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人間の素はサルだとい学術

その"リテラシーl"は真実を語っているか

昨日の天気予想が見事に当たって朝から快晴~でしたが 外気風は冷たく感じました。のこりの3日は、五月晴だといいのですが。

そこで気になるのか洗濯物が乾かない、という鬱陶しい問題です。私の場合、ストーブ直火乾燥してますから、冬場でも1日で乾きます。その直火乾燥は落下すると一家全焼というリスクがありますので推奨しません。

ですから社会の皆さん、どうやって干しているのか、ネット検索しました。時節柄ですので、回答欄にはいっぱいありました。その中の一つ

~記事の回答者:田中 真紀子~
白物家電、美容家電の専門家兼ライターとして活躍。日々発売される新製品をチェックし、製品の紹介記事やレビュー記事を雑誌やWeb、新聞などで紹介している。日常的にも話題の新製品を使うことで、ライフスタイルに合わせた選び方や、上手な採り入れ方の提案も行っており、テレビ出演も多数。
(文:All About ニュース編集部)
【500人に聞いた】洗濯の「外干し」「部屋干し」多数派はどっち? 今すぐ試せる洗濯ストレスの解消ワザ
オールアバウト / 2024年5月2日 20時35分
日々追われる家事の中でも、工程が多く厄介なのが洗濯。ちまたではラクに行うためのさまざまなアイデアが紹介されています。その中で意見が分かれるのが「洗濯物の乾かし方」。大きく分けて「外干し」「部屋干し」の2種類の方法がありますが、一体どちらが多数派で、それぞれどのようなメリットがあるのでしょうか。 記事の回答者:田中 真紀子

まあ、選択乾燥ですから人それぞれの方法が書いてありました。その参考記事筆者「田中 真紀子」とあったので、訊いたような名なので、念のため検索しましたが全くの同姓同名別人のようでした。他人のそら似、ではなく偶然の一致、ということらしい。

ということで、文を読んで、読者は何を得て考えるか、という思考について思い付きました。それで、それらしいストック記事ホルダーを当たってみたら、適当な題名があったので、それをここに紹介します。

本体記事は「ダイヤモンド」社検索引用ですが、それに古代遺跡また古代歴史の一片を合わせて書かれてました。

冒頭「あなたの先祖はサルですか?」ダーウィンの進化論、という学術論となってますが、それを読んで自分の祖先がサルと思った人は誰もいないでしょう。また、ダーウィン進化論について、真向否定する一派もいますから、生物学的に、動物が進化、淘汰、という難問は、遺伝子レベルの分析が必要でしよう。
近年の国内遺跡分析結果でも、徳之島ウンブキ(湾屋洞窟)が発掘調査され、その結果、縄文と弥生の僅かな時間軸内で、急激な古墳時代の一族系が、急激に増加した結果は遺伝子解析の結果だった。という結果が出されています。

また分析結果を発表するのは、勿論専門家によってですから、それを信じるわけですが、そのダーウィン進化論は、風が吹くと桶屋が儲かる論、みたいな推論の感じが否定できないし、だからこそ先祖がサルだ、と断言されると、そんなことは在り得ない、と反対者が出るわけです。

また、そうしたブランド名を盲目的に信じる信仰もあり、疑わないこともあります。特に思うのは日本人の西洋文明思想の盲目過信で、それは明治維新以来、激しく論じられてきたリテラシーの一つでした。
ですから。その後の世界大戦敗戦敗北の日本国の考えは、今もき引き継いでおり、肝心な国家裁定で意味不明の判断がされることが多いのも事実です。

此れから日本は現実少子化になって、経済が縮小するのは必至ですから、多くの若者は外に出るでしょう。それでもいまだに政府政治家は日本の「純潔」を死守しているのですから、国土面積は同じでも人口動態が、どんどん縮むのは当然の話しです。

そんなときに徳之島「ウンブキ」族が何故大挙して渡来した理由を分析することが、向こう30年日本の明日を予測する大きなカギなのです。

「あなたの先祖はサルですか?」ダーウィンの進化論をめぐる「大論争」の意外な事実

更科功 若い読者に贈る美しい生物学講義 ダイヤモンド 2023.2.23 2:40 

 分子古生物学者である著者が、身近な話題も盛り込んだ講義スタイルで、生物学の最新の知見を親切に、ユーモアたっぷりに、ロマンティックに語るロングセラー『若い読者に贈る美しい生物学講義』。

