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ヒミコ、何処に

平成の「卑弥呼」(ヒミコ)
唐突に小池氏をつかまえて「卑弥呼」呼ばわりするのは失敬であり、また世間に対しても媚びた言説表現であるという自意識は充分認識している。
その、十分認識している中で、さらに掘り進んで現代と超古典がどのようにリンクしているのか、という問題意識を綱領テーゼしたい。

だいたいが「卑弥呼」という存在がいまだ認識されていないという考古学上のミステリーであり、その根拠は古代中国史の「魏志倭人伝」に書かれてある人物としての認識しかない。

また日本の歴史においても縄文から弥生時代に至る時間系列が学術的にも解明されておらず、はたして「縄文人」とは古代日本の土着的ネイティブであったのか、はたまた稲作文化を伝来した弥生人とは、縄文人と遺伝的に、まったく異なる因子の種族なのか、という謎に満ちた歴史と民族であり、唯一、そのことを語ったのが「魏志倭人伝」という外来書籍という、こころもとない「卑弥呼」である。
(という長い間の定説は「ウンブキ」遺跡人骨遺伝子解析の結果、古墳時代をを境に、これまでの定説を覆す遺伝子資料が見つかった。
■弥生時代の始まりとともに、渡来人の血が少しずつ染みるように先住民の中に受け入れられ、先住民は率先して稲作を選択し、人口爆発をおこした。彼らの子孫は、日本の風土の中で育まれ、縄文時代から続く列島人の風習と伝統を捨てなかった。もちろん、その後も大陸や朝鮮半島の動乱から逃れて人々が日本にやってきたが、彼らが日本列島を征服し、支配したわけではない。という説は否定されることになる。)

ウンブキから7千年前の土器 「縄文時代の生活知る手掛かり」 天城町
2020年07月24日

古来より、「邪馬台国卑弥呼」の居場所と人物は、おらが故郷から発している、とした説が林立し、叫ぶわりには物的証拠を提示できない。

「昨年偶然発見された銅鐸」

銅鐸は、この時代と年代的に一致するが確かな証拠はない。ただ物的証拠としての銅鐸は国宝級という貴重なもので、改めて人間の造った物理的存在は、やはり歴史の時間スパンを測る尺度として大切なものである。

2015年5月19日 21:48(ニュース)日テレ ■砂山から銅鐸7個発見…国宝級?

弥生時代中期(紀元前2世紀頃)の銅鐸どうたく7個が、兵庫県南あわじ市(淡路島)で見つかり、県教委と市教委が19日、発表した。
海岸近くの松帆まつほ地区から採取された砂の山から見つかり、「松帆銅鐸」と名付けられた。出土数では、最多の島根県雲南市・加茂岩倉遺跡(39個)などに次ぐ4番目となり、一度に大量に埋められた最古のケースとなる。専門家は「初期の銅鐸祭祀さいしの解明につながる国宝級の資料」と評価している。

この銅鐸は兵庫県教育委員会は、同じ南あわじ市の松帆地区ではないかとしています。松帆地区は淡路島南部の瀬戸内海を臨む平野部にあり、美しい松並木が続く国の名勝「慶野松原」とその周辺に当たります。

この地区では、これまでも弥生時代の青銅器が集中的に出土し、2か所から合わせて9点の銅鐸が出土したり、出土したという記録が残されたりしているほか、さらに別の場所では銅剣が14本出土しています。兵庫県教育委員会などは銅鐸があった元の場所の特定などを目指し、引き続き調査することにしています。

(記事引用)画 安田靫彦(1884-1978)


ヒミコ肖像



卑弥呼というキャラ

ここには一般的また通俗的、さらにいうなら教科書的な解説文を参考までに表記しておく。したがって読んでもまったく面白味に欠け、わくわくしないが、学習基本としての定型説を知っておく必要がある。

その後に、この卑弥呼伝説と、日本の国家形成としての神話と考古学上の説話を展開しよう。そしてエピローグは今もっとも注目される「豊洲」にその起爆セットが仕掛けられていた。

これまで誰も予想もしていなかった古代史に乾坤一擲の大博打を仕掛ける。
と、まるで新進気鋭の古代史若手作家売り出しのキャッチコピーだな~。そんなことしたって落ち目のオワコン「本屋」業界なんぞ見向きもされない~。
(※資料ウィキぺデア)

