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千葉県遺跡 小食土(やさしど)廃寺跡

小食土(やさしど)廃寺跡 "昭和の森"

‐古代人の定住が始まった‐
あすみが丘および昭和の森には縄文遺跡が30カ所を越える

次の表は『千葉市遺跡地図』(平成12年)の記載をもとに、あすみが丘および昭和の森の縄文時代の遺跡を編集し直したものです。
あすみが丘および昭和の森には、今から1万6千年前から2千5百年前の縄文時代の遺跡が、30カ所以上も発掘されています。
とくに、1万3千年前から4千5百年前の縄文早期から中期の遺跡が多いのが特徴です。縄文後期以降から弥生時代にかけては、あすみが丘の遺跡は極端に少なくなります。人々は何処に行ったのでしょうか? 
この頃から、千葉市および市原市の東京湾岸の遺跡が増えているので、そちらに移ったのでしょうか? 若葉区桜木町の国指定史跡「加曾利貝塚」がその代表的な例でしょう。

あすみが丘および昭和の森の縄文時代遺跡(1万6千年前~2千5百年前)あすみが丘

北河原坂1、2(早・中・後)、南河原坂1(早)、2(早・前)、 3(早・前)、南河原坂窯跡群(早・中)、坂の越(早)1~4丁目あすみが丘 南河原坂5(早・前・中)、後台城(早・前)、大谷城(早)、 大椎1(早・前)、東台(早・前)、後沢1(早・前)、2(前)、 御堂崎城(早・前)5~6丁目あすみが丘 文六1(早・前・中・晩)、2(早・前・中)、3(早・前)、 4(早・前・中)、5(早)、6(早・中)、坂の越(早)、大椎2(早・前・後)、内野台(早)、7~9丁目 4(早・前・中)、5(早)、6(早・中)、坂の越(早)、 大椎2(早・前・後)、内野台(早)、観音山(早)、 小山(早・前)、弥三郎1(早・前)、2(草・早・前・後)昭和の森 辰ケ台(前)、住吉(前)、荻生道(早・前)、小食土廃寺(早)
千葉市教育委員会編集『千葉市遺跡地図』(平成12年)のデータを参考にして編集。
[記号] 草:縄文草創期(1万6千~1万2千年前)、早:縄文早期(1万2千~7千年前)、前:縄文前期(7千~5千5百年前)、中:縄文中期(5千5百~4千5百年前)、後:縄文後期(4千5百~3千3百年前)、晩:縄文晩期(3千3百~2千5百年前)

太字はあすみが丘プラザ展示室または現地に説明がある縄文時代集落遺跡。

集団で住んでいた集落跡も数カ所

 縄文時代になると、あすみが丘にも人々の定住が始まりました。前表の太字で書いてあるあすみが丘の東台・文六1・小山と昭和の森の辰ケ台・住吉がその例です。これらの遺跡からは、竪穴式住居の集落跡、墳墓も見つかっています。

集落跡 昭和の森・住吉遺跡国指定史跡「加曾利貝塚」竪穴住居6千年ほど前は、気温が高く、海面が上がり、海岸はあすみが丘に迫っていた

 当時は、地球の温暖化がみられ、あすみが丘の気温は、今よりも気温は2、3℃高く、海面が上がり、海は東京湾岸で、誉田・鎌取辺りまで、九十九里側で昭和の森の下、1キロ辺りまで迫っていたことが貝塚の分布からわかっている。房総半島は村田川と大網白里辺りが一番狭くなっていた。この状況を「縄文海進」といいます。
見つかった縄文土器

 あすみが丘プラザの展示室には、文六1・弥三郎1の遺跡から出た縄文前期の縄文土器が見られます。中期・後期の複雑なデザインのものではなく、シンプルなデインの土器です。縄文土器 あすみが丘プラザ展示縄文土器 昭和の森・辰の台遺跡狩りの様子、落とし穴と弓矢、貝塚

 あすみが丘プラザの展示室には、あすみが丘から出た石鏃と狩りに使った落とし穴が出ています。この時代になると、比較的小型のシカやイノシシが狩りの対象になったと言われています。昭和の森の辰の台遺跡からは貝塚も見つかっているそうです。
 温暖な縄文時代は、木の実やイノシシ・シカの山の幸、貝や魚の海のさちに恵まれた時代だったと思われます。また、土器の発達は食料の貯蔵・煮炊きの技術も進歩し、豊かな生活が営まれていたと思われます。
石鏃 文六第1遺跡落とし穴 文六第1遺跡 参考資料

まとめるにあたり、 あすみが丘プラザ展示室、千葉県立中央博物館、『千葉県の歴史』資料編・考古1、千葉市教育委員会『千葉市遺跡地図』、高校日本史Bの教科書・参考書を参考にしました。また、千葉市埋蔵文化財史料調査センター、市原市埋蔵文化財センター、千葉県立中央博物館に種々教えて頂きました。感謝します。


千葉市の最東端に位置する昭和の森公園は、東京ドームの約22倍という広大な面積を有する公園で、展望広場からは、晴れていれば九十九里浜を一望できる。
また、公園の一部が県立自然公園に指定され、市民のいこいの場となっている。この昭和の森公園は、昭和50年(1975)4月に開園したが、昭和51年度(1976)の整備工事に伴う事前調査で、荻生道遺跡の発掘調査が行われた。



