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「夜明け前」島崎藤村

最新の千夜千冊 松岡正剛

「夜明け前」島崎藤村 新潮文庫 1944(原作 1929~1935)

 篠田一士に『二十世紀の十大小説』という快著がある。いまは新潮文庫に入っている。円熟期に達した篠田が満を持して綴ったもので、過剰な自信があふれている。

 十大小説とは、プルーストの『失われた時を求めて』、ボルヘスの『伝奇集』、カフカの『城』、芽盾の『子夜』、ドス・パソスの『USA』、フォークナーの『アブロム、アブサロム!』、ガルシア・マルケスの『百年の孤独』、ジョイスの『ユリシーズ』、ムジールの『特性のない男』、そして日本から唯一“合格”した藤村の『夜明け前』である。

 モームの世界文学十作の選定や利休十作をおもわせるこの選び方にどういう評価をするかはともかく、篠田はここで『夜明け前』を「空前にして絶後の傑作」といった言葉を都合3回もつかって褒めそやした。日本の近代文学はこの作品によって頂点に達し、この作品を読むことが日本の近代文学の本質を知ることになる、まあだいたいはそんな意味である。

 ところが、篠田の筆鋒は他の9つの作品の料理のしかたの切れ味にくらべ、『夜明け前』については空転して説得力をもっていないとしかおもえない。褒めすぎて篠田の説明は何にも迫真していないのだ。

 どんな国のどんな文学作品をも巧妙に調理してみせてきた鬼才篠田にして、こうなのだ。『夜明け前』が大傑作であることは自身で確信し、内心言うを俟たないことなのに、そのことを彷彿とさせる批評の言葉がまにあわない。

 これは日本文芸史上の珍しいことである。漱石や鴎外では、まずこんなことはおこらない。露伴や鏡花でも難しくはない。むろん横光利一や川端康成ではもっと容易なことである。それなのに『夜明け前』では、ままならない。もてあます。挙げ句は、藤村と距離をとる。

 いや、のちに少しだけふれることにするが、日本人は島崎藤村を褒めるのがヘタなのだ。『破戒』も『春』も『新生』も、自我の確立だとか、社会の亀裂の彫啄だとか、そんな言葉はいろいろ並ぶものの、ろくな評価になってはいない。先に結論のようなことを言うことになるが、われわれは藤村のように「歴史の本質」に挑んだ文学をちゃんと受け止めてはこなかったのだ。そういうものをまともに読んでこなかったし、ひょっとすると日本人が「歴史の本質」と格闘できるとも思っていないのだ。

 これはまことに寂しいことであるが、われわれ日本人が藤村をしてその寂しさに追いやったともいえる。

 ともかくもそれくらい『夜明け前』を論じるのは難しい。それでも、『夜明け前』こそはドス・パソスの『USA』やガルシア・マルケスの『百年の孤独』に匹敵するものでもあるはずなのである。まずは、そのことを告げておきたかった。

 さて、『夜明け前』はたしかに聞きしにまさる長編小説である。第1部と第2部に分かれ、ひたすら木曽路の馬籠の周辺にひそむ人々の生きた場面だけを扱っているくせに、幕末維新の約30年の時代の流れとその問題点を、ほぼ全面的に、かつ細部にいたるまで執拗に扱った。

