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『本が語ること、語らせること』感想文2 お元気でしたか

久しぶりに会う、という機会が増えたこのご時世。「お元気ですか」「お元気でしたか」というフレーズの出番も増えていることだろうと思う。

会わなかった期間が長ければ長いほど、体調の上下を一言では言い表せなくなる可能性は高い。しかし、たいがいの場合、海青子さんが書かれているように「はい、なんとか」や、無難な「おかげさまで」といったような、包括的な一言で終わりになっている気がする。体調が悪かったとしてもすでに多少なり回復しているのであればあえて言わない場合も多いであろうし、現在進行形であっても(年賀状のやりとり以外に交流のない場合は特に)伝えるのはなんとなく憚られる場合もある。それに、体調不良だと言うからには多少なり説明が必要になるので、文章が長くなる。結果的に、年賀状のやりとりそのものに象徴されるように、まさに「あいさつ」の一部として、するりと触れるのみだ(と言いつつ、年賀状は「やりとり」というよりも「お互い一方通行の報告」かもしれないが)。

「悪くても言いにくい」と多数が思っているにも関わらず、なぜ元気だったかどうかを尋ねるのか。改めて考えた結果、それは「前提」のための「探り」なのではないかというところに思い至った。
相手が「元気いっぱいだ」ということがわかっている(もしくは、特に悪くない、という言質を取れている)と、とても喋りやすい気がする。良くも悪くも、気にしなくていいですよ、という気楽さがある。
「元気じゃないかもしれない」となると、かなり多方面に「言ってはならぬこと」があるような気がし始める。言葉選びも、話題も、うっかりすると地雷を踏みかねないという恐れが生じる。それはつまり、気にしなくていいという前提が欲しかった人からすれば、面倒くさいということだ。

しかし、ルチャ・リブロのお客さんたちの中には、「身体は元気だけど、元気とも言い切れない」と正直に申告するお客さんが多いのだという。ひとつのやりとりを形骸的にやりすごさない、という一面でもあるし、体調不良を隠さない、という一面でもあると思う。以前のオムラヂでも話題になっていたが、「体調が悪いと(特に自ら積極的に)言うことは体裁が悪いと捉えられているようでなかなか発信されにくい」というのは、つまり「面倒くさがられたくない」ということで、しかしそれを申告できるということは、ルチャ・リブロでは「面倒くさがられない安心感」があるということなのだと思う。

「お元気ですか?」「……元気と言っていいものか」。こんな会話ができることに、私はルチャ・リブロを開館する醍醐味を感じています。(中略)
常連さんやリスナーさんとの何気ないあいさつや雑談を通して、こんなにも自らの内側に目を向けさせてもらえるのです。来館者さんたちが正直に、繊細に、自分の内側に耳を傾けてくれるおかげで、私にも得られるものがたくさんあります。

(p.12-13)

海青子さんは、これを社会実験の場としてのルチャ・リブロで得た結果のひとつ、と、締め括っている。その「結果」は、ルチャ・リブロという場が、青木さんや海青子さんが醸し出す「安心感」がもたらしたものだ。

「誰もが元気になる」よりも、「元気じゃなくても安心できる」という方が、実現可能性も高いし、生きやすいのではないだろうか。

「お元気でしたか?」「そういえば最近ちょっと……」と、お困りごとを話してもらえることは、お節介な私からすれば、面倒どころか大歓迎だ。すでに自分で試してみたことがあればお話しできるし、知らなかったことは知りたいし、解決できるかどうかではなく、時間をかけて一緒に考えさせてほしい。
海青子さんが書かれているように、投げかけられたひとつの「お困りごと」は、相談した人と相談された人の両者に作用する。人と人が関わることで、色々な反応が起こり、関係や場が醸成されていく。それはとても流動的で豊かなことではないだろうか。

「つぐみBooks&Coffee」も、少しずつであっても、本と食を中心に、そういった場を醸成していけたらいいなと考えている。

……余談ではないけれど、「マイノリティ」や「タブー」としてなきものにされていた様々なことも、やっと社会に「お困りごと」として投げかけられたからこそ動きだしたのだと思う。「問題」の大きさはピンからキリまであるかもしれないけれど、そこに軽重はないような気がする。「おかしなこと」は大概なにか理不尽な歪め方をされていて、その歪みは、やっぱり歪ませなくていいように、できることがあるのではないかと思えてならない。

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