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自分の人生を大切にするために-あるNPOとの訣別

#ボランティア #NPO #PS2021 #雑文 #2020年の出来事

今年20年近く会員だったNPO団体から退会した。
今年も郵送された会費納入のお知らせを見て、「もうやめよう」と突然訣別する気持ちが湧いてきた。
「本年度をもって退会いたします。長い間お世話になりました。貴団体の益々のご発展をお祈りしています。」と、テンプレ通りのメールを送った。
長い付き合いの運営スタッフから「こちらこそ長い間お世話になりました。よろしければ退会の理由を教えてください。運営の参考にいたします。」と、これもテンプレ通りの返信が来た。

わたしは「ご意見をください」と言われても、返信はしない。
意見をフィードバックしたことで、わたしに何のメリットがあるというのだ。
わたしが出した意見がわたしにフィードバックされるなら意見する。
それがないなから何も反応しない。
NPO団体だけでなく、企業などにもフィードバックがなければ意見しないしアンケートにも答えない。
そんな考え方をするほどひねくれた性格になった自覚はある。
「社会貢献していれば無条件で人は協力する」と考える、NPOの狡さにも敏感になった自覚はある。
わたしの穏やかな生活のために、NPOと訣別しなければならなかった。
自分の自己肯定感や承認欲求を満足させるために行動することは、穏やかで静かなな生活を送るのに必要ないことだ。

ボランティアに興味を持ったのは就職したての尻の青い20代前半、職場に馴染めず仕事の失敗で怒られてばかりの頃だ。
仕事の休憩時間に上司の国際協力の経験談を聞き写真を見せてもらってから、自分もやってみたいと思うようになった。上司の話を聞きながら、「自分も誰かの役に立ちたい、困っている人を助ける仕事をしたい」と考えていた。
だが実は思い通りにならない現実と自分の無能さに嫌気がさしたのを、「自分の仕事を困っている人のために役立てたい」と自分の中ですり替えていた。
困っているのは誰でもない、仕事が覚えられず失敗ばかりしている自分だったのにも気づいていなかった。

20代後半から意識高く社会的弱者を支援するNPO会員になり、ボランティアを始めた。転職をして職場でそれなりに働けるの社会人になっていた。上昇志向が強かったので、良い評価をもらうだけでは納得できない。自分のやりたいことで世間から評価されたいと、日々仕事をしながら考えていた。その上昇志向は自己肯定感や承認欲求がほとんどを占めていた。
職場で評価されなくてもNPOでボランティアをすると、スタッフからも当事者からも感謝される。イベント企画を担当して運営を任される。NPOからは頼りにされ認められるのは、たまらない快感だった。
NPOはボランティアを「無給で利用できるマンパワー」と考えていることには、全く気づいてなかった。
自分が「自己肯定感と自己実現を強く求めるだけの凡人」であることにも気づいてなかった。
普段平和な恵まれた生活を送っていれば、多少は恵まれていることに後ろめたい気持ちを持つ時もある。でもそれは自分で処理する感情で、もともと後ろめたく感じる必要は全くない。
だがNPOは巧妙に「自分がこんなに恵まれていていいのだろうか」と、後ろめたく感じさせるように忍び込んでくる。

自己肯定感と自己実現で満たされていたが、少しずつ周りが見えてきた。薄給でNPOに雇われている当事者のドロップアウトに気付き始めた。「支援をするトップはいい給料で働いている。でもわたしは安い給料でいつまでも貧しい。」と、ある日彼女は本音を漏らした。
彼女は貧しさから抜け出さない辛さから、NPOのトップと喧嘩をして辞めてしまった。それから彼女は近所をうろつくだけで、仕事を見つけようとしなかった。
やる気や善意だけでなんとかなるほど世の中は甘くないことに、ようやく気づけた出来事だった。
その当時は彼女の行動に腹が立った。だらしない、やる気のない人間だと蔑んで見下した。しかし冷静になれるくらい時間が経って彼女の気持ちを察すると、投げやりになっても仕方がないと思えるようになった。
経歴や社会的地位で待遇が違うことは分かっていても、彼女は自分の給料の安さに納得ができない。努力や頑張りではどうしようもできないのが現実だ。自分の人生に投げやりになった彼女を責めることは誰もできない。