卑弥呼は『魏志倭人伝』等の中国の史書に記されている倭国の王(女王)。邪馬台国に都をおいていたとされる。封号は親魏倭王。後継には宗女の壹與が女王に即位したとされる。(ひみこ、175年 - 247年あるいは248年頃)

「魏志倭人伝」の卑弥呼

「魏志倭人伝」によると卑弥呼は邪馬台国に居住し(女王之所都)、鬼道で衆を惑わしていたという(事鬼道、能惑衆)。この鬼道や惑の意味には諸説あり正確な内容は不明。ただし中国の史書には、黎明期の中国道教のことを鬼道と記している例もある。

既に年長大であったが夫を持たず(年已長大、無夫壻)、弟がいて彼女を助けていたとの伝承がある(有男弟佐治國)。王となってから後は、彼女を見た者は少なく(自爲王以來、少有見者)、ただ一人の男子だけが飲食を給仕するとともに、彼女のもとに出入りをしていた(唯有男子一人、給飲食、傳辭出入)。宮室は楼観や城柵を厳しく設けていた(居處宮室・樓觀、城柵嚴設)。

卑弥呼が死亡したときには、倭人は直径百余歩(この時代の中国の百歩は日本の二百歩に相当する)もある大きな塚を作り、奴婢百余人を殉葬したとされている(卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、狥葬者奴碑百餘人)。塚の大きさが直径で記されているところから、円墳であったと考えられる。

「魏書帝紀」の俾弥呼

『三國志』(三国志)の卷四 魏書四 三少帝紀第四には、正始四年に「冬十二月倭國女王俾彌呼遣使奉獻」とある。

『三国志』
時期不明 - 倭国で男性の王の時代が続いた(70-80年間)が、その後に内乱があり(5-6年間)、その後で一人の女子を立てて王とした(卑弥呼の即位)。
名を卑彌呼といい、鬼道に仕え、よく衆を惑わす。年齢は既に高齢で夫はなく、弟がいて国の統治を補佐した。

景初二年(238年)12月 - 卑弥呼、初めて難升米らを魏に派遣。魏から親魏倭王の仮の金印と銅鏡100枚を与えられた。

正始元年(240年) - 帯方郡から魏の使者が倭国を訪れ、詔書、印綬を奉じて倭王に拝受させた。

正始四年(243年)12月 - 倭王は大夫の伊聲耆、掖邪狗ら八人を復遣使として魏に派遣、掖邪狗らは率善中郎将の印綬を受けた。

正始六年(245年) - 難升米に黄幢を授与。

正始八年(247年) - 倭は載斯、烏越らを帯方郡に派遣、狗奴国との戦いを報告した。魏は張政を倭に派遣し、難升米に詔書、黄幢を授与。

時期不明 - 卑弥呼が死に、墓が作られた。男の王が立つが、国が混乱し互いに誅殺しあい千人余が死んだ。卑弥呼の宗女「壹與」を13歳で王に立てると国中が遂に鎮定した。倭の女王壹與は掖邪狗ら20人に張政の帰還を送らせ、掖邪狗らはそのまま都に向かい男女の生口30人と白珠5000孔、青大句珠2枚、異文の雑錦20匹を貢いだ。

魏志倭人伝(ぎしわじんでん)は、中国の歴史書『三国志』中の「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条の略称。当時、日本列島にいた民族・住民の倭人(日本人)の習俗や地理などについて書かれている。著者は西晋の陳寿で、3世紀末(280年(呉の滅亡)- 297年(陳寿の没年)の間)に書かれ、陳寿の死後、中国では正史として重んじられた。

『三国志』の中に「倭人伝」という独立した列伝が存在したわけではなく、「東夷伝」の中に倭及び倭人の記述がある。
従って倭人に関する条のみならず、東夷伝のすべてを通読しなければ意味がないという考え方もある。さらに、『三国志』の研究者である渡邉義浩は「『三国志』の著者である陳寿(ちんじゅ)(233~297年)の世界観や政治状況は、約37万字に及ぶ『三国志』(それに付けられている裴松之(はいしょうし)〔372~451年〕の注は、本文に匹敵する約36万字)のすべてに目を通すだけではなく、世界観を形成している儒教(じゅきょう)の経典(けいてん)に通じなければ分からない」と述べている。