 これを大河小説といってはあたらない。日本近代の最も劇的な変動期を背景に一人の男の生活と心理を描いたと言うくらいなら、ただそれまでのこと、それなら海音寺潮五郎や司馬遼太郎だって、そういう長編歴史小説を何本も書いてきた。そこには勝海舟や坂本龍馬の“内面”も描写されてきた。
 しかし藤村がしたことは、そうではなかったのだ。『夜明け前』全編を通して、日本人のすべてに「或るおおもと」を問うたのである。その「或るおおもと」がはたして日本が必要とした「歴史の本質」だったのかどうか、そこを描いたのだ。 それを一言でいえば、いったい「王政復古」とは何なのかということだ。いま、このことに答えられる日本人はおそらく何人もいないとおもわれるのだが、当時は、そのことをどのように議論してよいかさえ、わからなかった。
 藤村がこれを書いたときのことをいえば、「中央公論」に『夜明け前』の連載が始まったのが昭和4年、藤村が最晩年の56歳のときだった。つまり、いまのぼくの歳だった。
 昭和4年は前の年の金融恐慌につづいて満州某重大事件がおき、翌年には金輸出解禁に踏みきらざるをえなくなった年、すなわち日本がふたたび大混乱に突入していった年である。ニューヨークでは世界大恐慌が始まった。 そういうときに、藤村は王政復古を選んだ歴史の本質とは何なのかと、問うた。
 しかもその王政復古は維新ののちに、歪みきったのだ。ただの西欧主義だったのである。むろんそれが悪いというわけではない。福沢諭吉が主張したように、「脱亜入欧」は国の悲願でもあった。しかしそれを推進した連中は、その直前までは「王政復古」を唱えていたわけである。何が歪んで、大政奉還が文明開化になったのか。 藤村はそのことを描いてみせた。それはわれわれが見捨ててきたか、それともギブアップしてしまった問題の正面きっての受容というものだった。(松岡正剛 部分引用)


夜明け前 島崎藤村  第二部上 第一章

第一章  一

 円山応挙まるやまおうきょが長崎の港を描いたころの南蛮船、もしくはオランダ船なるものは、風の力によって遠洋を渡って来る三本マストの帆船であったらしい。それは港の出入りに曳ひき船を使うような旧式な貿易船であった。それでも一度それらの南蛮船が長崎の沖合いに姿を現わした場合には、急を報ずる合図の烽火のろしが岬みさきの空に立ち登り、海岸にある番所番所はにわかにどよめき立ち、あるいは奉行所ぶぎょうしょへ、あるいは代官所へと、各方面に向かう急使の役人は矢のように飛ぶほどの大騒ぎをしたものであったという。
 試みに、十八片からの帆の数を持つ貿易船を想像して見るがいい。その船の長さ二十七、八間けん、その幅八、九間、その探さ六、七間、それに海賊その他に備えるための鉄砲二十挺ちょうほどと想像して見るがいい。これが弘化こうか年度あたりに渡来した南蛮船だ。応挙は、紅白の旗を翻した出島でじまの蘭館らんかんを前景に、港の空にあらわれた入道雲を遠景にして、それらのオランダ船を描いている。それには、ちょうど入港する異国船が舳先へさきに二本の綱をつけ、十艘そうばかりの和船にそれをひかせているばかりでなく、本船、曳ひき船、共にいっぱいに帆を張った光景が、画家の筆によってとらえられている。嘉永かえい年代以後に渡来した黒船は、もはやこんな旧式なものではなかった。当時のそれには汽船としてもいわゆる外輪型なるものがあり、航海中は風をたよりに運転せねばならないものが多く、新旧の時代はまだそれほど入れまじっていたが、でも港の出入りに曳き船を用うるような黒船はもはやその跡を絶った。
 極東への道をあけるために進んで来たこの黒船の力は、すでに長崎、横浜、函館はこだての三港を開かせたばかりでなく、さらに兵庫ひょうごの港と、全国商業の中心地とも言うべき大坂の都市をも開かせることになった。実に兵庫の開港はアメリカ使節ペリイがこの国に渡来した当時からの懸案であり、徳川幕府が将軍の辞職を賭かけてまで朝廷と争って来た問題である。こんな黒船が海の外から乗せて来たのは、いったいどんな人たちか。ここですこしそれらの人たちのことを振り返って見る必要がある。

