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ノストラダムスは予言していたか?

疫病「新型コロナウイルス」脅威がひたひたとこの日本に押し寄せているのが判る。その明日の予想はまったく判らない。

つい先ほども、「ウエステルダム号下船の女性 新型コロナに感染確認」記事をアップしたばかりで、悪い方の予想がいみじくも的中してしまったという結果である。

そうした関連記事を立て続けに書いており、合わせてnote閲覧数も非常に多い。時は「バレンタインデー」義理チョコ日和だが、ことは、それどころの話しではない。※バレンタインデー269年にローマ皇帝の迫害下で殉教した聖ウァレンティヌス鎮魂日

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ノストラダムスはかく語りき

1546年に同じ南仏の都市エクスでペストが流行した時には、治療のために同市へと赴いた。これについてノストラダムス自身は、エクスの議会 (senat) と現地住民からペストの根絶を要請されたと語っている。そして、エクスの古文書館には、1546年6月にノストラダムスに契約金を支払ったことが記載された、エクス市の出納係ポール・ボナンの会計簿と、その際のノストラダムスの契約書が残されている。

伝説では、この時ノストラダムスは、鼠がペストを媒介することに気付き、直ちに鼠退治を命じたという。また、伝統的な治療法である瀉血を否定し、かわりにアルコール消毒や熱湯消毒を先取りするかのように、酒や熱湯で市中の住居や通りなどを清め、更にはキリスト教では忌避されていた火葬すらも指示したとされる。※瀉血(しゃけつ)とは人体の血液を外部に排出させることで症状の改善を求める治療法の一つである。古くは中世ヨーロッパ、さらに近代のヨーロッパやアメリカ合衆国の医師たちに熱心に信じられ、さかんに行われたが、現代では医学的根拠は無かったと考えられる。

しかし、後年ノストラダムス自身が『化粧品とジャム論』で述懐しているこの時の様子に、当時の医学知識の範囲を超えるようなものはなく、むしろ瀉血を試みた形跡すらある。患者の隔離をはじめとする初歩的な公衆衛生上の方策を取っていた可能性は指摘されているが、それは当時として一般的に行われていたことで、決してノストラダムスに固有のものではない。

『化粧品とジャム論』には、その時に用いた治療薬の処方箋も載せられているが、イトスギのおがくずや、磨り潰したバラ、丁子などを原料とするその薬の効能は強く疑問視されている。また、それらの原料には中世から用いられていた伝統的なものがいくつも含まれている。結局のところ、彼の医療活動とペスト沈静化との因果関係は不明瞭なままである。 

ミシェル・ノストラダムス(Michel Nostradamus、1503年12月14日 - 1566年7月2日)は、ルネサンス期フランスの医師、占星術師、詩人。また料理研究の著作も著している。日本では「ノストラダムスの大予言」の名で知られる詩集を著した。彼の予言は、現在に至るまで非常に多くの信奉者を生み出し、様々な論争を引き起こしてきた。
本名はミシェル・ド・ノートルダム (Michel de Nostredame) で、これはフランス語による。

よく知られるノストラダムスの名は、姓をラテン語風に綴ったものである。しばしば、「ミシェル・ド・ノストラダムス」と表記されることもあるが、後述するように適切なものではない。

ノストラダムスは改宗ユダヤ人を先祖とし、1503年にプロヴァンスで生まれ、おそらくアヴィニョン大学で教養科目を、モンペリエ大学では医学を、それぞれ学んだ。南仏でのペスト流行時には積極的に治療にあたり、後年にその時の経験などを踏まえて『化粧品とジャム論』などを著した。

他方で、1550年頃から占星術師としての執筆活動も始め、代表作『ミシェル・ノストラダムス師の予言集』などを著し、当時大いにもてはやされた。王妃カトリーヌ・ド・メディシスら王族や有力者たちの中にも彼の予言を賛嘆する者が現れ、1564年には、国王シャルル9世より「常任侍医兼顧問」に任命された。その2年後、病気により62歳で没した。

