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こちらあみ子

「こちらあみ子」を観た。

原作未読、前情報なし。白紙状態の脳みそで観たのだが、これが傑作であった。怖い。端的に言って非常に怖い映画である。

広島の港町に暮らす小学生のあみ子はかなり変わった子だ。作中では直接的に言及されないが、おそらく発達障害および何らかの障害と判断されるタイプの子である。彼女の空気の読めない言動の数々は周囲を閉口させ、不快にし、疲弊させていく。本作はそんなあみ子の日常を周囲の視点を排しつつ、完全にあみ子の視点に寄り添っているとも言い切れない、絶妙な距離感で淡々と描き出す。

端的に言って本作は「開かれた世界」と「閉じられた社会」についての映画だ。あみ子の目は世界に開かれている。彼女が見ている/認識している世界はいわば鉤括弧に入らない剥き出しで生の状態の世界だ。剥き出しの海、剥き出しの植物、剥き出しの空や光、剥き出しの生命に囲まれた世界をあみ子は生きている。しかし、剥き出しで生の世界は子供にはおろか、大人にさえ理解し難いほどの驚異と奇妙さを内包した複雑なバランスのうえに成り立っている。あみ子には複雑さに満たされたこの世界が理解出来ない。一方、我々はどうだろうか?「人間は社会的動物である」などと言われるように、我々の多くは「社会化された存在」だ。社会に仕組まれたコードを読み、掻い潜りながら生きている我々はそれ故に、剥き出しの世界の驚異に想いを馳せたり、疑問を持ったりすることが難しくなっている。「自分」と「世界」を鉤括弧に入れ、剥き出しの世界の驚異から目を背け、矮小化し、分かった気にならないと「社会」を成り立たせることは出来ないからだ。社会化されていない存在であるあみ子は、「社会」の中で「そうなっていること」を「そうなっていることとして」受け止められない。「社会」とあみ子の間には耐え難いほどの隔たりが生まれている。「社会」にとってあみ子は「異物」であり、「異物」の理解の及ばなさは「社会」を危険に晒す。故に、あみ子に対して「社会」は閉ざされていく。

「社会」とあみ子のギャップが最も顕著に表れるのが死という概念である。原理的に死を体験したり、理解することは不可能だ。死んでいる状態を知るには死ぬしかないわけだが、その時には既に死んでしまっているので分かりようがない……という禅問答のような状況に対して我々は死という単語を鉤括弧に入れて、「社会」のフィルターをかました状態で解釈し、分かったような気になっている。当然ながらあみ子はそのように割り切って死を捉えることが出来ない。どころか彼女は、人間の死とその他の動物の死との違いさえ分からない。あみ子一家の家の庭にあるプランターにはかつて飼っていたペットの墓が2つほど作ってある。あろうことかあみ子は、死産した弟の墓をこのペットの墓の真横に作ってしまう。このシーンを契機に物語は目も当てられない悲惨な状況へと突き進んでいく。

冒頭に書いたように、この映画が怖いのは我々が容易く口にする「人には人の世界の見え方がある」的な台詞の本質的な不可解さや奇妙さ、もっと言えばキモさを鋭く抉ってくるからだ。同じ対象を見ているはずなのに、目の前に広がっているランドスケープや、起こっている事象が違う....それって実はすごくヤバいことのように本作を観ると思わずにはいられない。これらの読後感が、撮影や画の構図によって喚起されている点も素晴らしい。我々が眺めている画角の外、もしくはあみ子が眺めている対象の外に意識が向くように周到な計算がなされており、何気ない日常の風景の「ちょっと外側」にある全く別の世界を嫌でも想像させられてしまう。

何はともあれ、ミニマルな作品でありながら、観客の世界の見方を揺さぶるパワーを持った作品だと思う。傑作。


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