       二

 紅毛こうもうとも言われ、毛唐人けとうじんとも言われた彼らは、この日本の島国に対してそう無知なものばかりではなかった。ケンペルの旅行記をあけて見たほどのものは、すでに十七世紀の末の昔にこの国に渡って来て、医学と自然科学との知識をもっていて、当時における日本の自然と社会とを観察したオランダ人のあることを知る。この蘭医らんいは二か年ほど日本に滞在し、オランダ使節フウテンハイムの一行に随したがって長崎から江戸へ往復したこともある人で、小倉こくら、兵庫、大坂、京都、それから江戸なぞのそれまでヨーロッパにもよく知られていなかった内地の事情をあとから来るもののために書き残した。このオランダ人が兵庫の港というものを早く紹介した。その書き残したものによると、兵庫は摂津せっつの国にあって、明石あかしから五里である、この港は南方に広い砂の堤防がある、須磨すまの山から東方に当たって海上に突き出している、これは自然のものではなくて平家へいけ一門の首領が良港を作ろうとして造ったものだと言ってある。おそらくこの工事に費やされたる労力および費用は莫大ばくだいなものであろう、工事中海波のため二回までも破壊され、日本の一勇士が身を海中に投じて海神の怒りをしずめたために、かろうじてこれを竣工しゅんこうすることができたとの伝説も残っていると言ってある。この兵庫は下しもの関せきから大坂に至る間の最後の良港であって、使節フウテンハイムの一行が到着した時は三百艘そう以上の船が碇泊ていはくしているのを見た、兵庫市には城はない、その大きさは長崎ぐらいはあろう、海浜の人家は茅屋あばらやのみであるが、奥の方に当たってやや大きなのがあるとも言ってある。

 こんな先着の案内者がある。しかし、それらの初期の渡来者がいかに身を屈して、この国の政治、宗教、風俗、人情、物産なぞを知るに努めたかは、ケンペルのようなオランダ人のありのままな旅行記が何よりの証拠だ。彼の目に映った日本人は義烈で勇猛な性質がある。多くの人に知られないような神仏のごときをもなおかつ軽かろんずることをしない。しかも一度それを信奉した上は、頑がんとしてその誓いを変えないほどの高慢さだ。もしそれこの高慢と闘争を好むの性癖を除いたら、すなわち温和怜悧れいりで、好奇心に富んでいることもその比を見ない。日本人は衷心においては外国との通商交易を望み、中にもヨーロッパの学術工芸を習得したいと欲しているが、ただ自分らを商賈しょうこに過ぎないとし、最下等の人民として軽んじているのである。おそらくこれは嫉妬しっとと不信とに基づくことであろうから、この際友誼ゆうぎを結んで百事を聞き知ろうとするには、まずその心を収攬しゅうらんするがいい。貨幣の類たぐいなどは惜しまず握らせ、この国のものを欺だまし、この国のものを尊重し、それと親通するのが第一である。ケンペルはそう考えて、自分に接近する人たちに薬剤の事や星学なぞを教授し、かつ洋酒を与え、ようやくのことで日本人の心を籠絡ろうらくして、それからはすこぶる自由に自分の望むところを尋ね、かつて世界の秘密とされたこの島国に隠された事をも遺憾なく知ることができたと言ってある。

 遠く極東へとこころざして来た初期のオランダ人の旅について、ケンペルはまた種々さまざまな話を書き残した。使節フウテンハイムの一行が最初に江戸へ到着した時のことだ。彼らは時の五代将軍綱吉つなよしが住むという大城に導かれた。百人番というところがあって、そこが将軍居城の護衛兵の大屯所だいとんしょになっていた。一行は命令によってその番所で待った。城内の大官会議が終わり次第、一行の将軍謁見えっけんが行なわれるはずであった。
 二人ふたりの侍が彼ら異国の珍客に煙草たばこや茶をすすめて慇懃いんぎんに接待し、やがて他の諸役人も来て一行に挨拶あいさつした。そこに待つこと三十分ばかり。その間に、老中ろうじゅう初め諸大官が、あるいは徒歩、あるいは乗り物の輿こしで、次第に城内へと集まって来た。彼らはそこから二つの門と一つの方形な広場を通って奥へと導かれる。第一の門からそこまでは数個の階段がある。門と大玄関との間ははなはだ狭くてほんのわずかの間隔に過ぎなかったが、護衛の侍を初め多くの諸役人が群れ集まって来ていた。それから一行は進んで二つの階段をのぼり、まずはいったのは広い一間で、それから右側の一室にはいった。そこは将軍に向かっても、また老中に向かってもすべて対面を求めるものの許可を得るまで待ち合わす所である。そこはなかなか大きな室へやであるが、周囲の襖ふすまをしめきるとすこぶる薄暗い。わずかに隣室の上部の欄間らんまから光線がもれ入るに過ぎない。しかし国風くにぶりによって施された装飾の美は目もさめるばかりで、壁と言わず、襖と言わず、構造は実に念の入ったものであったという。待つこと一時間以上、その間に将軍は謁見室に出御しゅつぎょがある。一行のうちの使節のみが導かれて御前に出る時、一同大声で、
「オランダ、カピタン。」