中国の正史中で、はじめて日本に関するまとまった記事が書かれている。『後漢書』東夷伝のほうが扱う時代は古いが、『三国志』魏志倭人伝のほうが先に書かれた。なお講談社学術文庫『倭国伝』では『後漢書』を先に収録している。

当時の倭(後の日本)に、女王の都する邪馬台国(邪馬壹国)を中心とした国が存在し、また女王に属さない国も存在していたことが記されており、その位置・官名、生活様式についての記述が見られる。また、本書には当時の倭人の風習や動植物の様子が記述されていて、3世紀の日本を知る史料となっている。

しかし、必ずしも当時の日本の状況を正確に伝えているとは限らないことから、邪馬台国に関する論争の原因になっている。 また一方で、岡田英弘など『魏志倭人伝』の史料としての価値に疑念を投げかける研究者もいる。岡田は位置関係や里程にズレが大きく信頼性に欠ける点を根拠として挙げている。渡邉義浩は『魏志倭人伝』には「卑弥呼が使者を派遣した当時の曹(そう)魏(ぎ)の内政・外交や史家の世界観に起因する、多くの偏向(歪(ゆが)んだ記述)が含まれている」と指摘している。

「魏志倭人伝」によると、倭人は山島に依って国邑とし、漢の頃から大陸への朝貢があり、記述の時点では30箇国が使者を通わせている。(ウィキぺデア参照)

「縄文人ゲノム解読」 (NHK ONLINE)

(時論公論)土屋敏之 解説委員

NHK ONLINE2016年10月10日 (月) 

日本人の祖先と思われている縄文人。そのイメージが大きく変わろうとしています。福島県で発掘された人骨からゲノムが解読され、「縄文人はアジアの他の地域の人たちと大きく異なる特徴を持っていた」とわかったのです。そればかりか、現代の日本人とも予想以上に違いが大きかったと示されました。

では一体、縄文人とは何者だったのか?私たちのルーツにも関わる最新科学の意味を3つのポイントから読み解きます。

まず、「核DNA解析」と呼ばれる今回の手法が、これまでと何が違うのか整理します。続いて、解析の結果つきつけられた「縄文人とは何者か?」、さらには「では私たちは何者なのか?」、という謎を読み解きます。


そして、「科学が変えた人類観」。DNA解析の進歩は、人類がどんな存在なのか?というイメージ自体を変えてきました。それをどう受け止めればいいのか考えます。

先月、国立遺伝学研究所などのグループが「縄文人の核ゲノムを初めて解読した」とする論文を 専門誌に発表しました。
この「縄文人」とは、福島県新地町にある三貫地貝塚で発掘された3千年前の人骨です。
三貫地貝塚(さんがんじ)は、昭和20年代に100体以上の人骨が発掘された、縄文時代を代表する貝塚のひとつです。研究グループは、東京大学に保管されていた人骨・男女2人の奥歯の内側からわずかなDNAを採取し、解析に成功しました。

DNA解析と言えば、今や犯罪捜査から薬の副作用の研究まで様々な分野で使われていますが、今回の研究では「核DNAの解析」というのがポイントです。実はこれまで「古代人のDNA」というと、行われてきたのは「ミトコンドリアDNA」というものの解析でした。

私たちの細胞には「核」があってその中に「核DNA」が入っていますが、これとは別にミトコンドリアという小さな器官の中にもDNAがあります。
ミトコンドリアはひとつの細胞に数百個もあるため分析に広く使われてきました。ただ、ミトコンドリアDNAの持つ情報は限られていて、文字数に例えると2万文字以下の情報しかありません。
これに対し、核DNAは32億文字にも上り、私たちの姿形や体質など膨大な情報を含んでいます。技術の進歩で新たな分析装置が登場したこともあって、今回、日本の古代人では初めて核DNAの一部が解読されたのです。

