テレワークな2ヵ月と言葉の喪失

「一人っ子だから」「甘えん坊」と言われるのが、子どもの頃、何よりイヤだった。そう言われると誰彼ナシに突っかかっていった。その挙げ句、ボコボコにされ、泣かされて、それでも半べそをかきながらさらに向かっていった。そのうち、「コイツはヤバい奴」という雰囲気になって、誰もからかわなくなった。と同時に友人の少ない人生を送ることになった。この2ヵ月、テレワークのためにほとんどの時間を自宅で過ごす中で、そんな昔を思い出してた。言葉の使い方を知らなかったそのころ。


どういうご縁でこうなったかは書かないが、この4月からとあるIT企業で働いている。4月1日の入社日は、新型コロナの影響で短縮バージョンのオリエンテーションのあと、MacBookAirを渡され、VPNを設定してそれで終了。そして、翌日からいきなりの在宅ワークだ。物置というかほとんどゴミ屋敷と化していた書斎に、なんとか通れる隙間をつくり、机に無理矢理MacBookをねじ込ませワークスペースにした。フィギュア、厚い本と薄い本、芝居のパンフ、買った覚えも理由も見当たらないが確実に自分が買ったであろうグッズの山の中で、62歳のIT企業人生がスタートした。

毎日自宅からつなぐオンライン会議システム。その多くはzoomで、最初のころは誰もがやるようにバーチャル背景を次々と変えてみた。snap cameraというアプリと連動させて、自身の映像を加工したりもした。が、大体は2週間で飽きる。ビデオも音声もオフして、ただ発話者の話を聞くだけのときも多い。人の話を聞きながら、欠伸をする、鼻くそをほじる、屁をこく、やりたい放題。が、それも飽きてそのうちパソコンを2台並べて別の作業をするようになる。耳はしっかりとオンライン会議で交わされる声を聴いている。そうなると今度は会議の内容がすとんと落ちてきて、時々ミュートを解除して会話に加わったりする。リモートワークが普通になった瞬間だ。

雑誌編集部の会議というのは、言ってみればイメージのぶつけ合いであり、その探り合いだ。こんな感じの見出しで、こんなふうなレイアウトで、こげなふうな写真が入りまずばい。そげんこつ言うてもいっちょんわからんばい、まあ、方向性はよかとね。企画とは、誌面イメージ、展開イメージを伝えるものであって、検証や実証を重ねるものではなかった。オンラインの会議で感じたのは、そんなふわっとしたイメージを伝える難しさだ。それは、物語る=モノかたる難しさと言ってもいい。ひとつ情景を語り、それを共有する。リアルな空間はそのために必要だったのか、と。

「あんたは説明が下手じゃなあ」
母からよくそう言われていたことを思い出す。

伝えたいコトなんかない、語りたいガラ(柄)があるだけなのに。


言葉に向き合うことの難しさと意義を再確認したテレワークの2ヵ月間だったように思う。それは決して悪くない時間だった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?