 と呼んだ。これは将軍に近づいて使節に礼をさせるための合図である。将軍が国内の他の最も強大な諸侯に対する場合でも、その態度はすこぶる尊大である。すべて諸侯の謁見に際しても、その名が一度呼び上げられると、諸侯は無言ですわったまま手と膝ひざとで将軍の前ににじりより、前額を床にすりつけて拝礼した上で、また同一の態度で後ろへ這はいさがるのである。そこでオランダの使節も同じように、将軍へ献上する進物を前に置き、将軍に対して坐ざし、額ひたいを床につけ、一言を発することもなく、あたかも蟹かにのようにそのまま後ろへ引きさがった。

 オランダ人がこの強大な君主に対する謁見はこんな卑下したものであった。これほど身を屈して、礼儀を失うまいとしたのは言うまでもなく、この国との通商を求めるためであったからで。随行のケンペルも許されて室を参観することができた時に、彼はすばやく床に敷かれている畳の数を百と数え、その畳がすべて皆同一の大きさであることをみて取り、襖ふすま、窓なぞも細かにそれを視察した。室の一面は小さな庭で、それと反対な側は他の二室に連なり、二室共に同一の庭に向かって開くようになっているが、その二室の小さな方に将軍の御座がある。彼はその目で、将軍の風貌ふうぼうをも熟視しようとしたが、それははなはだ難かたいことであった。というのは、光線が充分に将軍の御座の所まで達しないのと、謁見の時間が短くて、かつ謁見者があまりに礼を低くするため、頭を上げて将軍を見る機会がないからであった。のみならず老中はじめ諸大官が威儀正しくそこに居並ぶから、客も周囲の厳おごそかさに自然と気をのまれるからで。
 しかし、当時のオランダ使節が一行の自卑はこの程度にのみとどまらなかった。ずっと以前には使節が将軍のために行なうことは謁見だけで終わりを告げたものであるが、いつのまにか妙な習慣ができて、使節謁見ずみの後、一行はそのまま退出することを許されない。さらに導かれて、大奥の貴婦人たちに異人のさまを見参げんざんに入れるという習わしになっていた。そこでケンペルも蘭医として、他の二人ふたりの随行員と共に呼び出され、使節のあとについて、さらに御殿の奥深く導かれて行った。そこには数室からなる大広間がある。
 ある室は十五畳を敷き、ある室は十八量敷きである。その畳にもまたそこへすわる人によって高下の格のさだまりがある。中央の部分には畳がなく、漆をはいた廊下になっていて、そこにオランダ人らがすわれと命ぜられた。将軍と貴婦人たちとは彼らの右手にある簾すの後ろにいた。一通りの挨拶あいさつが終わった後、荘厳な御殿はたちまち滑稽こっけいの場所と変わった。一行は無数のばからしくくだらない質問の矢面やおもてに立たせられた。たとえばヨーロッパにおける最新の長命術は何かの類たぐいだ。その時将軍は彼らオランダ人からはるかに隔たって貴婦人らの間にいたが、次第に彼らに近づいて来、できるだけ彼らに接近して、簾すの後方に坐ざしながら、侍臣のものに命じて彼らの礼服なるカッパを取り去らせ、起立して全身を見うるようにさせろとあったから、彼らは言われるままにした。さらに歩め、止まれ、お辞儀をして見よ、舞踏せよ、酔漢えいどれの態さまをせよ、日本語で話せ、オランダ語で話せ、それから歌えなどの命令だ。彼らはそれに従ったが、舞踏の時にケンペルは舞いにつれて高地ドイツ語で恋歌を歌った。
 実際、オランダ使節の随行員はこれほどの道化役どうけやくをつとめたものであった。しかし彼ケンペルはそこに舞踏を演じつつある間にも、江戸城大奥の内部を細かに視察することを忘れなかった。彼は簾の隙間すきまを通して二度も将軍の御台所みだいどころを見ることができた。彼女は美しい黒い目をもち、顔の色が鳶色とびいろに見える美人で、その髪の形はひどく大きかったという。彼女はさだめし背の高い人で、年の頃三十五、六であろうと思われたという。簾は葦よしで織られた掛け物で、その背面には美しい透明の絹布を掛けたものである。その一方は装飾のため、一方にはまた後方の人物をかくすために、簾には彩色でいろいろなものが描いてある。将軍自らは薄暗いところにその位置を占めたから、思わずもらす低い声がなかったら、ケンペルなぞはそこに人があるとは知らなかったろうという。ちょうど彼らの前面に当たって他の簾の後ろには位の高い人たちや諸貴女が集まっていた。葦よしの簾の間にはところどころに紙の片きれを結びつけて隙間を大きくしたのがケンペルの目についた。彼はひそかにその紙の片を勘定して見たところ、三十ばかりあったから、簾の後ろには同数の人物がいたろうとも想像したという。
 オランダ人らの演戯は約二時間も続いた。彼らは将軍はじめ満廷の慰みのために種々さまざまな芸を演じたが、さすがに使節ばかりはその仲間には加わらなかった。フウテンハイムは犯しがたい威風をそなえた重々しい容貌ようぼうの人だった。日本人の目にもこの一国の代表者にまでそんな滑稽こっけいなまねを演じさせるのは非礼であると見えたものであろう、とケンペルは書き残している。

