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千利休

rinkする「曜変天目茶碗」

初め、この記事が先だったが、「茶の湯」に欠かせない茶碗が必要だと思い、その「世界の名品 曜変天目茶碗」を、ここで紹介することにした。

と云ってもまったく「茶人」でもなく「句」もたしなまず、ほんの少し雅楽と、地元の神楽をやる程度で、それら門外漢を自認する。

「曜変天目茶碗」は、現存する茶碗が三個とかいわれていて、それが日本にしかない、といういわくつきの茶椀である。

■陶片の発見 足利義政から織田信長へと、時の最高権力者に所有された天下第一の名椀であったが、信長がこれを愛用し、持ち歩いたため本能寺の変で他の多くの名物と共に焼失してしまった。
曜変天目は生産地の中国においては文献上の記述もなく、現物はおろか、陶片ですら見つかっていない状態であったが、2012年5月に中国浙江省杭州市の杭州南宋官窯博物館館長、鄧禾頴が発表した論文において、2009年末に杭州市内の工事現場から曜変天目の陶片が発見されていたことが正式に報告された。 引用

と、あるように信長経由、秀吉と継承する「茶」の世界で、利休がその曜変天目茶碗を目にしたであろう、ことは推察される。

伝記によれば信長と運命をともにした、それらの曜変天目茶碗は、はたして幾つ、存在したのだろうか。

そのコレクションが現代まで継承されいてたとすれば、日本という国の性質までも変わっていたと思われた。返す返すも残念と思われるが、それが歴史というものだろう。

人によっては「希少骨董」類は、興味のない人(異性の場合)にはゴミの価値しかないが、それを「宝」とすることに価値があり、また文化を持続することだと私は思っている。

昨今、社会ではデジタルコンテンツ一辺倒に陥り、生活と周辺環境インフラすべてが、それに塗りつぶされているが、そのインフラの隙間にコテン文化を垣間見ることはない。それらの人たちがシニカルにそう思っているとは考えらないが、もっと面白い「アプリ」があって、その旋律に同調してステップを踏むことに違和感がないとすれば、それで社会は成立し、極端なはなし夫婦にもならず、子供も作らず、人口が激減し、300年来継承してきた「獅子舞」芸能は、途絶えることは必至だ。

社会は、一定以上の人の集まりで形成し、そこに歌とか踊りが発生する。古代遺跡発掘では9000年前の笛が発掘された。

人のあるところに文化が生まれ継承されるが、そのボトムダウンにあっては人が消滅する前兆としてまず、伝統文化が先に消えることが、そのサインであることを人々はあまり認識していない。

千利休
千利休像(長谷川等伯画、春屋宗園賛)
千利休(大永2年(1522年) - 天正19年2月28日(1591年4月21日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての商人、茶人。

わび茶(草庵の茶)の完成者として知られ、茶聖とも称せられる。また、今井宗久、津田宗及とともに茶湯の天下三宗匠と称せられ、「利休七哲」に代表される数多くの弟子を抱えた。また、末吉孫左衛門の親族である平野勘平衛利方と親しく交流があった。
子孫は茶道の三千家として続いている。千利休は天下人・豊臣秀吉の側近という一面もあり、豊臣秀吉が旧主・織田信長から継承した「御茶湯御政道」のなかで多くの大名にも影響力をもった。しかしやがて秀吉との関係に不和が生じ、最後は粛清されるようになった。切腹を命ぜらるに至った真相については諸説あり、定まっていない。