では、縄文人とは何者だったのか?
こちらは解析の結果、三貫地縄文人が現代のアジア各地の人たちとどれぐらい似ているのか、プロットした図です。近い場所にある人同士は核DNAがより似ていることを示します。
すると、縄文人はアジアのどこの人たちとも大きな隔たりがあるとわかりました。それだけでなく、現代の日本人ともかなり離れています。現代の日本人は、縄文人よりむしろ他のアジアの人たちに近い位置にあるのです。

こうした距離は、人々が共通の祖先から別れて別々に進化を始めた時代の古さを示すと考えられています。DNAには時間と共に突然変異が起きるため、別れてからの時間が長いほど違いが大きくなるためです。

そこで、この結果を共通祖先からの分岐の古さを示す「進化の系統樹」にするとこうなります。

「ホモ・サピエンス」と呼ばれる私たち現生人類は20万年前にアフリカで誕生し、その後他の大陸に進出しました。ヨーロッパに向かった人たちと別れ、東に進んだグループのうち、最初に分岐したのはパプアニューギニアからオセアニアへ渡った人たちです。
そして解析の結果、次に別れたのが縄文人だったのです。これは、縄文人が他のアジア人ほぼ全てと別のグループであることを意味します。
他のアジア人はその後、中国や東南アジア、さらにはアメリカ大陸に向かう集団へと別れました。現代の日本人もこちらのグループに入っています。
これを見る限り、縄文人は日本人の祖先には見えません。ただ同時に、この矢印は、縄文人と現代の日本人のDNAのうち12%は共通だということを示しています。一体どういうことなのか?研究者が考えるシナリオです。

およそ4万年前から2万年前の間に、大陸から日本に渡った人々がいました。大陸とは海で隔てられていたため、この人々はその後大陸のアジア人と交わること無く進化を遂げ、縄文人の祖先になります。その間、大陸のアジア人も様々に別れていきました。

そして、縄文時代の末以降、再び大陸から日本に大勢の人が渡ってきました。いわゆる渡来系の弥生人です。稲作文化を持ち込んだ渡来系弥生人は人口の多くを占めるようになりますが、その過程で縄文人と幾らか交わりを持ったため、現代の日本人には12%だけ縄文人のDNAが伝えられたのです。
従来の研究では、現代日本人には縄文人の遺伝子が2割~4割ほど入っているとも考えられていましたので、それよりかなり少ないという結果です。

ただし、これはあくまで福島県・三貫地貝塚のわずか2人のDNA解析の結果です。「縄文人の中にも多様な人達がいて三貫地縄文人は現代人との共通性が低かったが、西日本の縄文人はもっと共通性が高いかもしれない」と考える専門家もいます。
現在、国立科学博物館などのグループでも、北海道から沖縄まで各地の古代人の核DNA解析に取り組んでおり、今後、日本人のルーツはより詳しく解明されていくでしょう。

さて、こうした科学の進歩は私たちが抱く「人類観」さえ変えてきました。

発端は1987年、ミトコンドリアDNAの解析から、アメリカの研究グループが衝撃的な発表をしました。
それは、「世界の人々の母方の祖先をさかのぼると、20万年前のアフリカにいた、たった一人の女性に辿り着く」というものでした。この女性は「ミトコンドリア・イブ」と名付けられました。

このことは、それ以前から各地にいたはずの古い人類たちを、あとからアフリカを出た我々ホモ・サピエンスが全て絶滅させ、置き換わった証拠だと考えられました。

しかし、これをくつがえす人類観も、今度は核DNAの解析から生まれました。2010年、ドイツのグループがおよそ4万年前にヨーロッパにいたネアンデルタール人の核DNAを解読。「我々はネアンデルタール人からDNAの数%を受け継いでいる」と発表したのです。

この発見は、ホモ・サピエンスはネアンデルタールと共存し交わりを持って子孫を残した、それが我々の祖先だということを意味します。私たちは他者を滅ぼすばかりの攻撃的な種では無く、異なる人々を受け入れ、それによって豊かな多様性を持つようになったのではないか?そんな可能性を科学が示したのです。

こうした発見の積み重ねの先に、いつの日か「私たちはいかなる存在なのか?」そんな根源的な問いにも答えが出されるかもしれません。(土屋 敏之 解説委員)
(記事引用)

