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イッセイミヤケ偉人伝伝説

少年のままの「三宅一生」、逝った人生だった

そこいら歩いている「兄ちゃん」の三宅一生は、世界を駆け巡った

そんな人、どこにもおらんと、と名指し批判したのは「Steve Jobs」ただ一人だった


Jobs showed the inside of his closet to biographer Walter Isaacson, who visited his home before his death. Over 100 folded black turtlenecks were piled up, and Jobs lived up to his word by wearing black turtlenecks and Levi's 501 jeans for the rest of his life.


voice.0 別FILE(これはグーグル翻訳読上げvoiceでつくったものです)

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ジョブズ

1.
1984年当時、世界的に起きていた"日本ブーム"は、三宅の強烈な個性による牽引があったからこそで、強烈な独創性を拠所に、一人我が道を行きながら、日本ファッション界を主導してきたと国際的に評価された。三宅以上に喜んだのは、亀倉雄策や磯崎新、横尾忠則、田中一光ら、日本アート界を代表する人たちで、亀倉は「日本のファッションが建築やグラフィックと並んで評価されるようになった。あなたのおかげだ」と喜びの手紙を三宅に届けた。

三宅は若い頃は、パリやニューヨークに住んだが、長く東京を拠点としている。三宅は「日本には、技術を積極的に取り入れ、進歩を尊ぶ気風がある。製造メーカーの近くにいれば、制作現場に関われるし、機械を見に行ってその動きからアイデアを得ることもできる。わたしにとってはその方が望ましい。また若いスタッフと仕事をすることで自身も刺激を受ける」などと述べている。日本では切れ地を服の形にするのがデザイナーと考えられていて、常に海外の情報を元に服を作っていた。自分から情報を出すということではなかったため、本当のクリエイターではない、はっきりした自分の意図のある物を作りたいと三宅はマテリアルを日本で布を織るところへ行って織らせて、染屋に行って染めさせ、それをパリに持って行ってデザインした。

2.
三宅は日本のデザイナーが絶対に使わなかった剣道着や柔道着の刺し子のようなマテリアルを使い始めた。最初は日本の刺し子屋に「こういう織り方で」「もっと優しい風合いで」と注文しても、趣味くらいにしか受け取ってもらえなかった。三宅のデザインした服はパリでは売れても日本ではどこにも売ってないことがあった。
1980年代にコンピューターを使ってデザインを始める。日本各地の素材や伝統的な手わざと最新のハイテクを使った新たなもの作りの追求は長年のテーマとして続く。ルーシー・リーのボタンを使った服を89~90秋冬コレクションで発表。1999年イッセイミヤケのブランドを後進に譲った後も新規プロジェクトに積極的に取り組む。2008年、自身のデザイン事務所内に「リアリティー・ラボ」と名付けた研究開発チームを設置。
素材研究を進める中で帝人ファイバーが開発した、古着など不要になったポリエステル製品をいったん液体にまで戻し再生した糸に出会い「英国生まれのポリエステルは、戦後の日本が進化させた」という思いもあり、2010年秋からの新シリーズ「132 5. ISSEY MIYAKE」の素材に選んだ。愛媛県松山市の工場で生まれた糸を福井市で織って生地にし、石川県白山市などで染め、東京で形にする。

三宅は「私の服は誰かの一部になり、肉体的にはその一部になる。もしかしたら、私は道具を作っているのかもしれない。人々は服を購入し、着用者の創造性のためのツールになる」、「私が何かを作るとき、それは半分しか完成していません。
人々が何年も何年もそれを使うとき、それが完成します」、「10年前にデザインしたセーターを今年のパンツで着てもらいたい」などと話したことがあり、三宅のデザイン哲学は、「着やすく、かつ収納しやすい服を作る」ことである。このためほとんどの服にポケットが付いており、自宅の洗濯機で洗うことができる。

三宅は「服の素材は無限大だ、何でも服が作れる」とココナッツの蔦から馬の毛まで、どんなものでも服の素材になると信じていたため、「イッセイ ミヤケ」は服をデザインする前に、まず「生地のデザイン」を行う。生地のアプローチもまた革命的なものだった。また、三宅のディレクションは、個人の創造性と研究だけでなく、チームワークにも焦点を当て、その事が次世代の人材育成に繋がった。次々送り出す新ラインの多くがモノづくりの技術革新と研究者、職人たちの切磋琢磨で生まれてきたものである。

