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古代房州(安房・上総・下総)地

2022年05月06日記事

古事記(712)の中の伊甚国造 (いじみのくにのみやつこ)

『先代旧事本紀』「国造本紀」によれば、成務天皇の御世に、安房国造祖・伊許保止命の孫の伊己侶止直を伊甚国造に定められたとされる。

『古事記』では、天之菩卑能命(あめのほひのみこと)の子 建比良鳥命(たけひらとりのみこと)を伊自牟国造の祖とする。

伊甚氏(いじむうじ、姓は直)、『古事記』や各種系図では出雲臣の同族とされており、出雲国出雲郡にも式内社として伊甚神社の名が見える。また、伊甚国造は時代に応じて刑部直、長谷部直、春部直となり、我孫公氏の指揮の元に大王に服属し、伊甚国造が大王に献上するモヒや山海の幸を運んでいたのは車持部であったと考えられる。

伊甚国造は夷隅川(千葉県)および一宮川流域を支配していたとみられ、長南町域には能満寺古墳や油殿一号墳といった四世紀代の大型前方後円墳があり、古墳時代前期における首長勢力の存在をうかがわせる。
しかし五世紀以降は大型前方後円墳の築造は認められない。また、これらの古墳の築造者を伊甚国造とし、上総国一宮の玉前神社との関連があると見る説もある 。

『日本書紀』には、伊甚屯倉献上の記事があり、安閑天皇元年(534年)四月一日条によれば、内膳卿の「膳臣大麻呂」は伊甚国造に真珠の献納を命じたが、期限に遅れたため捕縛しようとしたところ、「国造伊甚稚子」は春日山田皇后の寝殿に逃げ隠れた。

皇后は驚き失神したためより罪が重くなり、稚子は贖罪のため春日山田皇后に伊甚屯倉を献上し、これが後の夷灊郡であるという。「今わかちて郡とし」とあるので、広大な屯倉であり、その領域は夷灊郡のみならず、北の埴生郡や長柄郡にもおよんでいたと推定される。

この『日本書紀』の記述をそのまま信じるわけにはいかないが、後代の『日本三代実録』貞観9年(867年)4月20日条に夷灊郡の春日部直黒主売の名がみえるので、皇后のために屯倉が置かれたことは史実とみなされている。

「三本足(ヤタガラス)の謎」を解くには、記紀の中にある記述、そこの地名と由来、そして人物を探る必要があった。


 物語の中の上総之介広常は、名の由来「上総国」国主であり、その地方豪族は、「伊甚国造が大王に献上するモヒや山海の幸」を献上するなど朝廷とは無縁ではなかった。

 『古事記』『日本書紀』その他に現わされた氏族社会の状態は、これらの高塚古墳を築造した諸豪族や首長層の盛衰興亡と階級制度の分化―皇族、貴族、自由民、奴隷並びに大陸文化に刺激されておこった種々の生産様式の拡大などを内包する社会が、次第に大和朝廷の支配下に移行する経過を物語っている。

 臣(おみ)・連(むらじ)・君(きみ)・直(あたい)・首(おびと)などの姓(かばね)を冠して呼ばれる首長や豪族は、各氏の氏ノ上(うじのかみ)と仰がれ、氏人(うじびと)と部民(べみん)とを従え、奴婢を使役して、彼らの私有地である田荘(たどころ)を経営し、その国の政治と司祭の地位を世襲していた。彼らは後に大和朝廷の支配下に統合されるに及んで、国造(くにのみやつこ)・県主(あがたぬし)・稲置(いなぎ)・村首(すぐり)・伴造(とものみやつこ)などに任ぜられ、旧来の土地人民を保有しながら、一面朝廷の官吏として、貢納臣従等の義務を負い、国・県(あがた)・評(郡)(ひょう(こおり))・屯倉(屯田)(みやけ(みた))・御名代(みなしろ)・御子代(みこしろ)・邑(むら)などを支配していた。

 右のうち、県、屯倉、御名代、御子代は皇室の直轄領土で、五~六世紀の間にことに多く設置されたが、成務天皇紀には、「五年秋九月、諸国に令(みことのり)して以て国郡(くに)に造長(みやつこ)を立て、県邑(あがた)に稲置を置き、並に楯矛を賜いて表(しるし)と為す。」とあり、諸国に国造の任命が盛んに行われたのと並行して、県が各地に設置された。
県の語源は上り田(畑のこと)とか、田班(あかちだ)とか、吾が田とか種々あって定説を見ないけれども、その長官が稲置の場合は水田に関係した地域を支配していたことは確かである。