DNA研究で「縄文人と弥生人」が分かってきた
投稿日: 2015年06月18日 21時10分 JST ハフィントンポスト

 2015年5月29日(金)、「NHKニュースおはよう日本」で、「分かってきた縄文人のDNA」なる特集が放映された。1万数千年前から2千数百年前まで繁栄を誇った縄文人のDNAが日本人の体にはしっかり刻み込まれており、東アジアの人びとと日本人は外見こそよく似ているが、DNAを見比べると大きな差があるという内容だ。古代史に興味ある人びとには、すでに広く知れ渡っていた学説だが、ようやく市民権を獲得したわけである。

日本民族バイカル湖畔起源説

 これまでは、弥生時代の始まりとともに大陸や朝鮮半島から大量の渡来人(弥生人)が押し寄せ、先住民(縄文人)は圧倒され駆逐されたと信じられてきた。江上波夫の騎馬民族日本征服説が戦後の史学界を席巻してしまった時期もあった。さすがにこの推論を支持する学者はいなくなったが、「日本に与えた朝鮮半島の影響力を大きくみなすことこそが進歩的」という風潮は、つい最近まで残っていたように思う。しかしそういった「これまでの常識」は、もはや通用しなくなった。

 まず、かつて盛んに唱えられていた日本人南方起源説が、否定された。人種の違いを識別できる「血液型Gm遺伝子」の分布から、日本人の先祖はロシアのバイカル湖から南下してきたことが判明したのだ。「日本民族バイカル湖畔起源説」である(松本秀雄『日本人は何処から来たか』NHKブックス)。さらに、DNA研究の進化によって、新人(ホモ・サピエンス)が15万年前にアフリカ大陸に生まれ、その後世界各地に散らばっていったことも証明された。

 それだけではない。人類の祖は大きく3つのグループに分かれてアフリカを旅立ったが、その3つの遺伝子すべてが、日本列島にやってきたという。このような例は、世界中見渡しても稀で、ここに日本人の特徴が隠されているという。

 さらに、父から息子につながっていくY染色体の研究が急速に進み、日本人のルーツ探しが一気に加速したのだ。ちなみに、Y染色体はA~Tの系統に分かれ、日本人に関わりの深かったのはDとOの系統だ。

渡来人を受け入れた先住民

 では日本人は、いつ、どこからやってきたのだろう。『新日本人の起源 神話からDNA科学へ』(勉誠出版)の中で崎谷満は、次のように推察する。

 バイカル湖畔から南下し華北に暮らしていたD系統だが、漢民族の圧迫から逃れるためにさらに南下し日本列島にやってきて、縄文人の中核を形成した。かたや、弥生時代に渡来した人々は長江流域で水稲栽培をしていたO系統だ。やはり、漢民族に滅ぼされて逃れてきたという。また、朝鮮半島の人びともO系統である。

 現代の日本人の体の中に占めるD系統の割合は3割、O系統は5割と、渡来系の比率が高い。この数字だけ見れば、やはり渡来人に先住民が圧倒されたと思えてくる。しかし、前回示した「少数渡来」「先住民との融合」「列島人の稲作民化」「継承された縄文文化」「稲作民の人口爆発」という有力な仮説を用いれば、謎はなくなる(2015年5月18日「『任那日本府』の何が問題か」参照)。

 弥生時代の始まりとともに、渡来人の血が少しずつ染みるように先住民の中に受け入れられ、先住民は率先して稲作を選択し、人口爆発をおこした。彼らの子孫は、日本の風土の中で育まれ、縄文時代から続く列島人の風習と伝統を捨てなかった。もちろん、その後も大陸や朝鮮半島の動乱から逃れて人々が日本にやってきたが、彼らが日本列島を征服し、支配したわけではない。

 なぜわれわれは、縄文人を軽視してきたのだろう。教科書そのものが、かつての常識そのままに、「野蛮だから駆逐された縄文人」という歴史観を子供たちに押しつけていたように思えてならない。

 教科書には、「背の高い弥生人、小さな縄文人」の骨格写真が並べられていた。あれを見れば、縄文人と弥生人は入れ替わったと信じてしまう。

 その一方で、遺跡の現場で泥にまみれ直接発掘に携わっていた考古学者の多くは、「本当に日本列島は渡来人に席巻されたのだろうか」と、疑問を抱き続けてきたのだ。なぜならば、たとえば、弥生早期の外来系の土器は、玄界灘の沿岸地帯(北部九州)の大きな遺跡から発見されるだけで、他の地域からはほとんど見つかっていない。これは、考古学者の常識だった。