ボランティアはいつの間にか無報酬労働と同義語になった。ボランティア活動をする人の「自分の価値を高め自己肯定感を持つ」動機は、「人の役に立ちたい」「困っている人を助けたい」動機にすり替わっている。
NPO団体はやりがいがあれば無給でいいだろうと、簡単にマンパワーを搾取することができる。
「ボランティアだから」と言えば、なんとなく周囲は納得する。
思想に染まった人間がNPOに関わっていることにも気づき始めた。彼ら/彼女らは、社会的弱者を支援するために活動しているが、実は社会的弱者に寄り添うことで自分を守っている。「正しいことをしている自分を責める人間は悪」と考え、批判を受ければ迷うことなく弱者を盾にする。
だから思想に染まった人間は、社会的弱者が自立して支援が不必要になるのが一番困ることなのだ。自分の意見で議論ができず自分で自分を守る術を知らないから、丸腰で批判を受けるのが怖くて仕方がない。
自己肯定感と承認欲求が強すぎて一般社会に馴染めず思想に染まったの人間は、居場所がNPOしか他にない。付き合う人間も自分と同じ思想に染まった人間以外にいない。

そして「協力して当たり前」というNPOの雰囲気に、嫌気がさして情がつきはてた出来事があった。
ある講習会に参加して各ブースをのぞきながら、パネル展示をしている支援団体のブースに足を止めパネルを眺めていた。支援活動をしている場面、支援で健康になった子どもの笑顔、難民キャンプなどで過ごす悲惨な風景。
ブースのスタッフから「興味があればどうぞ」とお誘いがあり、話だけでも聞こう、とブースに腰掛けた。
「支援活動に興味がある。」と試しに答えると支援活動のパンフレットを使って、「あなたの善意のご協力」とセールスが始まった。
早速振込用紙を出してきましたが、「持ち帰って考えます。」と言った途端、今じゃないと困るなどと相手は焦り始めた。
予想通り寄付金を集めなければNPOの運営に関わるのが透けて見えたので、「サイトを見て考えます。」と席を立った。
その場で一番困っていたのは病気の子どもではなく、ブースで寄付金を集める役割のスタッフだった。

少しずつボランティアから気持ちが離れつつあった時、NPOの有給スタッフと取るに足らない雑談をしていた。「いつでもボランティアや支援をやめられるけど、当事者はやめられないからね。」とわたしが言った時、全員口を揃えて「いいなー!辞めても仕事あるんだねー!」と返された。
一度NPOの職員になれば、つぶしが効かないことに気づかされた。
狙う転職先は大手の支援団体だが、当然求人は少ないし倍率は高い。
彼ら/彼女らは、役に立ちたい・世の中を変えたいと強い信念を持って就職したが、現実は薄給で仕事量は多く休みは少なく、周りからは浴びるのは称賛だけだ。
あいにく世の中は称賛の言葉でご飯が食べられる仕組みになってない。
日本で国際協力が流行り始めてから、留学経験がある高学歴で語学が堪能でディベートができる人がNPOを就職先に選んでいる。しかしやりがいや世の中のために高い理想を掲げても、休みの少ない薄給ですり減るまで働くことには気づいてない人が多いと思う。人間らしい働き方ができなければ、他人を思いやることはできないのだ。

年末寒い中NPO団体が募金を呼びかけていた。
リーマンショックに続き、新型コロナウィルスで寄付が減っているのだろう。
その前を無言で通り過ぎた。
もう自己肯定のためにボランティアや寄付をする必要はない。
今のわたしに必要で大切なのは、自分の穏やかな日常の生活だ。


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