 その翌年、西暦千六百九十二年(元禄げんろく五年)に、今一度オランダ使節は江戸へ参府することになった。そこでケンペルもまたその一行に加わって内地を旅する再度の機会をとらえた。一行は三月はじめに長崎の出島を出発し、船で兵庫に着いて、大坂奉行をも京都所司代をも訪たずねた。この再度の内地の旅は日本の自然や社会を観察する上に一層の便宜をケンペルに与えたのである。大坂奉行の屋敷では、ケンペルはその奉行から十年来の宿痾しゅくあに悩まされていまだに全快しないでいる家人のあることを告げられ、どうしたらそれを治療することができようかと尋ねられた。ともかくも彼は診断することを望んだところ、奉行がそれをさえぎって、病は身体の中の秘密な場所に属するからと言って、くわしくその症状を告げ、それによってよろしく判断し、施薬せられたいとのことであった。そこで彼は求められるとおりにしてやったこともある。その大坂奉行は彼らが異国の風俗をめずらしがり、帽子を手に取って打ちかえしながめるやら、上衣を脱がせて見るやらして、横文字を書け、絵を描かけ、歌を歌えと所望した上に、なお進んでは舞踏することやヨーロッパ風な風俗習慣のいろいろを実演することまで求めたが、一行のものは、それを拒んだ。彼らが京都所司代を訪ねた時はまた、一つの晴雨計を取り出して来る日本人があって、その性質、使用法なぞを尋ねられたこともある。
 その晴雨計は、彼らがそこに到着したころから数えると、実に約三十年も前に、オランダ人の贈ったものであった。
 四月下旬のはじめには、一行は遠く旅して行った江戸表にもう一度彼ら自身を見いだした。おり悪あしく雨の多いころで、外出も困難ではあったが、彼らは行装を整えて町を出、江戸城の関門を通り過ぎて第三の城郭に入り、そこで将軍謁見えっけんの時の来るのを待ち合わせた。その間、彼らは雨に湿った靴くつや靴足袋たびを捨てて新しいものに換え、それから謁見室へと導かれた。やせて背は高く、面長おもながで、容貌ようぼうの凛々りりしいことはドイツ人に似、起居振舞たちいふるまいはゆっくりではあるが、またきわめて文雅な感じのある年老いた人がそこに彼らを待ち受けていたという。その人が当時肩を比べるもののない威権の高い老中だった。彼らオランダ人にはすでに前年のなじみのある正直謹厳な牧野備後まきのびんごだ。
 オランダ人からの進物を将軍に取り次ぐことも、あるいは将軍の言葉を彼らに取り次ぐことも、それらはみなこの牧野老中がした。例の謁見の儀式が済んだ後、一行はしばらく休息の時を与えられ、長崎奉行の厚意により今一度よく室を参観することをも許された。異人どもにながめを自由にさせよとの心づかいからか、庭園に向かった障子しょうじもあけ放してある。彼らは膝ひざを折り曲げてすわることの窮屈さから免れるため、そこの廊下をあちこち歩いていると、近づいて来て彼らに挨拶あいさつし、異国のことをいろいろと質問する幾人かの貴人もあった。