 今から10年ほど前に訪ねた青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡(鳥取県鳥取市青谷町)で学芸員が、「弥生時代は渡来人が作り上げたと言うが、それは違う。発掘を長いことやっていると、縄文の力を、ひしひしと感じる」と、やや憤慨しておっしゃっていたのを思い出す。この遺跡から発見された遺物の中に木の枕があって、そこに人間の歯が埋め込まれていた。
 これは縄文人の抜歯の風習の名残だ。弥生人も呪術のために、歯を抜き、枕に埋めていたわけで、われわれ日本人は、そうした伝統を受け継いだ縄文人の末裔なのだ。

 われわれの御先祖様たちは「敗れ、渡り来たった者たち」を寛容に受け入れ共存し、豊かな感性を磨き、当時の中国や朝鮮半島の先進の文物を貪欲に学び取り、世界に冠たる文化を花開かせてきたのだ。その歴史を、われわれはもっと誇りにしてよいと思う。

関裕二 1959年千葉県生れ。仏教美術に魅せられ日本古代史を研究。『藤原氏の正体』『蘇我氏の正体』『物部氏の正体』(以上、新潮文庫)、『伊勢神宮の暗号』(講談社)、『天皇名の暗号』(芸文社)など著書多数。(記事引用)

太安萬侶墓誌発見について
- 古事記編纂者・太安万侶の実在を確定させた墓誌、重要文化財【大古事記展】 2014年11月11日 神社と古事記

1979年、奈良市此瀬町の茶畑開墾中に発見された墳墓から、短冊型の銅版の墓誌が発見された。

そこには太安万侶の居住地(左京四條四坊)、位階勲等(従四位下勲五等)、没年月日(癸亥年七月六日)など41文字が刻まれている。

癸亥年は、養老7年(723年)。この墓が太安万侶のものであることが確定したとともに、太安万侶が実在したことを証明する画期的な発見となった。

古事記の序に登場する太安万侶はその実在性が不確かだったために、古事記の序及び古事記そのものの信用を貶め、古事記の偽書説もあったものの、この墓誌の発見で、改めて古事記の序及び古事記が見直され、その編纂者としての太安万侶が脚光を浴びるきっかけとなった。

太 安万侶(おお の やすまろ、生年不詳 - 養老7年7月6日(723年8月11日))は、奈良時代の文官。名は安萬侶、安麻呂とも記される。姓は朝臣。多品治の子とする後世の系図がある。官位は民部卿従四位下。贈従三位。              

奈良県奈良市此瀬町の太安万侶墓から出土した墓誌と真珠。墓誌は青銅製、共に重要文化財、文化庁蔵、奈良県立橿原考古学研究所附属博物館展示。

1979年(昭和54年)1月23日、奈良県立橿原考古学研究所より、奈良県奈良市此瀬町の茶畑から安万侶の墓が発見され(北緯34度39分55.0秒東経135度54分25.0秒)、火葬された骨や真珠が納められた木櫃と墓誌が出土したと発表された。

墓誌の銘文は2行41字。左京の四条四坊に居住したこと、位階と勲等は従四位下勲五等だったこと、養老7年7月6日に歿したことなど記載。墓誌銘全文引用は以下の通り。

左亰四條四坊従四位下勲五等太朝臣安萬侶以癸亥年七月六日卒之 養老七年十二月十五日乙巳

墓は『太安萬侶墓』として1980年(昭和55年)2月19日に国の史跡に指定された。また『太安萬侶墓誌』は、1981年(昭和56年)6月9日に重要文化財(美術工芸品)に指定されている。
(記事引用)

暦ものがたり 岡田 芳朗 (著)(讖緯説)
「暦ものがたり」の一部抜粋「讖緯説」に書いてあるものを引用。

中国の漢時代以降より盛んになった思想の讖緯説は、陰陽五行説や占星術、暦学の知識なと使って歴史や政治上の変革、また未来予言しようとするもので、その当時の先端的国際標準思想とされていた。