養老孟司氏「面白くてためになる。生物学に興味がある人はまず本書を読んだほうがいいと思います。」、竹内薫氏「めっちゃ面白い! こんな本を高校生の頃に読みたかった!!」、山口周氏「変化の時代、“生き残りの秘訣”は生物から学びましょう。」、佐藤優氏「人間について深く知るための必読書。」、ヤンデル先生(@Dr_yandel)「『若い読者に贈る美しい生物学講義』は読む前と読んだあとでぜんぜん印象が違う。

印象は「子ども電話相談室が好きな大人が読む本」。科学の子から大人になった人向け! 相談員がどんどん突っ走っていく感じがほほえましい。『こわいもの知らずの病理学講義』が好きな人にもおすすめ。」、長谷川眞理子氏「高校までの生物の授業がつまらなかった大人たちも、今、つまらないと思っている生徒たちも、本書を読めば生命の美しさに感動し、もっと知りたいと思うと、私は確信する。」(朝日新聞2020/2/15 書評より)と各氏から評価されている。今回は「進化論」をテーマにした書き下ろし原稿をお届けする。

「あなたの先祖はサルですか?」ダーウィンの進化論をめぐる「大論争」の意外な事実

Photo: Adobe Stock img_7d72b451facb06deba7eeb21ad65b0a5136280

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オックスフォード論争の真実 今から160年以上も前の話である。1860年にイギリスのオックスフォードで、イギリス科学振興協会の会合が行われた。ちょうどダーウィンの『種の起源』が出版された翌年のことだったので、進化論について活発な議論が行われた。

 そこで、ダーウィンのブルドッグと言われた生物学者のトマス・ヘンリー・ハクスリーとサミュエル・ウィルバーフォース大司教が、激しく論争したと言われている。ちなみに、ダーウィンは体調が悪くて欠席していた。

 ウィルバーフォース大司教はハクスリーに、「あなたの先祖はサルだということですが、それはお祖父さんの側ですか、それともお祖母さんの側ですか」と尋ねたが、ハクスリーは見事に切り返し、論争はハクスリーの勝利に終わったという。

 ただし、発言についての正確な記録はなく、実際に2人が何を言ったのかはよくわかっていない。おそらく、このウィルバーフォース大司教の発言も事実ではないだろう。なぜならウィルバーフォース大司教が、そんな愚かな発言をするとは思えないからだ。

進化論のメカニズム

 ダーウィンといえば進化論、進化論といえば自然選択というイメージがある。自然選択というのは生存や繁殖に適した個体が生き残ることで、進化のもっとも重要なメカニズムだ。

 いっぽう、当時のキリスト教徒のなかで進化論を認めない人たちは(当時のキリスト教徒のなかにも進化論を認める人はいた)、自然選択も認めなかったイメージがある。でも、そんなことはない。進化論を認めない人々のなかにも、自然選択を認める人はいたのである。

 つまり、当時のキリスト教徒には3通りの人々がいたわけだ。進化論も自然選択も認めない人と、進化論は認めないが自然選択は認める人と、進化論も自然選択も認める人だ。そして、ハクスリーと論争したウィルバーフォース大司教は、真ん中の、進化論は認めないが自然選択は認める人だった。

 じつは、ウィルバーフォース大司教は自然選択を、生物を進化させない力だと考えていたのである。ちなみに、進化論も自然選択も認めたキリスト教徒としては、その文章が『種の起源』にも引用されているイングランド教会の聖職者、チャールズ・キングズリーが有名である。

「安定化選択」と「方向性選択」

 それでは、どうしてウィルバーフォース大司教は、自然選択を進化させない力と考えたのだろうか。

 たとえば、仮に、私たちの身長が非常に高かったり非常に低かったりすると病気になりやすくて、身長が中ぐらいの人がもっとも健康だとしよう。その場合は、身長が非常に高かったり低かったりする人は自然選択によって除かれるので、自然選択は身長を変化させないように働くことになる。このような、生物を変化させない自然選択を「安定化選択」という。