3.
2022年8月9日に三宅の死が伝えられると世界中のメディアが報道した。リマ・アブドゥル・マラクフランス文化大臣は「イッセイ・ミヤケは、動く体に触れて生まれるかたちのような服、明日に向かって走る動く現代の体、巻き上げられ、身を包み、ねじれ、折り畳まれる生きた素材のような服を夢見ていた」などと追悼した。
フランスの国民教育大臣などを務めたジャック・ラングは「イッセイ・ミヤケは神聖な宝物だった。今朝、私は永遠にやるせない気持ちでいっぱいだ」と哀悼の意を表した。
ブルーノ・パブロフスキー・オート・クチュール・エ・ド・ラ・モード連盟会長は「イッセイ・ミヤケは偉大なデザイナーであり、最新の技術と伝統的なノウハウを融合させることで時代を刻んだ偉大なイノベーターでもありました」と評した。

彼によって日本は間違いなく世界のファッションシーンの主役になった。我々は彼が日仏の架け橋となったことを決して忘れない」などと評した。フィリップ・セトン駐日フランス大使は「イッセイミヤケは、すべての分野、実践、研究の岐路に刻まれた比類のない作家です。
デザインアイコンである彼は、1973年にパリでファッションショーを開催した最初の日本人スタイリストの一人でした。彼は"日本でも西洋でもないファッションを作ろうとした"のです。
イッセイ・ミヤケは、日本が私たちに与えてくれた最も偉大なパリのファッションデザイナーの1人であり続けるでしょう。
※ウイキペディア資料編集

個人的な「三宅一生」との出会い逸話。

と申しましても、他言して得意満面とした作り話しではありません。
当時私は、「放蕩息子」的な生活スタイルを不自然にしていたものです。すべての社会に反抗的で堕落したこの資本主義は、早いうちに消滅する、と本気で考えていたもです。
いま思えば「ガキのつかい」そのものですが、当時は「ヒッピー」全盛だったし、それをやることが最先端だと、錯覚していたのです。(それは今のSNSパンデミックとおなじです)

ある店(一宮海岸surfshopとカフェー、俗称しだ下ポイント前)で暇つぶしをしていた。すでに40年くらい昔の話なので、その日の天気が晴か曇りか雨か、その記録もおぼろ気ですから、まあ、ピーカンじゃない晴にしておきましよう。
中に入ると何かひと気がする。それがなぜかというと、自分の特等席に、そいつが無言でコーヒーを飲みながら、窓際の海を眺めていたからです。
なにもしないで1時間半、そのまま座り続けていたという。ベース弾きの純がそう云った。
この一宮町は田舎だし、その反作用的な「サーフィン」メッカ、と云うことで、それらしい茶髪の若者が何時も、たむろしていた。

その男は、明らかにそれとは違っていた。容姿からして中年サーファーでもない。かといって、サーファー目当ての悪徳不動産屋のセールスマンでもない。素性不明の、いやに落ち着いた髭の男のオーラに圧倒されそうだったので、カウンターに席をとった。
ベース弾き純と、昼まで喋って過ごした。男は、コーヒーだけ飲んで昼飯は注文しなかった。

それから30分後にタクシーがやってきて、男はそれに乗り込んで下り車線に向けて走り去った。
純に訊いても、どこのだれかも知らないという。ただ電話で(国際)ペラペラ喋っていたので、外人相手の商談のようだと純がいった。また、サーフィンメッカ町、というのもあって、西海岸風の外人サーファーがボートを自転車に載せて走る風景は珍しくなかった。

男が去った後のテーブルを純が片づけていると、メモ用紙が残っていたという。それを、見せてもらったが英語なので不明。サインにローマ字でisheiと、読み取れるぐちゃぐちゃ筆記があった。