彼の作品で特によく知られているのが、『ミシェル・ノストラダムス師の予言集』である(『諸世紀』という名称も流布しているが、適切なものではない)。そこに収められた四行詩形式の予言は非常に難解であったため、後世様々に解釈され、その「的中例」が広く喧伝されてきた。あわせてノストラダムス自身の生涯にも多くの伝説が積み重ねられてゆき、結果として、信奉者たちにより「大予言者ノストラダムス」として祭り上げられることとなった(「ノストラダムス現象」も参照のこと)。

長らくこれに対する学術的検証はほとんど行われてこなかったが、現在では伝説を極力排除した彼の生涯や、彼自身の予言観や未来観を形成する上で強い影響を与えたと考えられる文典の存在なども、徐々に明らかとなりつつある。そうした知見を踏まえる形で、ルネサンス期の一人の人文主義者としてのノストラダムス像の形成や、彼の作品への文学的再評価などが、目下着実に行われつつある。

「ノストラダムス一族」
ノストラダムスの父方の先祖は、14世紀末以降、アヴィニョンで商業を営んでいた。父方の祖父が善良王ルネに仕えた医師・占星術師であったとする説は、ノストラダムスの弟や長男ら親族による誇張であり、父方の祖父も実際には商人であった。ピエール=ジョゼフ・ド・エーツによる18世紀の伝記などでは、ノストラダムスの先祖を更に遡れば、失われた十支族のイッサカル族に辿り着くとされているが、これもまた根拠を持たない。

父方の曾祖父ダヴァン・ド・カルカソンヌと祖父クレカは、15世紀半ばにユダヤ教からキリスト教に改宗した。改宗後、クレカはピエール・ド・ノートルダムと改名し、三度目の妻の姓をもとにペイロ・ド・サント=マリーとも名乗った。ノートルダムもサント=マリーも聖母マリアを意味する。祖父は改名後、ノートルダム姓をより多く用い、それが息子や孫(ノストラダムス)にも受け継がれた。

ピエールの息子でノストラダムスの父にあたるジョーム・ド・ノートルダムも、当初はアヴィニョンの商人であったが、サン=レミ=ド=プロヴァンス(当記事では以下サン=レミと略記)の住民レニエールと結婚した後、サン=レミに居を移した。

ノストラダムスはユダヤ人とされることもあるが、上記の通り、父方の祖父の代に改宗が行われている。また、父方の祖母ブランシュもキリスト教徒である。

母方については不明な点も多いが、曾祖父がキリスト教徒であったことは確かである。母レニエールもキリスト教徒であったと推測されているので、ノストラダムスはユダヤ人の定義には当てはまらない。

一部には、彼の一族は表向きキリスト教徒であったに過ぎず、実際にはユダヤ教の信仰を捨てていなかったと主張する者や、彼の一族がユダヤ教の秘儀に通暁していたなどとする者もいるが、これらは史料的な裏付けを持たない。少なくともノストラダムス本人は、公刊された文献等では王党派カトリック信徒の姿勢を示しており、著書の一つである『1562年向けの暦』もピウス4世に捧げられたものである。また、秘書を務めたこともあるジャン=エメ・ド・シャヴィニーも、ノストラダムスは生前熱心なカトリック信徒で、それと異なる信仰を強く非難していたと述べていた。

他方で、ルター派の顧客などと交わしていた私信の中では、プロテスタントに好意的な姿勢を示していたことも明らかになっている。ジェイムズ・ランディのように、カトリック信徒としての姿勢はあくまで表面的なもので、実際にはプロテスタントであったと見なす者もいるが、むしろ相手の立場に応じて言葉を使い分けていた可能性を指摘する者もいる。また、かつて渡辺一夫は、ノストラダムスのキリスト教信仰が、正統や異端に拘泥しない「超異端」の立場であった可能性を示唆していた。