名・号
幼名は田中与四郎(與四郎)、のち法名を千宗易(せんのそうえき、せんそうえき)、抛筌斎(ほうせんさい)と号した。

広く知られた利休の名は、天正13年(1585年)の禁中茶会にあたって町人の身分では参内できないために正親町天皇から与えられた居士号である。

考案者は、大林宗套、笑嶺宗訢、古渓宗陳など諸説がある。いずれも大徳寺の住持となった名僧で、宗套と宗訢は堺の南宗寺の住持でもあった。宗陳の兄弟弟子であった春屋宗園によれば、大林宗套が考案者だったという(『一黙稿』)。
しかし宗套は禁中茶会の17年前に示寂しており、彼が関わったとすれば利休が宗套から与えられたのは「利休宗易」の名であり、若年時は諱(いみな)の「宗易」を使用し、少なくとも与四郎と称していた天文4年(1535年)4月28日から天文13年(1544年)2月27日以前に宗易と号したと考えられる。

のちに宮中参内に際して字(あざな)の「利休」を居士号としたと考えられる。こう考えれば宮中参内の2年前、天正11年(1583年)に描かれた肖像画(正木美術館蔵)の古渓宗陳による讃に「利休宗易禅人」とあることも理解できる。

号の由来は「名利、既に休す」の意味とする場合が多いが、現在では「利心、休せよ」(才能におぼれずに「老古錐(使い古して先の丸くなった錐)」の境地を目指せ)と考えられている。「利休」の名は晩年での名乗りであり、茶人としての人生のほとんどは宗易を名乗る。

和泉国・堺の商家(屋号「魚屋(ととや)」)の生まれ。父は田中与兵衛(田中與兵衞)、母の法名は月岑(げっしん)妙珎、妹は宗円(茶道久田流へ続く)。

家業は、納屋衆(倉庫業)。塩魚を独占的に扱う商人(座)ないし、そういった商人たちに倉庫を貸す「問」だったとされる(利休が切腹時に書いた遺産分け状の冒頭に「問の事、泉国ある程の分。同佐野問、塩魚座賃銀百両也」とある)。

19歳で父を失い、それと前後して祖父も失う。祖父の七回忌に無財のため法要ができず、涙を流しながら墓掃除をしたとの日記が残る(不審庵蔵『緑苔墨跡』)。当時、応仁の乱の影響で、特権的商人たちは独占に対する保護を失い、苦境に立たされていた。

17歳より茶の湯を習う。利休の最初の師は北向道陳(『堺数寄者の物語』)。『南方録』によると、その後、武野紹鴎に師事し、師とともに茶の湯の改革に取り組んだとされているが、この記述は『堺数寄者の物語』や『南方録』のタネ本とされる『堺鏡』にはない。
他方、『山上宗二記』の記述から、利休の師は紹鷗ではなく辻玄哉だった可能性が指摘されている。

天文13年(1544年)2月27日、松屋久政らを招いて茶会を開く(『松屋会記』)。この茶会が信頼性のある記録の中で最初の利休の茶会である。

この茶会で利休は、珠光茶碗(技術的不備で青くなり損ねた青磁で、村田珠光が使っていた名物(『清玩名物記』))を用いており、以降、永禄2年(1559年)までの『松屋会記』および『天王寺屋会記』に記録されている4つの茶会でも、珠光茶碗を使っている。

商人としては、堺の実質的支配者であった三好氏の御用商人となり、財を成したと推測されている。永禄4年(1561年)までに、珠光茶碗を三好実休に千貫で売っている(『山上宗二記』)。

堺の南宗寺に参禅し、その本山である京都郊外紫野の大徳寺とも親しく交わった。
永禄12年(1569年)以降の堺が織田信長の直轄地となっていく過程で、堺の豪商茶人であった今井宗久、津田宗及とともに、信長に茶堂として召し抱えられる。
天正2年(1574年)3月に信長が京都相国寺で開いた茶会に、ほかの堺の有力商人9人とともに招かれたとの記録が残る(津田宗及『信長茶会記』)。

このときまでに、堺の自治組織である会合衆の一員となっていたと考えられる。■天正3年(1575年)、越前の一向一揆掃討戦を行う信長のために鉄砲玉を調達して送り、謝状を受け取っている(不審庵蔵『利休宛信長黒印状』)。

