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いまどきSNS時代に安土桃山時代タイムスリップ

日本人の大好きな「関ゲ原」戦争は東洋史のエンターテイメント

1600年に日本の美濃国で行われた合戦
関ヶ原の戦いは、安土桃山時代の慶長5年9月15日に、美濃国不破郡関ヶ原を主戦場として行われた野戦。関ヶ原における決戦を中心に日本の全国各地で戦闘が行われ、関ヶ原の合戦・関ヶ原合戦とも呼ばれる。
合戦当時は南北朝時代の古戦場・「青野原」や「青野カ原」と書かれた文献もある。 主戦場となった関ヶ原古戦場跡は国指定の史跡となっている。
ウィキペディア

「関ヶ原(せきがはら)の戦い」という名前は覚えていても、詳しい内容を忘れてしまった人も多いのではないでしょうか。戦いが起こった時期や場所など、基本情報をおさらいしましょう。

東軍と西軍による天下分け目の戦い
関ヶ原の戦いは、1600(慶長5)年に、全国の主だった戦国大名が東軍と西軍に分かれ、美濃(みの)の「関ヶ原」で戦ったという史実です。東軍のリーダーは徳川家康、西軍は石田三成(みつなり)でした。日本の支配者が決まる大きな合戦だったことから、「天下分け目の戦い」と表現されることもあります。

史跡関ケ原古戦場決戦地(岐阜県不破郡)。中央に石碑、右に東軍徳川、左に西軍石田の幟(のぼり)が見える。

大規模な合戦だったものの、濃霧の中、午前8時の開戦から、わずか6時間程度で決着したといわれています。三成との決戦に向けて、家康が諸大名に対して周到に根回ししており、勝敗は最初から決まっていたようです。

エピソードの一部には創作も?
関ヶ原の戦いには、「小早川秀秋(こばやかわひであき)の裏切り」をはじめ、いくつかの有名なエピソードがあります。しかし、その一部は、江戸時代に入ってから創作されたという可能性が、最近の研究で示唆されるようになりました。

勝者による事実の書き換えは、歴史においてよく起こります。戦いに勝った家康も、当時は、豊臣(とよとみ)家から政権を奪った存在です。幕府にしてみれば、家康の行為を正当化するためにも、関ヶ原の戦いには大義名分があったことをアピールする必要があったのでしょう。

歴史の教科書に書いてある内容が、最新の研究や史料の発見により、実は違った、と判明することはよくあります。自分たちの幼少期に習った内容が、子どもの教科書では変わっているケースにも出合うかもしれません。

子どもに歴史を教えるときは、常識だと思っていたことが、時代とともに変わる可能性も頭に入れておきましょう。

関ヶ原とは、どこにある?
関ヶ原は、現在の「岐阜県不破郡(ふわぐん)関ケ原町」にあります。名前に「原」が付いているため、広い原野をイメージする人がいるかもしれませんが、実際は周囲を山に囲まれた盆地です。三成の陣のあった笹尾山から「関ケ原」を望む(岐阜県不破郡)。確かに、盆地といえる。

関ヶ原は、大阪方面から岐阜や愛知に抜ける際に必ず通る場所で、672(弘文元)年に起こった「壬申(じんしん)の乱」でも重要な役割を果たしました。

江戸から進軍してきた家康を、大坂城方面へ行かせたくなかった三成は、関ヶ原の東にある大垣(おおがき)城に入り、防衛線を張ります。大垣城は堅固(けんご)な城で、戦上手(いくさじょうず)で知られる家康も手を焼いたようです。