 やがてまた大奥の広間へと呼び出される時が来た。深い簾すのかげには殿中の人たちが集まって来ていた。将軍と二人ふたりの貴婦人も一行のものの右手にあたる簾の後ろにいた。その時、彼らの正面に来てすわったのも牧野備後だった。一同の拝礼が型のように終わった後、備後は将軍の名で彼らに挨拶し、さていろいろなことを演ずるようにとの注文を出した。年老いた大通詞だいつうじをしてその意味を彼らに告げさせた。まっすぐにすわって見よ。上衣を脱いで見よ。姓名、年齢を語れ。立て。歩め。ころげ回れ。踊れ。歌え。互いにお辞儀をして見せよ。怒おこって見せよ。食事に客を招くまねをせよ。互いに言葉のやりとりをせよ。父と子の親しい態さまをせよ。二人の親友または夫婦が相礼し、または別るる態をせよ。小児と遊び戯れよ。小児を腕の上にのせ、またはそれに似寄ったことをして見せよの類たぐいだ。のみならず、彼らは例によって滑稽こっけいな、しかもまじめな質問の矢面に立たせられた。たとえば、彼らの住居すまいはどんな家であるか。彼らの習慣はどう日本人のと異なるか。彼らの死者を葬る場所はどこで、その時はいつであるか。彼らもホルトガル人同様の祈りをし、偶像をも持っているか。オランダその他の異国にも日本のように地震があり、雷があり、火事があるか。または落雷のために触れて死ぬものがあるかの類たぐいである。
 いつのまにかケンペルは道化役者としての彼自身をこの荘厳な殿中に見つけた。彼は同行のオランダ人と共に、帽子をかぶること、話しながら室内を歩くこと、また彼らが十七世紀風の鬘かつらを脱いで見せることなぞを命ぜられた。彼はその間、しばしば将軍の御台所を見る機会をも得たという。将軍も日本語で、オランダ人は自分のいる室をことに鋭く見つつある旨むね言われたもののようで、彼らは将軍がそのもとの座をすてて彼らの正面にあった貴婦人の所に移ったのを見てそれを推測した。彼らは次ぎに、今一度鬘かつらを脱ぐことを命ぜられ、続いて一同は飛び上がること、踊ること、泥酔漢よっぱらいの態さまをすること、連れだって歩行するさまなどを実演させられた。日本人はまた、使節とケンペルとに備後びんごの年齢は幾歳ぐらいに見えるかと尋ねるから、使節は五十と答え、ケンペルは四十五と答えた。聞くところによると、この老中筆頭の大官はすでに七十歳の高齢であるが、彼らがあまり若く言ったので、衆は皆笑った。次ぎに日本人は彼らをして夫婦のように接吻せっぷんさせ、貴婦人たちは笑いながらそれを見て、すこぶる満足したもののようであったともいう。さらに日本人はヨーロッパの方で一般に行なわるる敬礼――目下に対し、目上に対し、貴婦人に対し、諸侯に対し、また王に対するそれらの作法の類たぐいをやって見せよと言い、続いてケンペルはことに歌を歌うよう所望されてそのもとめに応じた。やがて道化は終わった。彼らは上衣を着、一人ひとりずつ簾すの前へ行って、彼らの王公に対すると同様の礼でもって別れを告げた。その日、彼らが殿中で喜劇を行なったのは二時間の余であったという。
 江戸を去る前、フウテンハイムの一行は暇乞いとまごいとして将軍の居城を訪たずねた。その時、百人番で三十分も待たせられたあとで、使節は老中の前に呼び出され、老中は属僚に言い付けて例によって一場の訓示を朗読させた。訓示は主として彼らがシナ人や琉球人りゅうきゅうじんの船に妨害を加えてはならないこと、オランダ船にはホルトガル人および切支丹キリシタン宗僧侶そうりょは一人たりとも載せて来てはならないこと、これらの条件を奉じて間違いない限りは商法自由たるべしというのであった。