 しかし大和の六県(高市・葛木・十市・志貴・山辺・曽布)のように特に重要な県には国造(葛木国造)や県主(十市県主・高市県主など)を任命することもあった。市内の稲毛町や東寺山町字稲城台の地名が稲置に由来するものとすれば、県の所在地は付近の可耕水田面積から見て、さほど広い地域ではなかったであろう。

 屯倉は元来御領地の米倉を指す称呼であったが、のちには御領地そのものを意味し、これまた朝廷の勢力発展に伴って全国各地に設置され、改新以後は、屯倉の所在地に国府や郡家(ぐんか)が置かれた場合が多いことから考えると、その規模は県に比較して、一般に広大な領域をもっていたことが察せられる。今房総の屯倉を古典や地名などから推定すると、

 上総国 国府(市原市惣社?)、伊甚屯倉(夷隅郡夷隅町国府台)、天羽屯倉(君津郡富津市豊岡)

 下総国 国府(市川市国府台)、海上屯倉(銚子市大字三宅)、印旛屯倉(印旛郡成田市長沼)

 安房国 国府(安房郡三芳村国府)

などが挙げられ、房総が当時政治的にも文化的にも大和朝廷の威力の前進拠点であったことが知られる。

 殊に、上総、下総は重要な地域で、東海道に属していたから、諸豪族や首長の中にも、早くから朝廷に服属の意を明らかにし、自己の土地を奉獻することによって、旧来の地位を安堵されていたものもあった模様で、安閑天皇紀元年四月の条にある、伊甚国造稚子直(わかごのあたい)が春日皇后のために国土を収公され、屯倉となった伝承は、この間の事情を反映しているものといえよう。

 さて、屯倉(みやけ)は田部(たべ)と钁丁(くわよろぼ)とが耕作に従事したが、前者は屯倉直属の部民(べみん)で、景行天皇紀五七年冬十月条に「諸国に命(のりごと)して田部、屯倉を興(おこ)さしむ。」とあり、钁丁に関しては、例えば安閑天皇紀元年十二月条に「毎郡に钁丁を以て春の時に五百丁(いおよろぼ)、秋の時に五百丁を、天皇に奉獻(たてまつ)ること子孫(いやつぎに)絶たじ。」とあるように、豪族や首長の部民が季節的に就役したものであるらしい。(屯倉みやけ 律令(りつりょう)国家成立以前にみられた天皇・皇族の領有地をいい、家、官家、御宅、三宅とも書く。 本来は稲穀を収納する官そのものをいったが、のちには、その官に納める稲穀の耕地、付属の灌漑(かんがい)施設、および耕作民『田部(たべ』などを含めるものになった。注ウイキペディア)

 記紀には、屯倉や田部を氏とした太田部直(あたい)、田部連(むらじ)、田部臣(おみ)、田部直(あたい)、三宅連、大宅臣などの例があるが、この太田部に関し、時代は降るけれども、千葉郡出身の防人(さきもり)の歌が『万葉集』に一首記載されている(註13)。

 千葉の野の 児手柏の含(ほぼ)まれど

 あやにかなしみ 置きてたが(ち)来ぬ
  
右一首は、千葉郡太田部足人(たりひと)の作
 この文意は「千葉の野の児手柏の花のように、あの子はまだつぼみのままでいるが、ひどく可愛くて、心にかけながら置いて出かけて来てしまった」というほどのことであろうから、田部や太田部を統率する伴造(とものみやつこ)とその隷属下にある部民や奴婢が、以前から千葉国(改新後の千葉郡)内に住んでいたという推測が許されるならば、市内に屯倉があったことも可能かと想われる。
 ただし、千葉野と称する地域は極めて莫然としたもので、吉田東伍は「千葉郷の東にして、市原郡印旛郡及び山辺郡に連なれり、今の誉田村、白井村、更科村等にわたる」と述べており(註14)、大体都川、鹿島川を含む一帯を指すものと考えられる。例え千葉国内に屯倉があったとしても、それが直ちに市内に設けられていたとは限らないけれども、強いてその地域を求めるならば、都川中流に位する太田町大字太田から多部田町付近をあてることができる。
図 2―112図 児ノ手柏 トップ画像 (総は、古代の麻を指し、房州ではその栽培をしていて地名とした由来がある)
 部民(べみん)や奴婢(ぬひ)は、氏族社会を構成する下層の階級で、ことに奴婢は被征服者、捕虜、犯罪人及びその一族、負債者、掠奪者、被貢獻者等からなり、主として政治的圧力によって奴隷化された不自由民であるが、部民は集団的な隷属民であり、各々戸をなして家族とともに生活していたのに対し、奴婢は個人的に主家に隷属して一戸をなすことすら許されず、ほとんど財物と異るところがなかった。しかし、部民も奴婢も所有者に隷属し、彼らの給与によって生活し、彼らの命ずる種々な労働に奉仕した点は同じである。これらの人々は当時国民のあらゆる生活必需品を直接生産したり、貴族、首長、豪族の種々な使役に従事した労働者で、朝廷に直属する部民は品部(ともべ)といい、伴造(とものみやつこ)の支配を受け、首長、豪族又は神社に隷属する部民は部曲(かきべ)という名称で呼ばれていた。