https://hugkum.sho.jp/334962

2022.3.30 はぐくむ 画像 大垣城(岐阜県大垣市


2023年01月29日記事

江戸徳川政権は「民主主議」とは何が違うのか

日本の地方自治
地方自治は、国の中に存在する地域・地方の運営について、地方の住民の意思に基づき行うことをいう。
国は公正かつ普遍的な統治構造を維持するため、国家全体の運営について画一的、均一的運営を行うことが要請されるが、地方の実情や地方における住民からの要望は各地方によって様々であることからこれをすべて同一に運営することは不可能であり、地方の運営に当たっては地方の独自性を考慮する必要が生じる。
そこで、地方の総合的な運営は地方に委ね、国は国家に係る根幹的な事柄を担当し、かつ、国家全体の総合的な調整を図るという役割分担がなされることになる。すなわち、地方自治とは国による統治に対立する側面を有しており、住民自治(じゅうみんじち)と団体自治(だんたいじち)というふたつの概念を持つ。
住民自治は民主主義的側面、団体自治は自由主義的側面(地方分権的側面)として捉えられる。「住民自治」とは、地方自治はその地域社会の住民の意思によって行われるべきという概念である。
団体自治団体自治とは、地方自治は国(中央政府)から独立した地域社会自らの団体(組織・機関)によって行われるべきという概念である。地方自治には権力分立としての側面があり、権力分立を国家全体についてみるとき中央と地方との関係では垂直的に権限分配されているとされる(垂直的分立)。
地方自治の類型としては、イギリスやアメリカなどで発達したアングロ・サクソン型(分権・分離型)とフランスなどで発達したヨーロッパ大陸型(集権・融合型)があるといわれる。

地方自治の本旨
日本の地方自治については日本国憲法第8章において定められている。

憲法第92条は「地方公共団体の組織及び運営に関する事項は、地方自治の本旨に基いて、法律でこれを定める。」こととしており、地方自治の原則を示している。

なお、ここでいう地方自治の本旨とは、法律をもってしても侵害できない地方自治の核心部分を指すとされ、具体的には住民自治及び団体自治を指すとされる。

従って、地方公共団体そのものを廃止したり、地方議会を諮問機関とすることは違憲である。

市町村制の廃止が違憲であるとする点では争いはほぼない。

都道府県制については、二段階構造が制度上の要請であり、都道府県の廃止は違憲であるが、道州制ならば合憲であるとする説が有力である。

地方自治に関係する法令は数多く存在するが、これらは地方公共団体の組織及び運営に関するものと、地方公共団体の行う行政及び行政作用に関するものに大別することができる。なお、地方自治に関する基本的な事項については地方自治法により規定されている。

地方自治の法的性格

固有権説

個人が基本的人権を持つように、国家以前の固有の権利とする。

「固有の権利」の内容が曖昧である、「法律の留保」を認める92条と矛盾する、地方公共団体に固有権を認めると、単一性、不可分性をもつ国家の主権と矛盾するなどの批判がある。

伝来説
承認説
国から伝来したものとし、国から与えられた範囲での権能であるので、国は地方自治の廃止をも含めて定めることが出来るとする。

地方自治が国の立法政策に大きく左右されてしまうという批判がある。

制度的保障説-通説

国から伝来したものであり、憲法により、歴史的・伝統的・理念的な制度を保障されていて法律により廃止、制限できないとする。

地方自治権の最低限を保障するが、法律による制約を広く認めることになる。
制度の本質的内容・核心が何か不明であるという批判がある。

地方公共団体
地方公共団体の意義

地方自治法上の地方公共団体
地方自治法上の地方公共団体には、普通地方公共団体と特別地方公共団体であり(地方自治法1条の3第1項)、普通地方公共団体には都道府県と市町村(地方自治法1条の3第2項)、特別地方公共団体には、特別区、地方公共団体の組合及び財産区(地方自治法1条の3第3項)がある。

憲法上の地方公共団体

憲法上の「地方公共団体」の定義について、1963年(昭和38年)の最高裁判所判決は「憲法が特に一章を設けて地方自治を保障するにいたつた所以のものは、新憲法の基調とする政治民主化の一環として、住民の日常生活に密接な関連をもつ公共的事務は、その地方の住民の手でその住民の団体が主体となつて処理する政治形態を保障せんとする趣旨」であるとし、この趣旨から憲法上の地方公共団体とは「単に法律で地方公共団体として取り扱われているということだけでは足らず、事実上住民が経済的文化的に密接な共同生活を営み、共同体意識をもつているという社会的基盤が存在し、沿革的にみても、また現実の行政の上においても、相当程度の自主立法権、自主行政権、自主財政権等地方自治の基本的権能を附与された地域団体であることを必要とするものというべきである」とし、東京都特別区は、日本国憲法第93条2項の地方公共団体にあたるものではなく、特別区の区長を公選にしなくても違憲ではないと判示した(最大判昭和38・3・27刑集17巻2号121頁)。

日本大百科全書(ニッポニカ)「幕藩体制」解説

幕藩体制


江戸時代における将軍を頂点とした政治体制をいう。江戸時代を通じて、将軍は封建君主であり、そのもとでの国家を幕藩制国家という。
幕藩制国家は、集権的国家、総体的封建制国家、国家的農奴制国家などと特徴づけられているが、いずれにしても封建国家であって、そこでの国家と社会とは未分離であったから、幕藩体制を江戸時代の社会体制を表す用語として使う場合も多い。ここでは、幕藩体制を幕藩制国家の支配体制としておく。