その中に辛酉(しんゆう)・甲子(かっし)という大変節の説があり、辛酉年は革命、甲子年には革令が起こると予言している。

もし、その記事が信憑性をもち信頼できる情報なら国を揺るが騒動ネタである。それで思ったのは上記の「辛酉・甲子」という大変節の説に相当するのではないかと思った。

そもそも日本歴史は神代の時代より始まっているが縄文・弥生時代のことは明らかにする情報がないので、書かれていないが、歴史上の初代神武天皇は年表に明記されている。では、それを作り上げたのは誰なのか~、ということである。

聖徳太子は蘇我馬子と協力して国史の編纂に着手する。

その際、国史を位置づけるための建国の定義が必要となる。そこで当時国際世界の間で使われていた讖緯説を動員したのである。そこに歴史上の最大サイクルである「辛酉・甲子の大変革」の説を用いた。その理論より導かれた年紀を大胆に策定した。

601年(推古天皇9年)が辛酉の年にあたり、これより逆算して1260年さかのぼった紀元前660年をもって神武天皇の即位元年とする。それ以後の事件を適当な時代にあてはめ歴史書としての体裁を繕う。後に編纂された「日本書紀」の紀年もこのとき採用した紀年法がもとになっているといわれる。

ここに誕生した日本国史、それを神武天皇即位元年とした。それは讖緯説による空想のものである。しかし讖緯説は世界的に権威を持っていたので説得力があったとされる。

歴史上最大サイクルとされた最初の年である辛酉には大変革が起きる。一元は六十干支の一巡すなわち21元×60年=1260年となる。太子はこの説に従って推古天皇9年、辛酉601年、から1260年を遡った前660年、を日本建国の年と定めた。「岡田芳朗・暦ものがたり」参照。

では、その起点(辛酉601年)とした時間から未来へと進んだ、それから1260年後の歴史上に何か大変革があったのか。推古天皇時代より1267年後の1868年は「戊辰戦争」が始まった。日本国家の革命的大変革徳川幕府が崩壊し、明治時代の夜明けである。
甲子は「政治の交替の年」としているから、多少のズレを考慮しても1260年との誤差7年は無いに等しいと考えたい。

その讖緯説は、信頼に足る明確な学問か、という問いも考えておく必要がある。占星や陰陽五行説、シャーマン呪術など、近代科学から見れば胡散臭いシロモノとして見られる。しかしギリシア自然科学の時代から見れば始まりでは大差ない。(自サイト内 参照ブログ

関連検索ページ 讖緯暦運説(しんいせつ)

関連検索ページ 讖緯説とざくろ
http://blog.livedoor.jp/raki333-deciracorajp/preview/edit/d4b261e99940d351c75bb1c811bc3c5c

卑弥呼とされる古墳
http://blog.livedoor.jp/raki333-cinnamon/archives/8517506.html

「平成の卑弥呼は小池百合子か」 2016-10-25 07:45:25  | 自著記事引用


古墳時代の釘




珪化木



古墳時代 ヒラカ




天気・天候・気候について古来伝承されてきた経験則「天気俚諺」を知っていますか?
奥田ユキコ 2015/年02月20日

天気予報がなかった時代、人々は空の色や風向き、地形、動物の様子などから天気を予想し、生活に役立てていました。「月に笠がかかると雨」「夕焼けの次の日は晴れ」など、皆さんも耳にしたことがあるのではないでしょうか。
天気にまつわる、このようなことわざは「天気俚諺(てんきりげん)」と呼ばれています。
気象学の見地からは説明のつかないものがほとんどですが、現代に生きる私たちにとって参考になるものが少なくありません。
アウトドアなど、天候が気になる時の豆知識として役立つかもしれませんよ。