それを二人で何度も読んでみると「一生」と読めた。イッセイ、て誰なんだと、思ったが、それを知ったところで何の価値もないと、お互い判っていた。
店内は、再び静寂になったので純がレコードを掛けようと、「ピンクフロイド」に針を降ろそうと、その針が下りた瞬間のバイアスノイズが鳴ったとき、それが「三宅一生」だと直感した。

それでも話した訳でもないし、名前も訊かないし絶対的無視を放つオーラに勝てないし、勝負はあきらかだった。だから、その時の40年前の、その男が「三宅一生」であるという確証は何一つない。ただ、その強烈なオーラを放つ人間に以後、出会ったこともないし、あとにも先にも、その髭の男のみだった。だからリアルでも仮想でも、私の「三宅一生」は、今でも心の中でオーラを放ち続けている。

では、私の生きた時代は何があったのか、それを語れば三宅一生の生きた時代背景が鮮明によみがえると思ったのです。

なんでもできると「はるき」が形容した時代


マリファナ、ドラック、映画『イージー・ライダー』(原題:Easy Rider)1969年公開のアメリカ映画。日本では1970年に公開、など、世界の価値観が塗り替えられようとした時代だったかもしれません。

ウッドストック・フェスティバル(Woodstock Music and Art Festival)は、1969年8月15日(金)から17日(日)までの3日間(あるいは、8月15日午後から18日午前にかけての4日間)、アメリカ合衆国ニューヨーク州サリバン郡ベセルで開かれた。

ロックを中心とした大規模な野外コンサートなど、約40万人の観客を集め、アメリカの音楽史に残るコンサートになると同時に、1960年代アメリカのカウンターカルチャーを象徴する歴史的なイベントとして語り継がれている。

ウッドストック・フェスティバルは、カウンターカルチャーを集大成した、1960年代のヒューマン・ビーインと呼ばれる人間性回復のための集会でもあり、音楽イベントとしてのみならず、ヒッピー時代の頂点を示す象徴と捉えられている。このフェスティバル自体は赤字となったが、レコードと映画化のため、最終的には収益にも結びついた。
画像 ヒッピー・スタイルの入場者達 ウッドストックの会場では2件の出産があった(人数については諸説あり)。

このコンサートの模様は、『ウッドストック/愛と平和と音楽の三日間』というドキュメンタリー映画として公開された。マイケル・ウォドレー(英語版)監督、マーティン・スコセッシ編集のこの映画は1970年に公開され、アカデミー長編ドキュメンタリー映画賞を受賞した。

当時の風景
ウッドストックには愛と平和、反戦を主張するヒッピーや若者ら約40万人が集った。しかし、初の大規模な野外コンサートであったため、現代の観点で捉えれば、混雑など至らない点も多かった。ヒッピーの中にはドラッグを使用する観客もいた。だが、規模と観客数の膨大さに比べれば、驚くほど平和的な祭典だった。
また食糧や清潔な水の供給、雨天を避ける手段も十分とはいえず、トイレや緊急用のテントなど必要な施設も多くなかった。フェスティバルの計画段階ではこれだけ多くの人が集まるとは考えられておらず、そのための準備が全くできていなかったのである。フェスティバル終了後のゴミ問題も大きな問題だったが、観客の中にはゴミを片付けて帰る者もいた。
町の住民からは「ヒッピーが集まるヤスガー祭」と警戒され、場所を提供した農場主のヤスガーには、反対派の住民によって開催前から牛乳の購入打ち切りなどの嫌がらせを受けた。

とはいえ、少なくとも同年12月6日に開かれ死者まで出したローリング・ストーンズによるフリー・コンサート(オルタモントの悲劇)とは対照的に、1960年代を体験した同世代アメリカ人の「輝かしい記憶の余韻」として生き続けたとされている。
度重なる雨による中断のためプログラムが遅れてしまい、最終日のトリを務めた「ジミ・ヘンドリックス」(故人)が登場したのは月曜日の朝、8時30分だった。それまでに帰った人もいて、彼らはヘンドリックスの演奏を見られなかった。この時のヘンドリックスの演奏は、1999年にほぼ全曲がアルバム『ライヴ・アット・ウッドストック』として発表された。