 朗読が終わると、使節の前には二つの三宝さんぽうが置かれ、その三宝の一つ一つには十重とかさねずつの素袍すおうが載せてあった。将軍から使節への贈り物だ。使節はうやうやしくそれを受け、五つ所紋のついた藍色あいいろな礼服の一つを頭の上に高くあげて深く謝意を表した。それから一同別室へ導かれ、将軍の命で昼飯を下し置かれるとの挨拶あいさつがあって、日本風の小さな膳ぜんが各人の前に持ち運ばれた。その食事は彼らオランダ人に、この強大な君主の荘厳と驕奢きょうしゃとにふさわしからぬほどの粗食とも思われたという。
 暇乞いはそれだけでは済まされなかった。大奥でもまたもや彼らを見たいと言い出される。年のころ三十ばかりになる白と緑の絹の衣裳いしょうをつけた接待役の坊主が来て、鄭重ていちょうに彼らの姓名年齢を尋ね、やがてその人の案内で一同導かれて行ったところは例の奥まった簾すの前だ。まず日本風に敬礼したところ、簾に近づいてヨーロッパ風にせよとの御意である。それに従うと、今度は歌を歌えとの命である。ケンペルは彼がかつてことに尊重した一貴女のためにものした一つをえらんで歌った。それは彼女の美とその徳とをたたえて、この世のいかなる財宝も、その貴とうとさには到底比べられないとの意を詠じたものであった。将軍がその意を訳して聞かせよと彼に命ぜらるるから、そこで彼はその歌をえらんだはほかでもないと言って、この国の君主、皇族、および全日本朝廷の健康と幸福と繁栄とを保全せらるることを祈る外臣が誠実の心をいたすにほかならないと申し上げた。以前の謁見えっけんの時と同じように、彼らは上衣を取って室内を歩めと命ぜられ、使節も今度はそれを行なった。続いて彼らの友人、両親、または妻にめぐりあい、または別れを告げる態さま、互いにののしり合う態、友人と論争し、やがてまた和解する態なぞを御覧に入れた。それが終わると、ケンペルのそばに近づいて来て健康の診断を求め、試みに彼の意見を聞きたいという一人ひとりの剃髪ていはつの人があった。脈を取って検しらべて見ると、疑いもない健康者だ。しかし彼はその人の顔のようすや鼻の赤いところから推して、好酒家と知ったから、あまり飲み過ぎないようにと忠告した。将軍はじめ一同がそれを聞き知った時は、あたりにさかんな笑い声が起こった。
 これらは皆、ケンペルがその旅行記にくわしく書き残したことである。時はあだかも徳川将軍家の勢いが実に一代を圧したころに当たる。当時のオランダ使節の一行が商業の自由を許さるるの恵みを感謝したのは、日本国の皇帝の面前においてであるとのみ思っていたとか。彼らはその江戸城の大奥に導かれて、皇帝の居住する宮殿の中に身を置き得たと信じ、彼らのそばに来て一々その姓名、年齢、その他のことを尋ねた数人の頭を円まるめた坊主を皇帝の侍医または接待役と信じ、彼らを歓迎する旨むねを述べてくれた老中牧野備後こそかつては皇帝の師傅しふであり現に最も皇帝の信任を受けつつある人と信じたという。 (三)
(長文に付き.1~2です)(原文ルビが読み込み)

青空文庫 

底本:「夜明け前 第二部(上)」岩波文庫、岩波書店
   1969(昭和44)年3月17日第1刷発行
   2000(平成12)年5月15日第27刷改版
底本の親本:「改版本『夜明け前』」新潮社
   1936(昭和11)年7月発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:大野晋、砂場清隆
校正:原田頌子
2001年6月27日公開
2009年11月20日修正
青空文庫作成ファイル:
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