 品部の種類は記紀に百八十部(ももやそべ)とあるように非常に多いが、前述の田部、太田部などのほかにも、園部(そのべ)、服部(はとりべ)、土師部、須恵部、矢作部(やはぎべ)、玉作部、鍛治部(かぬちべ)、舟木部、酒部等々のように工作をこととする集団が最も多く、その他祭祀、政治、軍事、学問、芸術、交通等に関係する集団もあった。市内の矢作町大字矢作台、同大矢作台の地は、矢作部の居住地と考えられ、葛城町大字宮名部は不明であるが、やはり何かの部民の居住地かもしれない。


 なお品部には右のほかに、御名代部(みなしろべ)、御子代部(みこしろべ)、大私部(おおきさいべ)、私部(きさいべ)等の特殊なものもあった。これらは、いずれも皇室直属の部民で、舎人部(とねりべ)などもこの一種であるが、記紀には御名代部は、天皇、皇后、皇子等の御名を後世に伝えるために置かれたものと記載している。
 例えば、長谷部(はせべ)は大長谷若建尊(おおはつせわかたけのみこと)(雄略天皇)の御名代、福草部(三枝部)(さいぐさべ)は市辺押磐(いちのべのおしいわ)皇子の御歯が、三枝の如くであったことに起因してつけた皇子の御名代である。

 市内誉田町に大字長谷部の地があり、三枝部は市内作草部(さくさべ)町が今に往古の名称を伝えている。御子代部は、天皇に御子が無いために置かれたものとされ、白髪部(しらがべ)(白髪尊即ち清寧天皇)などはその部民であり、大私部と私部は、太后や后の封民で、『日本後紀』延暦二十四年の条下に、千葉国造大私部直善人(おおきさいべのあたいよしひと)の名が見えるのは、善人の祖先が、王朝以前には、大私部を統率して、太后とその子孫に奉仕していた首長であったが、皇威の進展とともに次第に自らの勢力を蓄え、後には千葉郡下を支配するようになって、国造の称号を与えられるに至ったものと理解される。

 おそらく、これら皇族所有の部も、本来は田部と同様に、皇室直属の重要な封民で、国家の財政的基礎をなすものであったが、後にはある特定の皇族の手に帰するものが多かったようである。

 次に首長や豪族の部民即ち部曲(かきべ)は、大化二年正月の詔(みことのり)の中に、「臣、連、伴造、国造、村首(むらおびと)の有(たも)てる部曲の民、処々の田庄(たどころ)を罷(やめ)よ」(『日本書紀』)とあるように、中央地方の諸氏を問わず、各々身分に応じて若干の土地人民を私有していたが、氏族制時代末期になると、首長や豪族の土地獲得の欲求は、主に未墾地の占有、開墾に向けられ、経済的政治的実力をもつ者は、弱小氏族を従え、大陸文化の流入に伴なう新来の農工具、優れた技術の導入によって、占有地の拡大に努力した。

 当時市内において最も強大な勢力は、恐らく前記千葉国造であろうけれども、現在地名となっているものに蘇我町があり、『和名類聚抄』には、池田郷、物部郷(印旛郡八千代市物井付近か)を載せ、生浜町には大字生実(おゆみ)がある。これらは順次に蘇我氏、池田氏、物部氏、紀氏の田荘(たどころ)があったことを伝えるものかもしれない(註15)。(武田宗久)

「古事記・現代語訳と注釈」について 

伊自牟国造(いじみのくにのみやつこ)

伊自牟国造は、伊自牟は、いじむ、と読みます。倭名抄に「上總国 夷 伊志美(いじみ)」とあります。現在の千葉県夷隅(いすみ)郡にあたります。国造本紀に、伊甚(いじみ)国造。志賀高穴穂朝御世(成務朝)。安房国造祖伊許保止(いこほと)命孫伊己侶止(いころと)直を国造に定め賜ふ。

とあります。安閑紀元年の条に、膳臣(かしはでのおみ)大麻呂が勅を受け、使者を伊甚に遣わせて、珠(真珠)を求めさせた。伊甚国造らは、都に参上するのが遅く、期限までに献上することができなかった。
大麻呂は、大いに怒り、国造らを捕えて縛り、理由を問いただした。国造稚子直(わくごのあたへ)らは恐れて後宮(きさきのみや)の寝殿に逃げ隠れた。
春日皇后はそのことを知らず、びっくりして卒倒した。稚子直らは、さらに闖入罪にも問われ、重い咎(とが)を科せられた。彼らは謹んで、皇后専用の伊甚屯倉を献上し、その罪を償うことを申し出た。

