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スピノザとアインシュタイン

日本人の「自然観」こそが世界の最先端だったのではないか アインシュタインも信じたスピノザの“神”

2024/3/25(月) 6:00配信 Book Bang

「八百万の神」を持ち出すまでもなく、日本人は自然に神々を見出すという説は強い支持を得ている。対比されるのは「一神教」的な思想である。西洋的な考え方では自然は征服の対象とされ、日本人にとっては畏敬の念を持つべき共存の対象となっている、といった解釈を唱える人もいる。

「SDGs」「環境保護」が盛んに叫ばれる現代の視点で考えれば、日本的な思考のほうが先端を走っていたと言えるかもしれない。が、もちろん「西洋的な考え方」などと乱暴に一括りにできるものでもない。たとえば17世紀のオランダで生まれ、近代哲学の礎を築いた一人でもあるベネディクトゥス・デ・スピノザは自然への謙虚な姿勢の重要性を説いた。その思想は、我々日本人にも実に馴染みやすいものだといえそうだ。

アインシュタインにも大きな影響を与えたスピノザの「自然観」とはどのようなものだったのか? 比較文学者の大嶋仁さんの著書『1日10分の哲学』をもとに見てみよう(以下、同書を引用・再構成しました)。

ダーウィンの進化論を認めない学校も…自然科学の敵である西洋の宗教的世界観

『1日10分の哲学』大嶋仁[著](新潮社)

だいぶ昔のことだ。メキシコから家族連れで日本に来た大学教授が、あるとき自宅に呼んでくれた。奥さんがメキシコ料理をふるまってくれるというのだ。

小学生の娘さんがいて、スペイン語を忘れないためにメキシコの小学校で使っている教科書を何冊か持っていた。そのうちの一冊をのぞいてみると、「人間は考えます。動物は考えませんが、動けます。植物は考えもせず、動くこともできません」とあった。これには驚いた。今どき、こんなことが教えられているとは信じがたいと思った。

もっとも、40年前のことだ。今なら、こんな教科書は使われていないだろう。あそこにあったのは中世ヨーロッパの自然観そのもの。20世紀に至るまで、それが変更されずにいたとは。科学技術の進んだアメリカでも、いまだにダーウィンの進化論を認めない学校があると聞く。西洋の宗教的世界観は自然科学の敵なのである。

だが、それほどに宗教の影響力の強い西洋で自然科学が発達したとは、考えてみれば不思議である。科学の源には懐疑があるから、信仰と両立しなくて当然なのだが、信仰心のつよい人の多い中からそれを否定する思想が出てくるとは、これだけでドラマではないだろうか。

神が自然を創造した「キリスト教」と自然が神になり得る「仏教」

中世キリスト教の世界観は、古代ギリシャの自然観と聖書の自然観を矛盾しないようミックスしたものだ。もともとはまったくちがう自然観の合成だから、亀裂が入ってもおかしくない。しかし、その亀裂は徐々にしか広がらなかった。コペルニクスやガリレオが教会権力に苦しんだゆえんである。

日本に入った仏教は「山や川や草木にも仏となる可能性がある」という思想を持つ。西洋の自然観とはあまりに違う。戦国の世にキリシタンとなり、やがて信仰を捨てた不干斎ハビアンは、「キリスト教では神が自然を創造したというが、自然は自然に成ったから自然なのだ」とキリスト教を攻撃した。「自然」という言葉には「おのずから成る」という意味があるのだ。

西洋では宗教の影響が弱まった近代になっても、「人間には理性があるが動物にはそれがない」といったキリスト教的自然観が支配的である。知性をもつ唯一の生物である人類が世界の支配者で、他の生き物の上に立っているという考え方はいまだにつよい。

しかし、現代はエコロジーの時代で、サステナビリティーとか動物愛護とかが謳われ、自然に優しい時代になったのではないか? 必ずしもそうとは言えないというのも、これら流行概念はいずれもが人類中心主義であることに変わりないからだ。

アインシュタインが信奉した「スピノザの神」

現代のこういう潮流を乗り越えるには、たとえば17世紀のオランダに生まれたスピノザを思い出す必要がある。彼によれば、世界にはたったひとつの実在しかなく、それは神であり、その神は自然にほかならない。人間も他の動物も、意識も思想も、身体も天体も、雨も風も、いずれもが神の表れなのである。だから、すべてを愛さねばならないとなる。

愛するといっても、スピノザにとっての愛とは知ることであった。神を愛するとは、自然を知ることなのである。こんな考えを発表したものだから、異端審問を逃れてカトリック教からユダヤ教に復帰していた彼は、ただちにユダヤ教団から破門され、同時にカトリック教会からも異端視された。それでもオランダにいつづけたのは、オランダが当時のヨーロッパで最も自由な国だったからで、おかげで刑罰を逃れることができたのである。

彼の哲学は自然科学と合致する。アインシュタインなどはスピノザの神なら信じられるとまで言っている。だが、スピノザに言わせれば、そういう科学者はまだ中途段階の人間で、神の叡智の断片は認識できても、その叡智には至っていないことになる。

スピノザで大事なのは、「私たちは自然の一部で、そのかぎりにおいて他の生物と同列だ」という思想である。私たちが考えを持つのは私たちのおかげではなく、自然のなせるわざだというのだ。この考えは限りなくわたしたちを謙虚にする。

スピノザの考えを現代において受け継いだのはフロイトである。そのフロイトは人間精神を自然のはたらきとして捉え、そのはたらきを分析した。この人の考えたことは、21世紀人が知らずにはいられないものである。

スピノザは宗教と科学を結びつけたとも言われる。彼において、自然は知の対象であると同時に、敬うべき神でもあった。神といっても信仰の対象ではない。敬意の対象であり、その妙技を探求すべき存在なのだ。

スピノザから教訓を引き出すとすれば、自然を知ろうとするだけでは不十分、自然に敬意を持たなくては自然を知ることはできないということだ。芸術家も同様で、自然を尊敬せずして芸術などできないのである。かつて「自然は芸術を模倣する」などと豪語した詩人がいたが、たわけ者としか言いようがない。

大嶋仁 1948(昭和23)年、神奈川県鎌倉市生まれ。比較文学者。東京大学大学院博士課程修了。1995年から福岡大学人文学部教授。2016年退職、名誉教授。「からつ塾」運営委員。『科学と詩の架橋』『生きた言語とは何か』『石を巡り、石を考える』など著書多数。

協力:新潮社 Book Bang編集部  新潮社


画像 Credit: Corbis via Getty Images/adoc-photos


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