マックス・ヤスガーの農場
ウッドストック・フェスティバルは、カウンターカルチャーを集大成した、1960年代のヒューマン・ビーインと呼ばれる人間性回復のための集会でもあり、音楽イベントとしてのみならず、ヒッピー時代の頂点を示す象徴と捉えられている。このフェスティバル自体は赤字となったが、レコードと映画化のため、最終的には収益にも結びついた。

□出演を断ったアーティスト
ビートルズ
ドアーズ
レッド・ツェッペリン
ジェスロ・タル
ムーディー・ブルース
トミー・ジェイムス&ザ・ションデルズ(en:Tommy James and the Shondells)
バーズ
ポール・リヴィア&ザ・レイダーズ(en:Paul Revere & the Raiders)
ボブ・ディラン
フランク・ザッパ&ザ・マザーズ・オブ・インヴェンション(en:The Mothers of Invention)
フリー
ジェフ・ベック(ジェフ・ベックグループ)

その後~

1979年にウッドストック10周年記念コンサート(ウッドストック・リユニオン)が開かれたのに続き、1989年、1994年、1999年に記念コンサートが開かれている。とくに94年の25周年は「Woodstock II」と呼ばれ、ボブ・ディランやクロスビー、スティルス&ナッシュらが出演し、約30万人を集めた。Woodstock IIIについてはウッドストック 1999を参照。2019年にも企画されたが、中止された。
同時代の観察記録である『ヒッピーのはじまり』 によれば、ヒッピー(HIPPY)という言葉は1966年ころのサンフランシスコのヘイトアシュベリー地区に住んでいた若者たちを指すものとして使われるようになった。「HIP」とはその語源がたしかではない。1940年代のアフリカ系アメリカ人の間で流行したジャイブを踊る若者のスラングとしても使用された。当時、HIPは「飛んでいる」という意でもちいられており、それを50年代のビートニクスが採用し、一般化するようになった。ヒッピーはビートニクスの言葉や価値観を引継いでいた。

作家ノーマン・メイラーは1961年4月27日付の雑誌ヴィレッジ・ヴォイスの記事「J・F・ケネディとカストロへの公開書簡」上において、ヒッピーという言葉を使って、ケネディの行動に疑問を呈した。 1961年のエッセーの中で、詩人ケネス・レックスロス(英語版)は「ヒップスター」と「ヒッピー」という言葉をブラック・アメリカンやビートニクのナイトライフに参加している若者を指すのにつかった。
マルコム・Xの1964年の自伝によると、1940年代のハーレムのヒッピーという言葉は「黒人より黒人らしく行動した」特定のタイプの白人を表現するためにつかわれていた。 アンドリュー・ルーグ・オールダムは、1965年発表のローリング・ストーンズのLP『ザ・ローリング・ストーンズ・ナウ!』のライナーノートの中で、黒人ブルース/ R&Bミュージシャンをひいて「シカゴのヒッピーたち」と称した。

現代のヒッピー 2005年(記述当時年代)
1967年、サンフランシスコ、ゴールデンゲートパークでの「ヒューマン・ビーイン」集会がおきる。それは同年の夏の爆発的なムーブメント「サマー・オブ・ラブ」へとつながる。以降、ヒッピー文化は急速に普及し、1969年、有名なヒッピーの祭典「ウッドストック・フェスティバル」が開催された。1970年、英国では約40万人の観衆と共に巨大なロックの祭典「ワイト島フェスティバル」、チリでは「ピエドラ・ロハ・フェスティバル(英語版)」。1971年、30万人ものメキシコのヒッピーたち(ヒピテカス(英語版))はメキシコ中部の湖畔アバンダロでのロックフェスティバル につどった。
1973年、オーストラリアでは東部の田舎町ニンビン(英語版)で「アクエリアス・フェスティバル(英語版)」と大麻法改革大会、またニュージーランドでは、キャンピングカーに乗って旅をするヒッピーたちが「ナンバサ・フェスティバル(英語版)」(1976年-1981年)を催し、オルタナティブなライフスタイルを実践し、持続可能なエネルギーをプロモーションした。

