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「同志少女よ敵を撃て」の感想

以下はネタバレを含む感想になるので未読の方はご注意下さい

一生心に残る作品だと思った。読んでいて眼を見開き奥歯を噛んで時にホッとしてそして泣いた。単純に面白かったとそう述べることすら躊躇ってしまう。一言で感想をまとめることができず、しかし感想を残しておきたいので以下に綴っていくことにする。

なぜこの作品にこんなに惹きつけられたのか。それは本作を読み終えた2022年4月上旬時点でのロシアによるウクライナ侵攻の影響は間違いなくある。4月9日においてロシア軍による一般市民の殺害、子供の殺害、レイプ、拷問などの戦争犯罪が次々と明るみに出てきている。目を覆いたくなるような現実。物語の中ですら心が辛くなるのに今それが起こっている。現実ではロシアがウクライナに対して行なっている非道な行為を作中ではドイツがソ連に対して行なっている。母親を殺され友人を殺され村を焼かれた事への復讐の成就を願いながらページをめくる一方で現実に起こっていることに対する心の整合性がとれない。なぜ大祖国戦争で味わったはずの非人道的な行為を今度は加害者側となってロシアが行うのか。下記に物語終盤のターニャの言葉を引用する。

もう戦争は終わる。そうしたら、平和の時代は終わらないさ。世界中が戦争の恐ろしさをいやってほど知ったんだもの。きっと世界は、今よりよくなるよ。

第6章より

あんまりじゃないかと思った。ここまで読み進めていればこの言葉に心から同意できる。でも現実では当のロシアが非道をやっている。独ソ戦はドイツがソ連に侵攻したが今の戦争はロシアがウクライナに侵攻した。大義名分なく侵攻して虐殺して撤退している。

ソ連がドイツに攻め込んで反撃を食らって今の戦況があった場合、こうはならなかったのだろうとセラフィマは思う。防衛戦争として侵入者を撃破するという大義名分を胸に抱いているからこそ、膨大な抵抗は可能となった。

第4章より

皮肉なんて言葉では到底足りない。2022年4月現在ではロシアとウクライナは全く同じような戦況に見える。大義名分なく攻め込むロシアに対し圧倒的に不利な条件下であっても防衛戦争として徹底的な抗戦を試みたウクライナ側は首都キーフの防衛に成功しロシアを撤退させることに成功している。

くたばれ、アバズレ小隊。くたばれソヴィエト・ロシア。私は誇り高いコサックの娘だ

第6章より

ウクライナ出身のオリガはソヴィエト・ロシアを恨んで死んだ。そして今も何も変わらない。なぜこんなことになっているのか未だに分からない。

現実の戦争とまるで鏡写しになっているかのような配置。その影響による物語への没入感は大きい。しかし心を揺さぶってくる要は決してそこではない。本作の要は敵がドイツ兵ではなく男性性であることだ。

「男にとっての性欲って、本当にろくでもないのね」
「いや、性欲はたいした問題じゃない」  
耳を疑った。女性を暴行するのに、性欲がたいした問題ではない?  ミハイルは目をそらしたまま、沈痛な面持ちで答えた。
「兵士たちは恐怖も喜びも、同じ経験を共有することで仲間となるんだ。……部隊で女を犯そうとなったときに、それは戦争犯罪だと言う奴がいれば間違いなくつまはじきにされる。上官には疎まれ、部下には相手にされなくなる。裏を返して言えば、集団で女を犯すことは部隊の仲間意識を高めて、その体験を共有した連中の同志的結束を強めるんだよ。さっきの歩兵たちもそうだ。間違いなくそういう意味合いで話していた」
女を犯すことが同志的結束を強める。比喩ではなく、明確に吐き気がした。

第5章より

私自身は男性である。そしてミハイルの言っていることがよく分かる。男性同士の紐帯というのはこれであり本質的には猥談で盛り上がることと何も変わらない。

何のために戦うか、答えろ。──私は、女性を守るために戦います。
そう。自分は女性を守るためにここまで来た。

第6章より

この物語は女性が女性のために男を撃つ物語だ。

女性を守るために戦え、同志セラフィマ。迷いなく敵を殺すのだ。
だが私はお前のようにはならない。お前のように卑怯には振る舞わない。私は、私の信じる人道の上に立つ。
同志少女よ、敵を撃て。

第6章より

読み進めて行く中でセラフィマに感情移入し女を犯す男を撃つことを当然だと思う。しかし同じ状況下で私は撃つ側ではなく撃たれる側であることも感じる。

あなたは他の兵士と同じ場面になったら、例えば上官に言われたり仲間にはやし立てられたら、それでも女性を暴行しない?
もちろんだとも。ミーシカは答えた。そんなことをするぐらいなら死んだ方がマシさ。
噓のない言葉だった。軍隊という特殊な圧力の中で誇りを保とうとする者の言葉だった。
その彼は見知らぬドイツ人女に馬乗りになって、下卑た笑みを浮かべていた。

第6章より

写鏡になっているのはドイツとロシアだけじゃない。男性性のグロテスクさと読み手の私自身の男性性もまた写鏡になっている。セラフィマの復讐の成就を祈る。シャルロッタとのやり取りを快く感じる。ヤーナの無事を願う。アヤの死を悼む。オリガの正体に驚く。ターニャの生き方に救いを感じる。誰も彼もが魅力的で戦争なんて起こらずに幸せになってほしかったと願わずにはいられない。しかし私が作中で最も理解できるのはミハイルなのだ。ミハイルの言っていることもやっていることも分かってしまう。分かってしまうのだ。

読んでいればセラフィマと一緒に女性をあたかも戦利品かのような扱いをする男に対して憤りを感じるし撃たれても当然のように感じる。しかし私の中にも撃たれた男と同じものがあるのだということが分かる。そして撃たれたことを爽快に感じる一方で爽快に感じることそのものへ嫌悪感と混乱が生じる。爽快に感じる資格を男性性を内面化している私は有していないのではないかということ。そもそも撃たれているのは私の一部でもあるのだということ。

ドイツとロシア、男性的グロテスクさと私自身。写鏡の混乱の中でもページをめくる手は加速してゆく。セラフィマもシャルロッタも皆んな生きて欲しいと願うのだけどおそらく全員という願いは叶わないのだろうなと感じながら読み進めていく。ヤーナが撃たれた時は回復を心から願ったし戦後シャルロッタと支え合って生きていくことができたことに安堵して涙が出た。

史実を基にしている影響で過去にセラフィマたちが確かに生きていて私がその先を今生きている感覚が拭えない。戦争が終わって穏やかに生活できていたことに心安らぐのに今現実で戦争が起きている。なぜだ。無力感を感じるし罪悪感も感じる。しかし罪悪感を感じること自体にも罪悪感を感じる。罪悪感を感じることができるほど私は何もできてはいないだろうにと。歴史を学び物語を感じて平和な世界を作るために何かできないかと思う。

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