多くの大名領では、17世紀初めから、その家臣(=給人(きゅうにん))に知行地を現実の土地と農民とに対する支配として与えた。
これを地方知行(じかたちぎょう)という。大名の家臣たちはそれぞれに自分の支配農民から年貢をとり、その年貢によって、それぞれに生活を行い奉公を勤めていた。

この家臣の財政が大名の財政から自立している状況は、一方で大名財政の財政措置を大きく制約するとともに、他方で家臣財政の窮乏に伴って支配農民への誅求(ちゅうきゅう)を強め、領地支配の混乱を激しくした。
この状況に危険を感じた大名の多くは、その家臣の知行制の改革を始めた。大名所領の全域の土地・農民をすべて大名の支配下に置き、家臣の直接支配を禁ずる。
年貢はすべて藩が農民から直接にとり、各家臣へは藩からその知行高に応じて現米で支給するという、俸禄(ほうろく)制(蔵米(くらまい)知行)への知行制の転換を進めた。

この結果、財政面では、大名財政が家中(=給人)財政をも組み込んで、藩財政として確定することとなり、借り上げなどの方法で財政操作することが可能になるとともに、藩域で一様の公平な農政を展開できることとなった。

17世紀末には、大名243家のうち、地方知行制をとるもの42、蔵米知行制をとるもの201と計算されている。
このような知行制の転換は、同時に大名財政機構の確立やそれと不可分の城下町商業の発展という問題から、大名の藩政への権力・権威の強化、それに伴う藩領域を舞台とした文化・思想の独自的発展にまでその結果が波及するのであって、それらのことをも含めて、蔵米知行制の成立をもって、藩体制の確立とする見解も強い。こうして、明治維新期において否定の対象となる幕藩体制は、ほぼ17世紀の末に完成した。

経済制度
幕藩体制は、封建的土地所有が将軍のもとに統一的・集中的に掌握されているということを基本にした経済制度を構成していた。

米年貢制は必然的に米の販売と必要諸物資との交換を必要としていたから、都市と商品経済、および手工業生産物などの必要諸物資の生産は、その経済制度の不可欠の要素となっていた。
全国的商品流通の体制は17世紀後半に完成した。中央都市である三都、とくに大坂の商業と、各地の城下町などの諸都市の商業とが結び付けられた。
幕藩領主は、貨幣制度・度量衡制度・交通制度などの制度的な整備や、商業機構・都市民支配機構などの機構的な整備を行って、その全国商業の、国家統制のもとでの発展を図った。
手工業などの諸生産力も地域的には城下町商業によって、全国的には中央都市商業によって、それぞれ編成された。そして、これらの全国商業は全体としては鎖国制によって、将軍の支配・統制下に置かれていた。

社会制度
幕藩制国家は人々を身分制によって支配した。士・農・工商の身分区別が設けられ、士と農・工商、農と工商の間の相互の身分移動は厳重に禁止された。
それぞれの被支配身分のなかには、農村に住み農業に従事するものとしての農民身分では本百姓、都市に住む町人としての工商身分では地主・家主(やぬし)、手工業や商業を営むものとしての工商身分では「役(やく)」負担商・職人、という、身分制的基本階層が設定されていた。

それぞれの身分に属する人たちは、この基本階層に対する国家支配を通じて、身分制的に支配されていた。本百姓のなかから村役人、地主・家主のなかから町役人、「役」負担商・職人のなかから仲間惣代(そうだい)が出て、それぞれに農・工商支配機構の末端機構としての役割を担わされていた。幕藩制国家がこの身分制を編成するために設けたのが賤民制であった。幕藩制国家における身分制は、家父長制的関係のなかで、人々を貴賤の序列のなかに位置づける制度であったことが、この身分制と賤民制とを不可分のものとした。

国際的位置
鎖国制下にあって、経済・文化の国際的交流は、幕藩制国家の中央政府である幕府によってほぼ完全に掌握・統制された。
このことは、国際的交流を著しく歪曲(わいきょく)し矮小(わいしょう)化したが、それでも、経済的には、輸入物資の国内流通、輸出物資の生産の両面での体制がつくられたし、文芸・思想面でも、大陸の影響を受け続けた。

