軍の中でも卓越した天才的戦略家であり、「戦争の天才」と称されていた。またその知的側面から「狡猾な陰謀家」とも「精緻な理論家」とも評されている。思想面では天皇を中心とする国家観を強靭に持つ典型的帝国軍人であると同時に、日本という国家を超える理想のビジョンを持ち、勤惰文明のダイナミズムを信奉する国家主義者でありながら、都市文明の解体を予見したユートピア主義者であった。

 そのどれもが実際に石原が持っていた側面であるだろう。その彼が大東亜戦争の時代に生き、そして戦後まで生き残った。その彼の思想は現代の日本に何を残したのだろうか。以下に石原の経歴とその思想を考察し、そこから現代日本が学ぶべきことを考察してみたい。

2.石原莞爾とは
 石原は1889年1月18日に山形県鶴岡市に生まれる。父石原啓介は警察官である。1915年には陸軍大学校に入学。陸軍大学校創設以来かつてない頭脳の持ち主といわれ、三年後には次席で卒業する。歩兵連隊中隊長、陸軍大学教官などを経てドイツに駐在し、軍人としてのキャリアを積み上げていく。この前後に日蓮宗系の国柱会に入会しているが、この日蓮宗の教えが彼の後の思想に大きく影響している。

石原がその特異な才能を発揮するのは、満州事変からである。

 後述するように石原は満蒙領有の構想が示したが、結局は陸軍中央、関東軍内部との調整の結果、満州国家を独立させる方針を採ることになるが、1931年の柳条湖事件を機に満州事変が始まる。兵力は関東軍1万人に対し中国軍は25万人(別の資料によれば、公安隊を含め45万人)と、圧倒的に不利な状況であった。また装備も自動小銃など中国軍の方が良いものが多かったにもかかわらず、たった5ヵ月で満州全域を占領、翌年3月1日には「満州国」を建国した。これは、第2次世界大戦における、ドイツの電撃作戦(対ポーランド・フランス)に匹敵する戦果であったため、作戦の立案・実施を行った石原は「戦争の天才」と称されようになったのであるが、この戦勝をきっかけとして石原の思惑とは裏腹に、日本は中国軍の実力を極端に軽視し、戦火を拡大する方向に傾いていく。

1937年7月7日の北京西南の盧溝橋で起った日本軍と中国軍との一軍事衝突は、華北地方に拡がり、更には上海・南京へと飛び火して、全面戦争へと拡大していった。この時、参謀本部作戦部長であった石原は戦線が泥沼化することを予見して不拡大方針を唱え軍部中枢と対立し、さらには後に参謀長の東条英機との確執から予備役に回されることとなる。対ソ戦を最優先に考えると今中国と戦争するのは得策ではない、また来るべき最終戦争では東亜の一員である中国とも協力してアメリカと対抗しなければならない、と考えていたからである。しかしながら、現地の部隊にも国内の陸軍中央にも強硬派が多数を占めていた。満州事変が5ヵ月で終わった経験から、中国全土を支配するのも短期間で済むだろうという楽観的な考えが支配的だったのである。やがて石原は不拡大方針を引き下げるしかなく、本格戦争へと発展していったのである。

 戦後は東条との対立が有利に働き、極東軍事裁判においては戦犯の指名を受けず、東亜連盟結成に奔走しながらマッカーサーやトルーマンを批判した。東亜連盟の構想は、戦後の右翼思想に大きな影響を与え、また中国や韓国にも支持者が多くあったといわれている。

 その後立命館大学で国防学の教鞭をとったが、後に山形県に隠居し、1949年8月15日の終戦の日に没した。

3.石原の思想
 石原莞爾の代表的思想は、いうまでもなく「最終戦争論」にある。
この思想はどのようなものであったのだろうか。また、当時の、そして後の日本音思想や外交方針にどのような影響を与えたのだろうか。

 最終戦争論は1940年に京都で行われた講演で発表されたものであり、当初は「世界最終戦論」として発表されたが後に「最終戦争論」と改題された。彼のこの戦争論は東亜連盟の思想としてその後の日本の右翼に大きく影響を及ぼすことになったといわれている。

石原は、この最終戦争論のなかで、近代技術文明の発達に伴って軍事力を及ぼしうる範囲と武器の力が増大し続けている、というダイナミズムに注目した。同時に、彼は人類の歴史とは抗争の歴史であると位置づけ、このようにして軍事力が増大していく以上世界のどこかで強力な国が出現し、他を圧倒するようになっていくだろうと予測した。そして、彼にとって第一次世界大戦はこの流れの中で必然的に起こったものであり、しかしながらその結果の不徹底のため、やがてそれを上回る世界規模の大戦争が起こると予言したのだ。戦争発達の極限に達するこの決戦戦争をもって戦争がなくなるのであり、それは決して人間の英知などによるものではなく、そもそも人間の持つ闘争心はなくならないと主張している。世界平和という理想を唱えながら、それを実現させていく人間は必ずしも理想的な生き物ではないと捉えているのだ。

 しかしながら、高坂正堯によればこの論旨は当時の世界の中ではよく見られ、したがってこの点が彼の最終戦争論のユニークな点であったとは言えないとしている。彼のユニークさはむしろ、第一次世界大戦の次の大戦、すなわち大東亜戦争、が「準決勝」であると考えたことにある。石原は当時の国際情勢を見て、いまだ最終戦争にいたるまでは煮詰まっていないと考えていた。ヨーロッパとアジアには大きな隔たりがあり、それぞれにおける覇権も定まっていないため「決勝戦」にはまだいたらないと考えたのである。そして、その経過の中で東洋文明を代表する日本と、西洋文明を代表するアメリカが「決勝戦」を戦うとし、そうした歴史観の元に外交および安全保障を展開しなくてはならない、というのが彼の提唱した「最終戦争論」の特徴であった。 以下割愛


「満州事変」石原莞爾の指揮力 日経BizGate2018/9/18 日経
石原 莞爾 日本の陸軍軍人 課題解決への扉を開く 石原 莞爾(かんじ)


画像 日本経済諭座(朝日)

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