見出し画像

「全力で桜を楽しむのに必要なもの」について考えてみた

今季桜が咲いてから、最初の日曜日だった。
とてもよく晴れて、抜けるような空の青がきれいな日。

いま住んでいる町は、普段はのどかで人もまばらなところだけど、今日はあちこちで人が桜を仰いでは、写真を撮ったり談笑したりと心なし嬉しそうで、町全体が少し浮ついた雰囲気になっている。
桜の花びらが陽の光に透けて、白く光っている。
私は、毎年こんな桜咲く春がくると、やっぱりいいなあ、と満たされる気持ちになる。

それでも実は、今年の私はあんまり桜を楽しむ気分になりきれてないな、というのを薄々感じていて、ちょっと不思議に思っている。
去年の桜は、なんだかすごく満喫した記憶があるのだけれど。
特に大きなイベントがあったわけではないと思う。
ただ、町のあちこちで咲く花に目が留まるたびに気持ちが沸き立って、天気が崩れてはむごく散らされてしまうのを心配して、通りかかるたびに変化する桜の状態を確かめては、ずっとご機嫌でいられた。
そんな過ごし方をしていた。

それが今年は、ほんのり嬉しい気持ちは胸に芽生えるものの、なんというか、響きが小さい感じがする。なぜだろう?
桜を全力で楽しむには、何が必要なんだろう?

例えば、「待ち遠しく思う気持ち」とか?
桜が景観の一部である以上、別の用事や買い物のためにちょっと歩いただけで、日常的に見れてしまうものではある。
だけど、それをいかに事前に準備して、花見に臨む場や気持ちを作るか、というのが大事なんだろうか。
いわば、「桜を楽しむための助走期間」をつくることで、実際開花が始まったときに全身全霊で喜べるのかもしれない。

あとは、「非日常の演出」も重要な気がする。
通りすがりに桜を見るだけではなくて、予め桜を見るぞと目的と日付を決めて、段取りをくんで、当日を迎える「花見」として見るのが、やっぱり桜を味わいつくしたぜ~!という満足感に繋がるんだろうか。

花見といえば、私が思い浮かべるイメージはこんな感じだ。
ガサガサ風に飛ばされそうなブルーシートを、こう鞄とか靴とかで雑に抑えながら、屋外でみんなでワイワイ見る。
アスファルトの上だからお尻が結構冷たかったり、逆に日当たりが良すぎて暑かったり、なんかあんまり快適な環境ではない気がする。
けど、そんな不便ささえも非日常的で、楽しい。
食べ物や飲み物も欠かせない。
ごちそうを用意するのもいいけれど、あえて日常的なものを持ち寄るのも醍醐味があるよね。
紙皿の上になんかこう、たけのこの里とかポテチとかお菓子が雑多に盛られていたりとか、缶のお酒とか紙コップに注がれたジュースとか。
そういう、普段は家の中にあるものたちが、いつもと違う特別なロケーションでに連れ出されているのがね。なんか、いいよね。

私が思う花見はこんな感じで、つまり私はそういうのがしたかったな~ということなんだろうか?
いや、待て待て。

「待ち遠しく思う気持ち」に戻って思い返すと、今年もちゃんと持てていたと思う。
というか、逆に「待ちくたびれてしまった」という感覚がしっくりくる。

今年は、あたたかくなるのが遅く、桜の開花が遅れた春だったと思う。
待ち遠しく思う時間は、ずっとあった。
2月末くらいから1カ月強、春の訪れをじりじりと待ち焦がれていた。
すごく長かった気がするな。
まだダウンコートを着るような季節から、無印良品の粉末の桜ラテを買ったり、インスタグラムで桜スイーツをたくさんチェックしたりしていた。

そう過ごしているうちに、私の中で桜を楽しむ気持ちが満たされちゃったっていうのもあるのかな。
こう、欲しくて欲しくてたまらなかった服をようやく買えて、満足して、結局あんまり着ないみたいな。そういう気持ちの変化があったかもしれない。

ああ、2024年のテーマの一つに、「季節感を楽しむ」を挙げてたのにな。
2月はバレンタインで海外の良さげなチョコレートを買うとか、結構頑張ったつもりだったんだけど、うーん。
やはり、きちんと計画しないと楽しみ切れないみたいだ。

来年はどんな風に春を楽しんでいるのかな。
いやいや、まだ今年の春を楽しむのにも遅くないはず。

とりあえず今年も、5月以降は、もう少し季節感を意識して過ごしたいね。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?