生涯期

サン=レミのノストラダムスが生まれたとされる一角
少年時代および遊学期
ノストラダムスは、1503年12月14日木曜日に、当時まだフランス王領に編入されて間もなかったプロヴァンス地方のサン=レミで生まれた。幼少期には母方の曾祖父ジャン・ド・サン=レミが教育係を務め、ノストラダムスに医学、数学、天文学ないし西洋占星術(加えて、ギリシャ語、ラテン語、カバラなどを含めることもある)の手ほどきをしたとも言われるが、ジャンは1504年頃に没していた可能性が高いため、彼が直接教育を施したとは考えられない。父方ないし母方の祖父が教育係とされることもあるが、どちらも15世紀中に没しているので問題外である(これらは公文書類で確認できる)。結局のところ、彼が幼い頃に誰からどのような教育を受けていたかは、未だ明らかにはなっていない。

ノストラダムスは、15歳前後(1518年頃)にアヴィニョン大学に入学し、在学中に自由七科を学んだようである。この点は、実証的な伝記研究でもほぼ確実視されているものの、史料的な裏付けはなく、入学時期もはっきりしていない。在学中には、学友たちの前で、コペルニクスの『天球の回転について』の内容を20年以上先取りするかの如くに正確な地動説概念を語るなど、諸学問、特に天体の知識の卓抜さで知られていたとする「伝説」はあるが、これも裏付けとなる史料はなく、むしろノストラダムスの宇宙観は、本来の地動説と対置されるプトレマイオス的なものとも指摘されている。

このアヴィニョン大学在学は、1520年に中断を余儀なくされたと推測されている。当時のペスト流行の影響で、アヴィニョン大学をはじめとする南仏の大学の講義が休講とされたからである。このことは、1521年から1529年まで各地を遍歴し、薬草の採取や関連する知識の収集につとめたと、後に本人が語ったこととも矛盾しない。他方で、ノストラダムスがこの遍歴に先立ってモンペリエ大学医学部で医師の資格を取得したとする説もあるが、現在では虚構の可能性が高いと考えられている。この説は、後にノストラダムスの秘書となったジャン=エメ・ド・シャヴィニーによるものだが、史料による確認が取れず、ノストラダムス自身が後の私信で、医学と判断占星術の研究歴を1521年頃から起算していることとも整合していないためである。史料的に裏付けられる同大学入学はこの遍歴の後である。

モンペリエとアジャンでの日々

現在のモンペリエ大学医学部
1521年からの約8年にわたる遍歴を経て、ノストラダムスは1529年10月23日にモンペリエ大学医学部に入学した。この時点で、薬剤師の資格は取得していたようであり、その後研究を重ねて医学博士号を取得したとされる。ただし、その記録は確認されておらず、むしろ当時の学生出納簿にはノストラダムスの名を抹消した形跡があり、この傍には在学中に医師たちを悪く言ったかどで告発された旨の記述がある。この点、はっきりと大学から除籍されたと位置づける者もいる。また、当時の正式な薬剤師登用に求められた条件(数年間に及ぶ徒弟修業期間や同業者組合内での試験)を、ノストラダムスが満たしていた形跡が見られないことから、入学前に薬剤師資格を所持していたこと自体を疑問視する者もいる。

この頃の「伝説」としては、博士号取得後に請われて同大学の教授として教鞭を執ったが、あたかも未来を先取りするかのような先進的な治療法のせいで、同僚の保守的な教授たちとの間で大きな軋轢が生まれ、わずか1年で辞職したというものがある。しかし、それは17世紀以降に言われるようになったに過ぎず、それを裏付ける史料は確認されていないどころか、上記のように博士号取得に至る過程自体もはっきりしていない。

従来博士号を取得したとされてきたこの時期の前後に、エラスムスに比肩しうる学者として知られていた、アジャンのジュール・セザール・スカリジェの招きを受けたこともあり、ノストラダムスはアジャンへと移住した。彼はアジャンで開業医として医業に携わる傍ら、博識のスカリジェから多くを学んだらしい。また1531年には、アジャンのアンリエット・ダンコスという女性と結婚したことが、1990年代に発見された結婚契約書から窺える。この発見によって、従来謎であった最初の妻の名前も明らかとなったが、慎重な見方をする論者もいる。実際のところ、この頃既にアジャンにいたのだとすれば、モンペリエで3年間研究して博士号を取得したとされた通説との間に、齟齬を来すこととなる。