天正10年(1582年)6月の本能寺の変および山崎の戦いのあとは豊臣秀吉に仕えた。同年8月に秀吉を訪ねた利休は、茶室を作るように命じられ、約半年をかけて、翌年3月に現存する利休作の唯一の茶室である待庵を完成させた(『末吉勘兵衛宛利休書状』天正11年3月8日付)。このとき、薮内紹智に宛てた書状(天正10年11月14日付)に「迷惑なること」を秀吉から頼まれた、と記している。

天正11年(1583年)5月には、秀吉が近江坂本城で開いた茶会で初めて茶堂を勤めている。

天正12年(1584年)には、秀吉が築城した大坂城内の庭園空間である山里に、2畳の茶室を作っている。その周りには垣と跳ね木戸が作られ(『宗湛日記』)、茶庭としての露地が生まれることとなった。これ以後、楽茶碗や竹花入などの茶道具を創作するようになる。

天正13年(1585年)10月の秀吉の正親町天皇への禁中献茶に奉仕し、このとき宮中参内するため居士号「利休」を勅賜される。
同年、黄金の茶室を設計。天正15年(1587年)には、北野大茶湯を主管。同年完成した聚楽第内に屋敷を構え、築庭にも関わり、禄も3,000石を賜わるなど、茶人として名声と権威を誇った。秀吉の政事にも大きく関わっており、大友宗麟は大坂城を訪れた際に豊臣秀長から「公儀のことは私に、内々のことは宗易(利休)に」と忠告された。

天正19年(1591年)、利休は突然秀吉の逆鱗に触れ、堺に蟄居を命じられる。大徳寺の山門は応仁の乱によって大破し、長らくそのままになっていた。

利休は晩年にこの山門修築の事業を引き継いで門の上に閣を重ねて楼門を造り金毛閣を寄進した。その落成にあたって山門供養のために利休が春屋和尚に依頼し、その求めに応じて書かれたのがこの一偈である。千門萬戶一時開この文は、利休の影響力が自分の影響力を超えていると考え、秀吉を怒らせた。前田利家や、利休七哲のうち古田織部、細川忠興ら大名である弟子たちが奔走したが助命は適わず、京都に呼び戻された利休は聚楽屋敷内で切腹を命じられる。

享年70 。切腹に際しては、弟子の大名たちが利休奪還を図るおそれがあることから、秀吉の命令を受けた上杉景勝の軍勢が屋敷を取り囲んだと伝えられる。
死後、利休の首は一条戻橋で梟首(きょうしゅ、斬首)された。首は賜死の一因ともされる大徳寺三門上の木像に踏ませる形でさらされたという。利休が死の前日に作ったとされる遺偈(ゆいげ)が残っている。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

■信長のあくなき執念!集団殺戮ジェノサイド! 戦国バトルヒストリー【信長vs本願寺越前一向一揆衆】

昨年(1574年天正2年)の9月に「長島一向一揆衆」を制圧し、先の5月には「長篠の戦い」で武田勝頼に大勝した信長ですが、全国に広がり「反信長体制」を敷いている一向一揆衆には情け容赦がありません。天下統一のためには避けては通れない「本願寺・一向一揆衆」の次なるターゲットは「越前一向一揆」です。1575年8月15日から始まった「越前一向一揆殲滅戦」紐解いてまいります。昭和7年に、「小丸城」跡(福井県越前市五分市町28)から発見された瓦の一部に、「5月24日(1576年と推定)に、前田利家が一揆衆千人ばかりを磔、釜茹でにしたことを後世に記録して置く」という内容の書き置きが残されています。「此書物、後世二御らんしられ、御物かたり可有候、然者五月廿四日いき(一揆)おこり、其まゝ前田又左衛門尉(前田利家)殿、いき千人はかりいけとり(生捕)させられ候也、御せいはい(成敗)ハ、はつつけ(磔)かま(釜)ニいられあふられ候哉、如此候、一ふて(筆)書とゝめ(留)候。」「越前の里資料館(文字瓦)」


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