スズメが朝早くからさえずる時は「晴れ」
トンボが低く飛ぶ時は「雨」
ごはん粒がお茶碗からきれいにとれると「雨」

スズメが朝早くからさえずる時は「晴れ」

スズメは、日の出の少し前に目覚める習性があります。日の出前に、雲が少ない(晴れている)場合、スズメは太陽光の刺激をたくさん受けることに。そのため、曇りや雨の日よりも早い時間帯から、盛んに鳴き始めるのです。また、太陽がきれいに見えることで日が昇ったことがハッキリわかり、スズメが一斉にさえずり始めるのだともいわれます。
雨が止むかどうかを判断するのにも、スズメの習性が役立つようです。雨が小降りに(または止みそうに)なると、スズメはいち早く行動を開始するからです。スズメのさえずりが聞こえたら、もうすぐ雨が止むと思ってよいでしょう。
●類似のことわざ
太鼓の音が遠くでも聞こえると「晴れ」
太鼓に使われている革は、湿度によって収縮します。晴れて乾燥すると革の張りがよくなり、音も冴えわたって遠くからでもよく聞こえるようになるといわれます。近所のお祭り、運動会の太鼓……、「そういえば」と思い当たる方もいらっしゃるのではないでしょうか?

トンボが低く飛ぶ時は「雨」
トンボのえさとなる小さな虫たちは、雨が降りそうになるといつもとは違う場所に身を隠したり、羽根が湿気を含んで高く飛べなくなったりします。それにつられて、トンボもいつもより低い位置を飛ぶようになるのだそうです。同じ理由で「ツバメが低く飛ぶ時は雨」ともいわれます。

●類似のことわざ
カモメが人里に飛んでくると「天気(海)が荒れる」
いつもは沖合いで小魚を狙っているカモメ。それが港の周辺や、時には人里に飛来してえさ探しをしているとなると、天気は下り坂。海が荒れる予兆であるとされています。

ごはん粒がお茶碗からきれいにとれると「雨」
ごはんを食べた後、茶碗を放っておくとごはん粒がこびりついてしまいますよね。同じ水加減で、同じ分量のごはんを炊いているのに、日によってこびりつき方が違うと感じることはありませんか? これは、湿度の変化によるものです。湿度が低いとごはん粒はすぐ乾燥し、こびりつきやすくなります。逆に、低気圧が近づき湿度が高くなると、ごはん粒は乾燥しづらく、茶碗から洗い流しやすくなるというわけです。

●類似のことわざ
炭に火がつきやすいと「晴れ」
炭を使って煮炊きしていた時代のことわざです。着火しやすいのは、乾燥しているということ。逆に火がおこりにくければ、炭が湿気ている、つまり雨が近づいている証拠とされました。
●類似のことわざ
髪に櫛が通りにくいと「雨の予兆」
空気中の湿度が高くなると、髪の毛が水分を吸収してふくらみます。ふくらんだ髪はうねりを生じるため、櫛が通りにくくなるのです。「梅雨どきは髪型が決まらない」と悩む方が多いのも、髪が水分を多く含むのが理由です。
このほかにも、気候や地形など、その土地の事情に合った「天気俚諺」が世界中にたくさんあります。
皆さんの身近な場所でも、きっと「なるほど」と思えることわざが言い伝えられているはず。これを機に、地元ならではのことわざを探してみてはいかがでしょうか? 生活がもっと豊かに、楽しくなるかもしれません!

●参考
青木孝『図解雑学 よくわかる気象のしくみ』(ナツメ社)
天達武史『知ってとくする天気のことわざ』(徳間書店)






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ビットコインが5万3000ドル上回る、過去2年余りで最高の水準
2024/2/27(火) 3:10配信 Bloomberg
(ブルームバーグ): ビットコインは26日の取引で5万3000ドルを超え、過去2年余りで最高の水準に達した。
上場投資信託(ETF)を通じた需要が持続し、最大の暗号資産(仮想通貨)であるビットコインの価格を過去最高値付近まで押し上げるとの楽観が膨らんでいる。暗号資産投資会社GSRの店頭取引担当グローバルヘッド、スペンサー・ハラン氏は「ビットコインはETFへの力強い流入を支えに、上昇を続ける」と述べた。ビットコインは一時3.5%高の5万3600ドルと、2021年12月以来の高値に上昇。当時はこの1カ月前に6万9000ドル近くで過去最高値を付けていた。

先月に取引を開始した9本のETFには、合計で50億ドル余りの資金が純流入した。ETFに転換された「グレースケール・ビットコイン・トラスト」は同期間に74億ドルが純流出し、これも合計の計算に含まれている。
原題:Bitcoin Tops $53,000 to Reach the Highest in More Than Two Years(抜粋)
--取材協力:Muyao Shen.
(c)2024 Bloomberg L.P.


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