結婚契約書の真偽はなお検討の余地があるとしても、アジャン滞在中に最初の結婚をし、子供をもうけたことは、確実視されている。しかし、1534年頃に妻子ともに亡くなったようである。この死因にはペストが有力視されているが、実際のところは不明である。その後、持参金などを巡って妻の実家から訴訟を起こされたという話もあるが、これも定かではない。

同じ頃には、元来気難しい性格であったスカリジェとの仲も険悪なものになっていった。さらには、1538年春にトゥールーズの異端審問官から召喚を受けたようである。その理由は「聖人を冒涜した」事を問題視されたという程度にしか分かっていない。怠惰な姿勢で聖母マリア像を作っていた職人に、そんなやり方では悪魔の像が出来てしまうと注意したところ、逆に聖母を悪魔呼ばわりした人物とされてしまったという説もあるが、これはトルネ=シャヴィニーらが19世紀になって言い出した話のようである。このほか、アジャンのプロテスタント医師サラザンが召喚された際に、交流のあったノストラダムスにも累が及んだとする説もある。

こうした諸状況の悪化によってノストラダムスは再度の遍歴を決心したとされるが、上述の通り裏付けとなる史料に乏しく詳細は不明である。ひとまず、妻子と死別したらしいこと、少なくともそれが一因となって旅に出たらしいことは確実視されている。実際、1530年代後半以降、彼の足取りは一時的に途絶える。この頃の伝説としては、オルヴァル修道院(フランス語版)に立ち寄って予言を書き残したというものがあり、19世紀に出現した偽書「オリヴァリウスの予言」や「オルヴァルの予言」と結びつけられることもあるが、資料的な裏付けを持たない。

医師としての活動

当時の医師たちのペスト治療時の服装。ノストラダムスがこのような格好をしていたかは定かではないが、可能性は指摘されている。

ノストラダムスが晩年を過ごした家 星を見るノストラダムス

アンリ2世の死と結びつけられる百詩篇第1巻35番(1656年版)。解釈に都合良く原文が改竄されている。
長い放浪を続けたノストラダムスは、1544年にマルセイユの医師ルイ・セールに師事したとされ、翌年には3人の囚人の診察をした記録がある。そして、1546年に同じ南仏の都市エクスでペストが流行した時には、治療のために同市へと赴いた。これについてノストラダムス自身は、エクスの議会 (senat) と現地住民からペストの根絶を要請されたと語っている。そして、エクスの古文書館には、1546年6月にノストラダムスに契約金を支払ったことが記載された、エクス市の出納係ポール・ボナンの会計簿と、その際のノストラダムスの契約書が残されている。

資料ウイキペディア 下記全文 パラノイア自著

※伝記を読んでのコメント「予言師ではなかったノストラダムス」

以下の記述引用を読んで思うのは、ノストラダムスは、ちまた云われるような占星術師ではなく、れっきとした学者、そして天文学者であることがわかる。

それがどうして、「予言者」としての名声に至ったのかは、「バレンタインチョコ」と同じように、二つの要素をどこかの誰かが、意図的に結び付けて売り出した、という推測が成り立つ。

かの「ニュートン」にしても、錬金術師としての顔を持っていた。金を人工的に作り出すというマジックを本気で駆使していたが、その当時として物理科学体系が確立していなかったため、大抵の学者はそれをしていたらしい。

