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私は、カレーに紅ショウガはのせない

人間だもの、だれだって好き嫌いはあるし、得意不得意があっても、なんら不思議なことではない。

我が家では、カレーには紅ショウガをのせる。
カレーの付け合わせといえば、紅ショウガだった。
私は紅ショウガの辛さとあの酸っぱいような感じがどうにも苦手で、カレーとごはんのお皿にはいつもカレーの茶色が広がるばかりだった。
父や母の茶色いカレーの上に、赤い色どりがちょこんと鎮座ましましているのを、なんとなくあこがれのような、うらやましい気持ちで眺めていた気がする。

カレーのよそい方、カレーの付け合わせの一般的なものを知ったのは、中学生のときの宿泊訓練だった。
宿泊先の夕飯にカレーが出た。
カレーは白いごはんと、カレーのルーがきちんと半分こされている状態で出て来たことに、私は天啓のごとく衝撃を受けた。
付け合わせが福神漬けという、だいだいいろと黄色のあいのこみたいな色合いの、甘めのおつけものにもびっくりだった。

我が家におけるカレーライスとは。
お皿の上にひらたくのせられた真っ白いごはんの上に、カレールーの茶色が余すことなくかかっているものだったのだ。
そしてすみっこに、付け合わせの紅ショウガ。(私はつけなかったけど)


福神漬けが出てくるようになったのは、私が大学を卒業して戻ってきてからのように思う。
ちなみに、紅ショウガは健在である。


今朝起きたら、昨日のカレーが余っているようだった。まぁ、そうだよな、とも思っていた。
母はめぼしなく、カレーを翌日分まで作り置きする。自分が積極的に食べたいわけでもなく、まして家族に食べたい人がいるからでもなく。
カレーが残っていれば、翌日の食事の一回分が浮くと信じて。単に、家族のだれかが食べざるをえない状況に持っていっているだけ。

「おはよう。カレー食べる?」

どちらかというとカレーを夜まで残すんじゃないぞ……という母からの無言の圧力かつノルマ達成を申し付けられた。決して声に出されることなく。
そんなんわかってるよかーちゃん、と脳内でだけ返事をし、実際に私はこう応えを返した。

「おはよう。食べます」

自分でよそいに行こうと思っていたら、母はきちんと家族全員にカレーを消化させるべく、台所できれいに分配していた。
見事なり。
カレーの入った鍋はきれいにすっからかんになっていたし、昨晩出された福神漬け、紅ショウガの入れ物もからっぽに。
代わりに私のノルマのカレー皿には、もりもりのごはん、カレールー、福神漬け、紅ショウガがのっていた。
……朝から、この量か。
ごはん茶碗でいうなら、たぶん2杯分。
胃袋がきゅっとしめつけられた。

いただきます、と伝えて、私は部屋にカレー皿を持ち運ぶ。
ひとりで、自分の部屋で食べるのだ。


一切の確認もされず、ごはんをもりもりにされたこと。
拒否する間もなくカレールーが存分にかけられていること。
余った紅ショウガが申し訳程度にのっていること。
……すべて、今夜に残さないための母の工夫だというのは、承知の上だ。

本当はそんなにお腹がすいていたわけじゃないこと。
今朝の胃袋では、ごはん茶碗1杯分も食べれないこと。
紅ショウガなんて、私は今まで一度もカレーにのせたことはないこと。

一言でもなにかをいえば、母の機嫌を損ねることがわかるので、何も言えない。そんな自分を思い返して、かなしくなってしまった。

ゆっくりと時間をかけて、ごはんを、カレーを咀嚼する。
無理やり胃袋に収めて、あとで「ごちそうさま」と言わなければならない瞬間がつらい。

お好み焼きに混ぜ込まれている紅ショウガは好きだ。
焼きそばにのっている紅ショウガも、まぁ、食べられなくもない。
……けれど、私はカレーには紅ショウガはのせないし、食べたいとも思っていない。

紅ショウガ、そんなに好きじゃないんだよね、の一言さえ私は言えない。

一言、言えばいいことなのに、母の顔がその発言を聞いたときに顰め面になるだろうことが想像できてしまうのも憂鬱で。
結局、私はこのまま言えないままなんだろうなと思う。

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