1970年、南米チリで行われたロックフェス「ピエドラ・ロハ・フェスティバル」。スペイン語で「赤い石のフェスティバル」の意。北米のみならず、南米でもヒッピー文化は広まった。
こうした北米、南米、英国、オーストラリア、ニュージーランドにおける一連のヒッピーとサイケデリックな文化は、自由への憧れの象徴となった。

アメリカにおいて、ヒッピーの一部はベトナム戦争と徴兵制に反対し、そのため主流社会の軍事的覇権主義に反対し、父親世代の第二次大戦や原子爆弾への無条件支持の姿勢、ベトナムでの米軍の圧倒的な軍事力による暴力やホロコーストなどに対して、音楽や麻薬、非暴力によって対抗(カウンター)しようとした。結果、自然と愛と平和とセックスと自由、巡礼の旅の愛好家として社会にうけとめられた。彼等は当時、西側の若者の間で流行した毛沢東思想や、コミューンの形成、環境運動や動物愛護、自然食、LSD、マジックマッシュルーム、マリファナ擁護に加えて、ヨガ、インド哲学、ヒンヅー教、禅、仏教などの東洋思想に関心をよせた。これまでの欧米の思想にはない概念を東洋からみちびきだすことによって、より平和で調和に満ちたユートピアを夢見た。

実社会の中で、ユートピアが訪れることはなかったが、その憧れは21世紀において、サブカルチャーに留まらず、欧米の主流文化の中でより一般化されたものとなった。Appleをはじめとした米西海岸のコンピューター文化、ロック音楽や映画、美術、文学、舞踏、アメリカン・アニメといった大衆文化、ヴィーガニズム、菜食主義などより自然志向の食文化、東洋的な精神への関心は高まりつづけている。

ニール・ヤング。ヒッピー時代のミュージシャン。ヒッピー的な自然回帰を志向する傾向は、古くから欧米に存在していた。中世の宗教家、アッシジの聖フランシスコ、さらに性の解放を歌ったコレット、フランスの作家セリーヌ、プルースト、不条理作家フランツ・カフカ、アイルランドの哲学者アイリス・マードック、米国の実存主義作家ソール・ベロー、ユダヤ人作家バーナード・マラマッド、あるいは「森の生活」の著者ヘンリー・デイヴィッド・ソローや19世紀の詩人ウォルト・ホイットマン「ホビットの冒険」「指輪物語」のJ・R・R・トールキン、20世紀ではビートニクスのギンズバーグやバロウズ、ケルアック、また画家ではピカソ、デ・クーニング、ベン・シャーン、レジェ、コクトーなどがヒッピーに好まれた。

19世紀末から20世紀初頭ドイツのユースカルチャー「ワンダーフォーゲル」は、当時の保守的な社会や文化に対する「カウンター・カルチャー」的な側面をもっていた。また保守的、伝統的なドイツのクラブの形式に反して、フォーク・ソングを愛好し、創造的な服装、アウトドア・ライフを志向した。しかしナチス政権時代には、ワンゲルの若者の一部はナチス支持に流れた。

20世紀にはドイツ人がアメリカに移住し、ドイツの若者文化をアメリカにもたらした。彼らの一部は南カリフォルニアに住み、何軒かの最初の健康食品店がオープンした。
ネイチャーボーイズとよばれるグループは、カリフォルニアの砂漠で有機食品を育て、自然を愛するライフスタイルを実践した。
ソングライターのエデン・アーベ(英語版)は健康意識やヨガ、有機食品の普及をすすめた俳優のジプシー・ブーツ(英語版)からインスピレーションを受け「Nature Boy 」(1947)という曲を書き、ヒットし、ジャズのスタンダードとなった。尚21世紀の日本のワンゲル部は、60年代70年代の大学でのシゴキ、リンチ事件も影響して、体育会系の保守的なクラブとの見方が強くなった。

『限りなく透明に近いブルー』歴史的にそれは、すべては夢、幻の仮想世界だった。

参考までに今では古典となった小説『限りなく透明に近いブルー』村上龍著者など、その時代を反映している。

第19回群像新人文学賞受賞を受けて、『群像』1976年6月号に掲載された。同年7月5日、第75回芥川賞を受賞。7月9日、講談社より単行本化される。装丁は著者自身が手がけた。『限りなく透明に近いブルー』で群像新人文学賞、及び芥川龍之介賞を受賞。同作は100万部を記録した。発行部数は単行本131万部(2005年)、単行本・文庫本の合計で367万部(2015年)[1] に達する。芥川賞受賞作としては史上1位(単行本部数のトップは又吉直樹『火花』)。