 いっぽう、こちらも仮にだが、食糧事情が悪くなって、食事が少なくて済む身長の低い人のほうが、身長が高い人よりも有利になったとしよう。この場合は、身長が低くなるような方向に自然選択が働くことになる。

 このような、生物を変化させる自然選択を「方向性選択」という。そして実際の自然界では、両方の自然選択が働いていることが知られている。

 オックスフォードの会合では、おそらくハクスリーは方向性選択を、ウィルバーフォース大司教は安定化選択を強調して論争したのではないかと推測される。もし、そうであれば、2人とも、ある意味では正しく、ある意味では正しくなかったのだ。

いまも生まれる「おかしな進化論」

 生物の進化には、方向性選択と安定化選択の両方が必要だ。もし片方しか考えないと、おかしな進化論が生まれてしまう。そしてじつは、おかしな進化論は、オックスフォードの会合から160年以上も経った現在でも生まれ続けている。

 たとえば、宇宙を飛び交う放射線、つまり宇宙線が強くなると、生物のDNAに突然変異がたくさん起きて、進化速度が速くなるという説だ。もしも、方向性選択しかなければ、それは正しいだろう。

 でも実際には、安定化選択も働いている。安定化するところまで、速く変化したところで、どうせ安定化してしまえば同じなのだから、進化速度には関係ないのである。

くつろいで受けられる生物学講義――著者より

 ある農家に怠け者の男がいた。男は働くのが面倒でたまらないので、自分の代わりに田畑で働いてくれるロボットを作った。ところが、ひと月経つと、ロボットは壊れてしまった。仕方なく、男はまたロボットを作った。ところが、そのロボットも、ひと月経つと壊れてしまった。

 そこで男は、新型のロボットを作った。新型のロボットは、田畑で働くだけでなく、ひと月経つと新しいロボットを作って、それから壊れた。だから、男は、一日中家で寝ていられた。そんな折、男は作られるロボットが、少しずつ違うことに気がついた。

 たとえば、性能が1のロボットが作ったロボットの性能は、1.1になることも0.9になることもあった。しかしロボットの性能が、急激に変化することはなかった。そのうちに、たまたまロボットを2体作るロボットができてしまった。ところが、男の家には、ロボットを動かす燃料は1体分しかない。ロボットは、毎日農作業が終わって家に戻ると、燃料タンクから自分で燃料を入れることになっていた。そのため、農作業が早く終わったロボットが、先に家に戻って燃料を入れてしまう。すると、もう1体のロボットは燃料を入れることができない。そのため、燃料切れになったロボットは、家の隅に転がったままになった。

 そんなことが繰り返されていくうちに、ロボットの農作業はものすごく速くなった。生き残るのは、いつも性能が高いロボットだけだからだ。仮に、毎月性能が1.1倍になったとすれば、4年で、ほぼ100倍になる。ロボットは、急速に変化していき、もはや怠け者の男にはコントロールできないものになってしまった。ついにロボットは、自分で燃料を採掘するようになり、とうとう地球を支配するにいたった。もはや人間の姿は、どこにも見当たらなかった。

 以上の話は『若い読者に贈る美しい生物学講義』の中に書いた話(の一部)である。ロボットが2体ずつ作られて、そのうちの1体だけが生き残るなら、そのときの状況に適応している方が生き残ることになる。これは自然選択と呼ばれる現象で、ダーウィンが進化のメカニズムとして見つけたものだ。この話では、自然選択が働き始めたときに、ロボットの急速な変化が始まった。それは、もう元には戻れないような、根本的な変化であった。この瞬間にロボットは生物になったのだと、私は思う。

 これまでは、生物とはどういうものかを考えるときに、物質的な側面から考えることが多かった。たとえば、地球の生物の体のなかでは、いつも物質やエネルギーが流れている。この流れを代謝というが、これを生物の定義の一つとすることが多い。

