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リコリス・ピザ〜一緒に走れば仲良し映画〜

遂にきた。ポール・トーマス・アンダーソン(以下PTA)の新作である。

僕はPTAの映画って大好きで。正直、どの作品も甲乙つけ難いほど気に入っているものばかりなのだが、そんな彼に対してひとつだけ不満がある。それは「撮るペースが遅い!」ということだ。PTAに限らず、90年代デビューの監督って寡作なイメージがある。タランティーノとか。俺がこんなに好きなのに!4年に一度しか作品を出さないとは!もっとリドリー・スコットとかを見習ってガンガン映画を撮ってほしいものだと常々思っているわけだが、そんなPTAの5年ぶり?の新作である。これは事件です。誰か通報してください。

PTAの何が好きかって言われたら、それはもう「センスが良い」ってことにつきる。細部までこだわり抜かれたセンスの良いパーフェクト・ショットの連発。それがこれ見よがしな感じがせずに、自然と物語に溶け込んでいる「地肩の強さ」こそがPTAの何よりの魅力だ。90年代半ば、「ブギーナイツ」で彗星の如く現れた若き天才は20年以上のキャリアを積み重ね、最近ではまさしく「マスター」と呼ぶべき、リッチで堂々たる映画を撮る巨匠へと成長した。前作、「ファントム・スレッド」は作品のテーマそのままに、「一点もののオートクチュールのような」ゴージャスで堂々たる風格を湛えていた。

そんなPTAが再びロサンゼルスはサンフェルナンド・バレーに戻ってきた。サンフェルナンド・バレーとは、有名なハリウッド・サインのあるサンタモニカ丘陵リー山を少し越えた場所にある街であり、何を隠そうPTAの地元である。その中でも、撮影所が多く点在するスタジオ・シティ地区で育った彼は、12歳の頃には父(俳優・司会者であるアーネスト・アンダーソン)から買い与えられたビデオカメラで映画を撮り始めた。ハリウッドの業界人に近しい場所で育った彼が、サンフェルナンド・バレーで映画を作りを始めたのは自然な流れだったのだろう。デビュー作「ハードエイト」、大出世作「ブギーナイツ」「マグノリア」、アダム・サンドラーを迎えた奇妙なスクリューボール・コメディ「パンチドランク・ラブ」など、「地元を舞台にした地元の話」を撮り続けた彼は光の速さで映画界のトップへと昇り詰めた。夢のある話である。そんな彼も2008年の「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」以降は地元を離れたわけだが(「インヒアレント・ヴァイス」や「ザ・マスター」などはロサンゼルスが舞台ではあるが、サンフェルナンド・バレーの話ではない)、そんな彼の地元への帰還作である「リコリス・ピザ」は信じられないほどの多幸感に包まれた驚くべき映画であった。

舞台は1973年のサンフェルナンド・バレー。15歳の天才子役、ゲイリーは卒業写真の撮影時に写真スタジオのアシスタントの女性に恋をする。彼女の名前はアラナ。なんとゲイリーよりも10歳年上である。話の筋だけ取ってみれば、恐ろしくストレートなボーイ・ミーツ・ガールものだ。しかし、PTAがそんな普通の映画を撮るわけがない。ゲイリーとアラナの関係を描きつつ、PTAが画面に落とし込んだのは普遍的な「記憶のあり方」だ。

本作の主人公ゲイリーのモデルはハリウッドのプロデューサーである、ゲイリー・ゴーツマンという人物である。1952年生まれの彼は1968年の「合併結婚」という映画に子役として出演しているのだが、その後ウォーターベットやピンボールの販売を手がけており、まさしく作中のゲイリーそのまんまの経歴の持ち主だ。現在では、トム・ハンクスと共同で「Playtone」というプロダクションを経営している。PTA自身は1970年生まれなので、本作の舞台となった73年当時はまだ3歳である。この「地元を舞台にしているのだが、まだ物心つく前の時期の話」という絶妙な距離感が興味深い。