調査の結果、小規模な円墳3基、奈良・平安時代の竪穴住居跡75、掘立柱建物跡14のほか、幅1.5mほどの周溝を伴う遺構が検出された。この遺構は、東西42m、南北30mの長方形の区画の中に、間口5間、奥行3間の掘立柱建物跡2棟が東西に対称的に配置されるものであった。

この建物配置は、大阪市の住吉大社の第三本宮と第四本宮のように並列する建物配置と類似していることから、古代の神社遺構ではないかという意見がある。遺構の年代は、出土した土師器や灰釉陶器等の型式から奈良時代と考えられ、近くに位置する小食土(やさしど)廃寺跡との関連があるとも考えられている。
お問い合わせ所属課室:教育庁 教育振興部文化財課指定文化財班電話番号:043-223-4082ファックス番号:043-221-8126メールでお問い合わせ

飛鳥・白鳳・奈良時代のあすみが丘
(7世紀初頭~8世紀末)
 
 7、8世紀のあすみが丘の歴史を、仏教の影響と九州防衛と蝦夷攻略の兵士の供給基地の立場から纏めました。大化の改新で、土気・あすみが丘は上総の国に今の千葉県は、初めは総の国と呼ばれていました。それが大化の改新(646年)の時に安房・上総・下総に分かれました。土気・あすみが丘の地域はその時から上総国山辺郡になりました。千葉市の大部分は下総に属しますが、昭和30年代に編入された旧山武郡土気町の範囲が上総に属します。

あすみが丘に初めて作られた仏教寺院の大椎廃寺

 日本に仏教が伝わったのは6世紀。その後、7世紀には国家宗教として擁護され、7世紀には法隆寺などが建てられました。それから数十年後、上総の国にも20か所以上の仏教寺院が建てられました。大椎廃寺(7丁目、弥三郎3遺蹟)もその一つです。聖武天皇による国分寺・国分尼寺の詔が出る前です。寺院だけではありません。昭和の森にある荻生道遺蹟(8世紀、奈良時代初め)には古代の神社もありました。

荻生道遺蹟小食土廃寺上総の国分寺建立後に小食土廃寺、鐘つき堂遺跡
 
 741年、聖武天皇は国分寺、国分尼寺の勅を発し、全国各地に国分寺・国分尼寺が建てられました。上総の国でも、市原に国分寺と国分尼寺が建てられました。その影響で、奈良時代後期には市原に近い土気にも仏教寺院が建てられました。昭和の森にある小食土廃寺跡がその遺蹟です。瓦の文様、材質は国分寺に似ていると言われています。この他にも8世紀中頃に建てられ、9世紀の平安時代初めまで続いた寺院の鐘つき堂遺蹟(4丁目、土気南中学)もあります。

寺院建築に瓦を供給した南河原坂窯跡は窯業センター

 あすみが丘2丁目から4丁目の東急ブランモール付近には、8世紀中頃から9世紀まで続いた南河原坂窯跡があります。当時のあすみが丘は大きな窯業センターでした。

九州防衛の防人
 奈良時代の関東地方は九州防衛の防人および蝦夷攻略の兵士の供給地でもありました。万葉集の防人の歌には、次の上総国山辺郡出身の兵士の歌があります。あすみが丘からの兵士もいたかも知れません。
 万葉集巻二十 天平勝宝七年(755年)山辺郡上丁物部平刀良(おとら)の歌 
 わが母の袖持撫でわが故に泣きし心を忘らえぬかも

蝦夷攻略
 上総国から東北に行った兵士もいました。鐘江宏之『日本の歴史3律令国家と万葉びと』(小学館、2008年)に次の出土品が書かれています。
 秋田城跡出土の宿直札「上総国出身者の長と5人の兵士が宿直した」

 聖武天皇の神甕元年(724年)に陸奥の国仁多賀城を築き鎮守府を置いた際、土気城の辺りに蝦夷に対する軍事拠点として「貴舟城」を築いたという伝承がある。

市原に復元された国分尼寺の回廊
貴船城跡7~8世紀には、あすみが丘周辺の大開発が。
小食土町には横穴墳も
 以上、あすみが丘、昭和の森の遺蹟について述べてきましたが、この他にも周辺の小山町・土気町・小食土町・大木戸町からもこの時代の遺跡が見つかっており、あすみが丘周辺の大開発が行われたと思われます。とくに、大網街道を大網の方に下ってゆく、右手にある小食土町の崖には横穴墳がたくさん見つかっており、注目されます。

参考資料
まとめるにあたり、千葉県史料研究財団編『千葉県の歴史 考古3、千葉市教育委員会『千葉市遺跡地図』、埋蔵文化財調査センター編の平成15年および平成16年『千葉市遺蹟発表会要旨』、ホームページ“土気逍遥”などを参考にしました。(記事引用 未整理1/12~)

2017年01月12日 記事

http://asumi.town-web.net/folder_history/history/page_jomon_age.html



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