 しかし、宇宙にはどんな生物がいるかわからない。たとえば、ロボットの体の中には、いつも物質やエネルギーが流れているわけではない。スイッチを切って寝ていれば、物質もエネルギーも流れない。それでも、宇宙のどこかに、さっきの話のようなロボットがいたら、それは生物と言ってもよいかもしれない。地球の常識から言えば、金属でできたロボットは生物ではないけれど、それは宇宙の常識とは違うのではないだろうか。

 もしも、宇宙全体で生物を定義できるものがあるかどうかわからないが、もしあるとすれば、それは「自然選択」だろう。どんな形をしていようが、どんな物質でできていようが、どんな振る舞いをしようが、とにかく自然選択によって作られたものが生物なのではないだろうか。生物は自然選択によって、周囲の環境に適するようになったものだ。つまり、その環境の中で、なかなか消滅しないようになったものだ。つまり、生き続けるようになったものなのだ。だから、本来生物は、生きるために生きているのであって、生きる以上の目的はないのだろう。生きるために大切なことはあっても、生きるよりも大切なことはないのだろう。まあ、生きていれば、それだけで立派なものなのだ。

『若い読者に贈る美しい生物学講義』では、従来の生物の見方に収まらない話も盛り込んでみた。

 内容を簡単に紹介すると、まず生物とは何かについて考える。その中で、科学とは何かについても考えていく。生物学も科学なので、その限界を理解しておくことが大切だからだ。それから実際の生物、たとえば動物や植物などの話をしてから、生物に共通する性質、たとえば進化や多様性について述べる。最後に身近な話題、たとえばがんやお酒を飲むとどうなるかについて話をする。「講義」という言葉が入っているが、くつろいで受けられる講義にしたつもりである。
 楽しんでもらえると、よいのだけれど。

更科 功(さらしな・いさお)1961年、東京都生まれ。東京大学教養学部基礎科学科卒業。民間企業を経て大学に戻り、東京大学大学院理学系研究科修了。博士(理学)。専門は分子古生物学。武蔵野美術大学教授、東京大学大学院非常勤講師。『化石の分子生物学』(講談社現代新書)で、第29回講談社科学出版賞を受賞。著書に『宇宙からいかにヒトは生まれたか』『進化論はいかに進化したか』(ともに新潮選書)、『爆発的進化論』(新潮新書)、『絶滅の人類史』(NHK出版新書)、共訳書に『進化の教科書・第1~3巻』(講談社ブルーバックス)、5万部突破のロングセラー『若い読者に贈る美しい生物学講義』(ダイヤモンド社)などがある。

東ローマ帝国(英語: Eastern Roman Empire[3])またはビザンツ帝国、ビザンティン帝国(英: Byzantine Empire)、ギリシア帝国、ギリシャ帝国は、東西に分割統治されて以降のローマ帝国の東側の領域、国家である。

ローマ帝国の東西分担統治は3世紀以降断続的に存在したが、一般的には395年以降の東の皇帝の統治領域を指す。なお、当時の国法的にはローマ帝国が東西に「分裂」したという事実は存在せず、当時の人々は東ローマ帝国と西ローマ帝国とを合わせて一つのローマ帝国であると考えていた。

皇帝府は主としてコンスタンティノポリスに置かれた。五世紀中頃の史家ソクラテスは、コンスタンティヌスが「その町を帝都ローマに等しくすると、コンスタンティノープルと名付け、新しいローマと定めた」と書き、井上浩一は「コンスタンティヌスがローマに比肩するような都市として、コンスタンティノープルを作ったという考えが見られるようにな」り「西ローマ帝国が滅びた五世紀末には、皇帝権がローマからコンスタンティノープルに移ったと明確に主張されるようになった」とコメントしている。

同地の人々は遅くとも6世紀中頃までには公然と「ローマ人」を自称するようになった。9世紀以降には西ローマ皇帝の出現を受けて「ローマ皇帝(ローマ人のバシレウス)」といった語が意識的に用いられるようになった。