とあり、これを伊甚屯倉設置の由来としています。

これについては、三代実録貞観九年四月二十日に「上總国夷郡人春部直(かすがべのあたへ)黒主売(くろぬしめ)」の名が見えることから、実際に春日皇后の名代部がイジミ郡にあったと考えられ、そこから上のような屯倉設置の説話が生まれたものと解することができます。

参照サイト

第三節 古墳時代 第一項 氏族社会の成立と遺跡の分布 千葉市/千葉市地域情報 デジタルアーカイブ 千葉市史 第1巻 原始古代中世編 第2章 原始・古代

参照サイト

いすみ史広報 

小沢の安養山遺跡では、後期旧石器時代の石器が発見され、新田野貝塚や鴨根遺跡、豆塚古墳など、縄文時代から古墳時代にかけての遺跡、遺構も数多く確認されています。これらのことから、いすみ地域一帯では、古くから多くの人々が暮らしていたことがわかっています。
また、古墳時代には農民の富裕層が使用したと考えられる横穴墓が多く造られました。当地域が最初に文献に現れるのは古事記に「伊自牟」とある記載で、その後、日本書紀に「伊甚」と、宝亀5年(774)の平城京出土木簡には「夷灊郡」と記載されています。
大和朝廷が日本を統一すると、朝廷の直轄地である伊甚屯倉が置かれました。その後、律令国家が成立して夷灊郡が置かれますが、他の郡衙と比較してきわめて多くの正倉(穀物などを備蓄する倉)があったとされています。これらのことから、当地域が大和朝廷や律令国家にとって重要な穀倉地帯のひとつだったと言えるのではないでしょうか。
ほかにも奈良時代に創建され、浄土型伽藍があった岬町岩熊の岩熊廃寺(現法興寺)などからも、当地域が古来より繁栄していた様子がうかがえます。

平安時代末期には上総介広常がいすみ地域を支配し、源頼朝の鎌倉幕府成立にも貢献しました。市内には広常や頼朝の伝説が多く残されています。
鎌倉時代になると、幕府侍所初代別当となった和田義盛が当地域内に所領を持ちますが、義盛が和田合戦で滅ぶと、三浦氏がその遺領を継いだようです。他にも、幕府御家人の伊北氏や深堀氏が所領を持っていました。鎌倉時代末期には、能実の退耕庵に夢窓疎石が居し、約2年半の隠遁生活を送り、修行をした座禅窟(現太高寺裏山)が今も残されています。
室町時代には、伊豆から出た狩野氏がこの地域に進出しますが、室町後期から江戸時代を通じて繁栄した絵師集団狩野派の祖である狩野正信はこの一族から出たという説もあります。
戦国時代になると、上総土岐氏が万喜城を拠点にいすみ地域を支配するようになります。行元寺や飯縄寺、清水寺などの寺院を手厚く保護し、安房の里見氏や小田喜(大多喜)の正木氏、長南の武田氏らと抗争を続けました。
しかし、天正18年(1590)、豊臣秀吉による小田原攻めで後北条氏と運命を共にし、滅亡しました。現在も残る万喜城跡や、市内に残る多くの城跡から当時の土岐氏繁栄の様子をしのぶことができます。

江戸時代初期、稲作に多大な功績を残したのは、慶長14年(1609)に国吉原、慶長16年に万喜原の新田開発を手がけた大多喜城主本多忠朝でした。忠朝は開拓事業にあたり、諸役や年貢の一定期間免除を約束するなど領民に対し温情ある施政を行い、開発の促進を図りました。

江戸期、当地域は歴史に名を残す偉人を多数輩出しています。行元寺の住職だった亮運大僧正は、三代将軍徳川家光の師としても知られる人物です。
行川の出身で小林一茶の俳友だった半場里丸、今関には医師・学者として盛名をはせた田丸健良や、「功過自知録」を著して心学の普及に努めた深谷の東一貫斉がいます。また、岬町長者では、儒学者で荻生徂徠に学び、後に松江藩(島根県)の藩政に参与した宇佐美灊水、灊水に学び、房総地域の歴史を纏めた『房総志料』を著した中村國香らが活躍しました。農民の困窮を領主に訴えその窮地を救い、自らは死罪となった深堀の最首杢右衛門は、義民として語り継がれています。
他にも、名奉行として知られる遠山金四郎景元も岬町岩熊に知行地を持ち、関連する文化財が残っています。


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