本作ははっきり言って、お話としては明らかに破綻している。「ゲイリーとアラナの恋」というトピックを中心に据えてはいるものの、起こることは自体は極めて断片的であり、「ちょっと面白い小話」の集積のような映画だ。この作りを持ってして「退屈な映画だ」という意見があるのも分かるのだが、この構造は明らかにPTAが狙って作ったものだろう。要は「記憶」や「思い出」のあり方を本作は映像化していると言っていい。過去の出来事を思い出すときのことを考えてみてほしい。過去の思い出の多くは点と点が線で繋がるようなものではないはずだ。我々の記憶は印象的なコマとコマだけがフラグメントとして飛び飛びに配置され、コマとコマの間はごっそり抜け落ちている。「過去」や「思い出」といったものの「とりとめのなさ」をそのまま「とりとめのない物語」として切り取り、再現することに本作は成功している。それ故に、本作は観客の多くが1973年のサンフェルナンド・バレーに住んでいたわけではないにも関わらず、普遍的な「懐かしさ」を感じさせる。それは前述したようなPTAのプライベート領域でのコンテキストを越えたところにある「適切な映画的文法」に基づいたものであり、紛れもなく「映画の内側」から湧き立つものだ。

ここで本作の撮影技法について言及したい。映画の印象と撮影技法には常に密接な繋がりがあるわけだが、本作はその繋がりに対して強く意識的な撮影技法を取り入れている。とにかく被写界深度が浅いのだ。「被写界深度が浅い」ということは、要は「ピントの合う領域が狭く、全体的にボケの大きい画である」ということであり、「望遠気味のレンズで被写体から距離を取って撮る」ことで被写界深度の浅い画になるわけだ。この被写体との距離感やサイズ、それによって生まれる画、それ自体が映画のテーマを雄弁に語っている。被写体のみにピントが合い、その他のディテールがボヤけた画。それって前述した「記憶のあり方」そのものじゃん?ということである。そして、この画が昔の話をどこか遠くから眺めているような絶妙な距離感を生んでいることも、確実にPTAの狙い通りだろう。

そして、ゲイリーとアラナの関係性も話の軸でありながら、どこかとりとめのない曖昧なものだ。まず、「アメリカン・グラフィティ」のオマージュと思しきトイレのシーンから映画は始まる。鏡を覗き、髪型を直しているゲイリーの背後で「爆竹だ!」という叫び声がする。爆竹が爆発する。そして、次の瞬間にはゲイリーはアラナに恋をする。まさしく「パンチドランク・ラブ」でも描かれた、「理由はないけど強烈なパンチを喰らったかのように恋に落ちる」瞬間が再び描かれる。曖昧だけれども、ゲイリーの恋心が爆発するのだ。そこから2人はこれまた曖昧でとりとめのない関係性の中を行ったり来たりする。ちょっと心が離れたと思ったら、ちょっと近づき、またちょっとだけ離れる。そんな2人の心の揺れ動きが「走る」ことで表現される。時に一目散にお互いを目がけて走り、時に並走し、時に迷走し、時に後戻りもする。よく分からないけど、ぐるぐると走る。ひたすら走るのだ。遠回りをしながらも、走りに走った2人の心がついに通い合うラスト。それまで距離を取っていたカメラが、2人の心の距離を表すようにグッと寄っていく。うーん.....感動した!としか言えない映画的な喜びがここにある。いや、ほんとに感動した。

1973年のハリウッドならではの小ネタも大量に仕込まれており、そのひとつひとつも非常に面白いものだがそこに言及してると超長くなるので、ここではしない。また、ショーン・ペンやトム・ウェイツ、ブラッドリー・クーパーら名優がやけに楽しげに悪ふざけをしているのも爆笑ものだ。何はともあれ匠の技がこれでもか!と繰り出される立派な映画であった。超オススメ。

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