ローマ帝国本流を自認するようになった彼らが自国を「ビザンツ帝国」あるいは「ビザンティン帝国」と呼んだことはなく正式な国名及び国家の自己了解は「ローマ帝国(ラテン語:Res Publica Romana; ギリシャ語: Πολῑτείᾱ τῶν Ῥωμαίων‎, ラテン文字転写: Politeia tōn Rhōmaiōn; ポリティア・トン・ロメオン)」であった。

中世になると帝国の一般民衆はギリシア語話者が多数派となるが、彼らは自国をギリシア語で「ローマ人の土地 (Ῥωμανία, Rhōmania, ロマニア)」と呼んでおり、また彼ら自身も12世紀頃までは「ギリシア人 (Ἕλληνες, Hellēnes, エリネス)」ではなく「ローマ人(Ῥωμαίοι, Rhōmaioi, ロメイ)」を称していた。

西暦476年に西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥスがゲルマン人の傭兵隊長オドアケルによって廃位された際、形式上は当時の東ローマ皇帝ゼノンに帝位を返上して東西の皇帝権が再統一された。

帝国は一時期は地中海の広範な地域を支配したものの、8世紀以降はバルカン半島、アナトリア半島を中心とした国家となった。また、ある程度の時代が下ると民族的・文化的にはギリシア化が進んでいったことから、同時代の西欧やルーシからは「ギリシア帝国」と呼ばれ、13世紀以降には住民の自称も「ギリシア人」へと変化していった。

初期の時代は、内部では古代ローマ帝国末期の政治体制や法律を継承し、キリスト教(正教会)を国教として定めていた。また、対外的には東方地域に勢力を維持するのみならず、一時は旧西ローマ帝国地域にも宗主権を有していた。しかし、7世紀以降は相次いだ戦乱や疫病などにより地中海沿岸部の人口が激減、長大な国境線を維持できず、サーサーン朝ペルシアやイスラム帝国により国土を侵食された。8世紀末にはローマ教皇との対立などから西方地域での政治的影響力も低下した。

領土の縮小と文化的影響力の低下によって、東ローマ帝国の体質はいわゆる「古代ローマ帝国」のものから変容した。住民の多くがギリシア系となり、620年には公用語もラテン語からギリシア語に変わった。これらの特徴から、7世紀以降の東ローマ帝国を「キリスト教化されたギリシア人のローマ帝国」と評す者もいる。「ビザンツ帝国」「ビザンティン帝国」も、この時代以降に対して用いられる場合が多い。

9世紀には徐々に国力を回復させ、東ローマ皇帝に権力を集中する政治体制を築いた。11世紀前半には、東ローマ帝国はバルカン半島やアナトリア半島東部を奪還し、東地中海の大帝国として最盛期を迎えたが、それも一時的なもので、その後は徐々に衰退していった。11世紀後半以降には国内の権力争いが激化し、さらに第4回十字軍の侵攻と重なったことから一時首都コンスタンティノポリスを失い、各地に亡命政権が建てられた。その後、亡命政権のひとつニカイア帝国がコンスタンティノポリスを奪還したものの、内憂外患に悩まされ続けた。文化的には高い水準を保っていたが、領土は次々と縮小し、帝国の権威は完全に失われた。そして1453年、西方に支援を求めるものの大きな援助はなく、オスマン帝国の侵攻により首都コンスタンティノポリスは陥落し、東ローマ帝国は滅亡した。

古代ギリシア文化の伝統を引き継いで1000年余りにわたって培われた東ローマ帝国の文化は、正教圏各国のみならず西欧のルネサンスに多大な影響を与え、「ビザンティン文化」として高く評価されている。また、近年はギリシアだけでなく、イスラム圏であったトルコでもその文化が見直されており、建築物や美術品の修復作業が盛んに行われている。

ビザンツ帝国、ビザンティン帝国、ビザンティオン帝国

この帝国の7世紀頃以降は文化や領土等の点で古代ローマ帝国との違いが顕著であるため、16世紀になると、便宜上「ビザンツ帝国」「ビザンティン帝国」「ビザンティオン帝国」といった別の名称で呼ばれるようになった。