古典力学で有名なイギリスの物理学者ニュートン嘲りの笑い 
ペスト流行による故郷での長期休暇と三大業績ニュートン。
ニュートンがこうした成果を得るのに有利に働くことになる、もうひとつの出来事があった。一人でじっくりと思索をめぐらす時間を得たのである。学位を取得したころ、ロンドンではペストが大流行しており(ペストは以前14世紀にヨーロッパの人口の3分の1以上を死亡させたほどの恐ろしい病気だった。ニュートンが学生のときのそれは数度目の襲来であった)、この影響でケンブリッジ大学も閉鎖されることになり、1665年から1666年にかけて2度、ニュートンはカレッジで彼がしなければならなかった雑事から解放され、故郷のウールスソープへと戻り、カレッジですでに得ていた着想について自由に思考する時間を得た。また1664年、つまりペストで疎開する前に奨学生の試験に合格して奨学金を得ていたことも、故郷で落ち着いてじっくりと思索するのに役立った。こうしてニュートンは故郷での休暇中に、「流率法( (Method of Fluxions) )と彼が呼ぶもの(将来「微分積分学」と呼ばれることになる分野)や、プリズムでの分光の実験(『光学』)、万有引力の着想などに没頭することができたのである。 (ニュートン)

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(ノストラダムス) 15歳前後(1518年頃)にアヴィニョン大学に入学し、在学中に自由七科を学んだようである。この点は、実証的な伝記研究でもほぼ確実視されているものの、史料的な裏付けはなく、入学時期もはっきりしていない。在学中には、学友たちの前で、コペルニクスの『天球の回転について』の内容を20年以上先取りするかの如くに正確な地動説概念を語るなど、諸学問、特に天体の知識の卓抜さで知られていたとする「伝説」はあるが、これも裏付けとなる史料はなく、むしろノストラダムスの宇宙観は、本来の地動説と対置されるプトレマイオス的なものとも指摘されている。

ウイキペディア

アヴィニョン大学在学は、1520年に中断を余儀なくされたと推測されている。当時のペスト流行の影響で、アヴィニョン大学をはじめとする南仏の大学の講義が休講とされたからである。このことは、1521年から1529年まで各地を遍歴し、薬草の採取や関連する知識の収集につとめたと、後に本人が語ったこととも矛盾しない。他方で、ノストラダムスがこの遍歴に先立ってモンペリエ大学医学部で医師の資格を取得したとする説もあるが、現在では虚構の可能性が高いと考えられている。この説は、後にノストラダムスの秘書となったジャン=エメ・ド・シャヴィニーによるものだが、史料による確認が取れず、ノストラダムス自身が後の私信で、医学と判断占星術の研究歴を1521年頃から起算していることとも整合していないためである。史料的に裏付けられる同大学入学はこの遍歴の後である。

と、二人の学業成果と、その当時の社会情勢を鑑みると疫病「ペスト」によってヨーロッパ社会が脅かされていることがわかる。

歴史的に世界の覇権者たちの文明末路はその「疫病」パンデミックであるというのが、歴史の一つのキーポイントとなっている。

古代文明の足跡発掘調査痕跡をみると、日常の暮らしそのままで、忽然とそれが消える、というスタイルが多い。よく云われるのが生活環境の激変で、土地が砂漠化した、というのは説得力があるが、それでは日常生活痕跡は、はっきりと残らない。

この度の「新型コロナウイルス」疫病蔓延の過程をリアルタイムで報道されている経過を知る見ることで、社会が、どのように瓦解されるのか、それが良く判った。おそらくそれは、100年とか1000年とかのスパンで繰り返される大規模災害なのだろう。それからすると、われわれは丁度その真っただ中に居る、という認識を持つ必要がある。

古代ギリシアの「アレクサンドロス3世」通称アレクサンドロス大王、古代ローマ帝国の覇者であった「カエサル」は紀元前44年に暗殺される。それら歴史的名声を欲しいままにしたカリスマは、独裁的な政治手腕によって政治をつかさどっていた。それらを評すればカリスマ故のオンリーワンであり、次席を必要としなかった。いってみれば主軸ハブを一人で演じ、それが何らかの原因で阻止されると、あっという間に組織崩壊することは、多くの歴史が証明している。その最大の原因が「疫病蔓延」というのは、先に挙げたヨーロッパ社会を席巻した「ペスト」でも判るように、国家を揺るがすエポックが、まったく目に見えない「ウイルス」によって進行していて、彼らにしてみれば、まったく人知およばざる領域に潜むミクロ生物、ということを知ることがなかったことの最大のミステイクであった。


参考文献「新型コロナウイルス「生物兵器論」は本当なのか」

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