鎖国制のもとで、わが国独自の経済や文化の発展がみられたが、その鎖国制を維持するために大きな役割を担わされたのが、琉球(りゅうきゅう)とアイヌであった。
付庸(ふよう)国として大陸との関係を保ち続けた琉球を、幕藩制国家は島津支配下の属国として扱い、国内的には異民族扱いをした。少数異民族としてわが国にもっとも近接していたアイヌに対しては、幕藩制国家は、異民族部族社会としての独自性や自立性を認めず、徹底的に収奪し尽くそうとした。こうして、幕藩制国家はその正式の国際関係を、対馬(つしま)を介しての朝鮮との関係、長崎を窓口とする中国・オランダとの関係にのみ限定することとなった。

文化体系
鎖国制のもとで、幕藩制社会は、固有の文化体系をつくりだしていった。幕藩制国家の政治・経済の統一的・集中的性格は、その文化のあり方にも反映しており、思想から生産技術などの生産文化に至る広い範囲で、中央文化は地方文化に対して、高い水準と強い指導性とをもっていた。幕藩制国家は、このような構造をもつ中央文化の担い手をその国家支配の体系のなかに組み込み、それによって、支配の論理を構築するとともに、文化に対する統制を行った。

『山口啓二・佐々木潤之介著『幕藩体制』(『体系日本歴史4』所収・1970・日本評論社)』▽『佐々木潤之介著『幕藩制国家論』上下(1984・東京大学出版会)』▽『安良城盛昭著『幕藩体制社会の成立と構造』増訂第4版(1986・有斐閣)』▽『藤野保編『論集幕藩体制史』1~11(1993~96・雄山閣出版)』▽『井上光貞・永原慶二・児玉幸多・大久保利謙編『日本歴史大系』8~11・普及版(1996・山川出版社)』▽『長倉保著『幕藩体制解体の史的研究』(1997・吉川弘文館)』▽『朝尾直弘著『畿内からみた幕藩制社会』(2004・岩波書店)』

大名ランク
江戸時代の政治体制というのは、将軍を最高権力者とする徳川幕府が、地方の領主であるたくさんの大名家(藩)を統括して治めるという形態だ。これを幕藩体制という。

大名家といっても、その歴史的な成り立ちによって幕府との関係はさまざま。幕府と親しい家もあればそうでない家もある。これらの大名家は幕府との関係によって親藩(しんぱん)、譜代(ふだい)、外様(とざま)という3つの種類に分けられている。

(親藩=親族、譜代=家来、外様=ヨソ者(客人)

親藩とは、家康の直系の子孫を中心とした、将軍家(=将軍の家族)にごく近い親類の大名家だ。
「一門大名」ともいわれる。そのなかでも家康の子が当主となった尾張徳川家、紀伊徳川家、水戸徳川家は御三家といって、とくに重要な家とされた。
将軍家に跡継ぎができないときは、この御三家の中から将軍を出すこととなっていたのだ。

譜代大名は「根っからの家来」
親藩が将軍家の親族であるのに対して、譜代は将軍の家来の家だ。譜代というのは「代々(つかえてきた)」という意味。

戦国時代を戦い抜いてきた徳川家康には、徳川四天王(酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政)とよばれるスゴ腕の武将たちをはじめ、多くの有能な家臣がついていた。家康は信長や秀吉もうらやむほど忠誠心のつよい家臣団をもっていたのだ。

こうした家臣、家来の多くは、戦国期には旗本として大将である家康のまわりを守り固めていたのだけど、やがて徳川家の支配地が全国へと広がってくると、有力な旗本たちは1万石以上の大名に格上げされて地方の要所を治めるようになった。これが譜代大名ということだね。
(いっぽう、その他大勢の家来たちは幕藩体制下で、あらためて「旗本」「御家人」として将軍につかえることになる。こうした武士は将軍直属の軍隊を構成し、原則として江戸に住み「直参 (じきさん) 」とよばれた)

譜代大名には、前にあげた徳川四天王(酒井、本多、榊原、井伊)の各家、それに大久保、鳥居、土井、奥平、久世、小笠原などやそれらの分家があった。また江戸時代に老中となった人物は大多数が譜代大名といっていい。

親族でも家来でもないのは外様大名
譜代大名の多くは、もともと家康の家来だったのを大名にして各地に配置したものだ。
いっぽう、そうではなく最初から大名だったもの、
つまり戦国時代に徳川家以外の「○○家」(○○氏)と呼ばれていた大名(戦国大名)は基本的にみんな外様大名だ。


01029江戸徳川


構成編集#つしま昇

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