16世紀に「ビザンツ帝国」という語の使用が確立されたのは、神聖ローマ帝国の人文主義者メランヒトンの弟子ヒエロニムス・ヴォルフ(英語版)(1516年~1580年)の功績とされる。ヴォルフはビザンツ史が単純なギリシア史ともローマ帝国史とも異なる一分野であることを見抜いた人物で、ヴィルヘルム・ホルツマン、ダヴィッド・ヘッシェル(英語版)、ヨハネス・レウンクラヴィウス(ドイツ語版)、ドゥニー・プトー(英語版)、ヴルカニウス(英語版)、メウルシウス(英語版)、レオ・アラティウス(英語版)ら16世紀から17世紀初頭にかけての多くの学者がヴォルフの例に従った。これ以降、学問領域においては近代を経て現代に至るまで一般に「ビザンツ帝国」の名称が用いられ続けている。これらの名称はコンスタンティノポリスの旧称ビュザンティオンに由来し、「ビザンツ」はドイツ語の名詞 Byzanz、「ビザンティン」は英語の形容詞 Byzantine、「ビザンティオン」はギリシア語の名詞をもとにした表記である。日本においては、歴史学では「ビザンツ」が、美術・建築などの分野では「ビザンティン」が使われることが多く、「ビザンティオン」は英語やドイツ語表記よりもギリシア語表記を重視する立場の研究者によって使用されている。

ただし、これらの呼称は帝国が「古代のギリシア・ローマとは異なる世界という考えを前提として」おり、7世紀頃以降の帝国を古代末期のローマ帝国(後期ローマ帝国)と区別するために使われることが多い。例えばオックスフォード・ビザンツ事典(英語版)や人気のある通史であるゲオルク・オストロゴルスキーの『ビザンツ帝国史』やA.H.M.ジョーンズの『後期ローマ帝国』では7世紀に誕生するビザンツ帝国が6世紀までの帝国とは異なる帝国として扱われている。

ギリシア帝国、コンスタンティノープルの帝国

古代ローマの人々は同地の人々を指して「ギリシア人」と呼んでおり、それは同地の人々が「ローマ人」を自称するようになった6世紀以降にも変わりはない。カール大帝の戴冠によって西ローマ帝国にローマ皇帝が復活して以降には、中世の西欧は一貫してビザンツを「ギリシア」と呼んだが、そこには「西欧こそが古代ローマ帝国の継承者であり、コンスタンティノープルの皇帝は僭称者である」という主張が込められていた。

東ローマ帝国と政治的・宗教的に対立していた西欧諸国にとっては、カール大帝とその後継者たちが「ローマ皇帝」だったのである。13世紀のパレオロゴス朝ルネサンス以降には、東ローマ帝国の人々も自らを指して「Έλληνες, ヘレーネス, イリネス(ギリシア人)」と呼ぶようになっていった。また、東ローマ帝国はルーシの記録でも「グレキ(ギリシア)」と呼ばれており、東ローマ帝国の継承者を自称したロシア帝国においても東ローマ帝国はギリシア人の帝国だと認識されていた。

例えば桂川甫周は著書『北槎聞略』において、蘭書『魯西亜国誌』(Beschrijving van Russland ) の記述を引用し、「ロシアは元々王爵の国であったが、ギリシアの帝爵を嗣いではじめて帝号を称した」と述べている。

ビザンチン観光『ターキッシュエア&トラベル』

395年に死去したローマ皇帝テオドシウス1世が、二人の息子に東西を二分して統治させたため、結果的にローマ帝国が東西分裂することになりました。

東西分裂の際に、東方正帝がコンスタンティノープルを首都とし統治した東方領が「東ローマ帝国(ビザンツ帝国)」です。西には西方正帝がメディオラーノム(現ミラノ)を首都として統治した西方領土「西ローマ帝国」がありました。

日本語ではもっぱら黒海(こっかい)と呼ばれる。英語ではBlack Sea、トルコ語ではKaradeniz、ロシア語ではЧёрное море、ウクライナ語ではЧорне мореとなる。トルコ語のKara Denizには「偉大なる海」という意味の他に「黒い海」という意味もあり、ちなみに地中海はトルコ語でアク・デニズ(白い海)という。Amasra,_Bartın,_Turkey

引用記事名称の変遷 以下割愛

ダイヤモンド


全文 拙著


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