詩的な表現や過去に前例の無い文章表現などを多用し、当時の文芸界に衝撃を与えた作品である。荒廃していく若い男女を描いたために、よく石原慎太郎の『太陽の季節』と対比される。ストーリーは村上龍が20代の頃過ごした福生市での体験を基にしている。当初の題名は「クリトリスにバターを」であったが、露骨な性表現のため改題した。

本作の優れている点は、なによりも「僕」が物事を常に客観視する中で、感情移入を排したフラットな表現でセックスや暴力を描ききった部分であると多くの作家・評論家が本作の解説で評価することが多い。
衝撃的な内容を題材として捉えていながら、その文章自体は異常なまでに平易であり「清潔」である。たとえば登場人物について、本作では様々な人物が現れるが、その人物が一体いつどのように現れたのかは明示されず、そしていつの間にか消えてしまっている。
通常の小説ならば不審に思われる点を自然に忘れさせてくれるのが、この「存在感の無い」と言われながら同時に衝撃的な文章そのものであり、その点が大いに評価された。(というのは表向き諭評て、賞選考委員会内で激論がかわされ時代の価値観変換を浮き彫りにした。注筆者)

第19回群像新人文学賞、第75回芥川賞受賞作。芥川賞選考会では賛否が分かれ、2時間にわたる論戦が起こった。
丹羽文雄、井上靖、吉行淳之介、中村光夫が支持、対して永井龍男と瀧井孝作が猛反発した。安岡章太郎は半票を投じ 4.5対2 で過半数を獲得した村上が受賞した。なお、井上靖は当初反対票を入れようと考えていたが、息子に提言され支持することになったらしい。
もし井上靖が反対であれば過半数の票を獲得することはなく、村上の受賞はなくなっていた。(昭和生まれの村上龍、三周遅れ生まれ、それが令和の「成田悠輔」ではないかと心酔したものです。注筆者)

中国語版の出版に際し、序文の中で村上は作品のテーマを、近代化の達成という大目標を成し遂げた後に残る「喪失感」であると述べている。また同文中にて、この作品がその後の作品のモチーフを全て含んでいる、ということが述べられている。

舞台は東京、基地の町、福生。ここにあるアパートの一室、通称ハウスで主人公リュウや複数の男女がクスリ、LSD、セックス、暴力、兵士との交流などに明け暮れ生活している。明日、何か変わったことがおこるわけでも、何かを探していたり、期待しているわけでもない。リュウは仲間達の行為を客観的に見続け、彼らはハウスを中心にただただ荒廃していく。そしていつの間にかハウスからは仲間達は去っていき、リュウの目にはいつか見た幻覚が鳥として見えた。

「ハウス」とは、福生市にある米空軍横田基地周辺にあった(元)米軍住宅である。JR八高線と平行する国道16号に約2000戸あったとされる。朝鮮戦争やベトナム戦争の時に住宅不足のために建てられた。米軍住宅の場合は一種の治外法権地帯であり、ドラッグ・パーティーや乱交パーティーが開かれていたと言われる。戦争後「ハウス」は安く借りられる広々とした一軒家として、芸術志向の若者を引きつけた。乱交パーティーの文化はそのまま残ったと言われる。 資料参照ウイキペディア~

さて、終い結びの三宅一生、伝記

巨匠「ジャック・ラング」は、「1981年当時、ファッションは『商業性が高過ぎる』として、映画や音楽など他の文化よりも軽んじられていたが(私が)ルーブル美術館でのコレクション開催を解禁したり、『モード界のアカデミー賞』を創設したりしたことで、高度に活性化されたと感じた。
三宅一生からも『デザイナーたちが新たな創作意欲を得た時代だった。あなたが私たちに力を与えてくれた』と評価してくれた」と述べている。

と絶大な賛辞で「イッセイミヤケ」を讃えた。


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