現代アートは美味しくない

最近になって、現代アートというものがとても苦手だと分かった。
そもそも美術・芸術にさして興味があるわけではなかったんだけど、特に自分の苦手とする分野(時代?)が明確に分かった。

京都市京セラ美術館。開館記念として京都美術の歴史展というものが開かれていた。少し前、コロナがほんのちょっと落ち着いていた時期だったので、お出掛けしてきた。

展示は、一階と二階にかけて江戸〜現代の芸術作品がこれでもかと並べられていた。
最初の方は茶器のようなものや、大層艶やかな屏風などのいかにも、「京都の歴史」という感じであった。
小学生の頃から幾度となく京都を訪れてるけど、その度にこのような展示を観てる気がする。歴史が深い分、どこへ行ってもその地の過去を表す展示が出来るらしい。
が、あまり歴史が好きではない私からしたら、それらはあくまで「美しい絵」程度でしかないし、作品それぞれの解説を読んでも正直、あまりピンとこない。
おかしいな、日本史選択だったんだけど。

展示はいくつかに章分けされており、各章の間に少しばかり休憩を挟むようにスペースが設けられていて、その場所が映画に出てくる裁判所のようでワクワクした。
そもそもこの美術館は、前の京都市美術館の建物をそのまま引き継いで建物内に残してあるらしく、外壁の若干剥がれたような跡がその歴史を物語るようでとても素敵だった。
江戸から続く美術の歴史にはなんの興味も示さないくせに、昭和初期の建物にはあっさり心を奪われてて、もしかして私、安上がり…?

中盤では私が教科書で学んだ美術品で唯一覚えている作品と対面した。
けど、どこか違う。
「この“麗子”微笑んでなくない?」
教科書の麗子は確かに笑っていたのに、自分の目の前にいる彼女はむしろムスッとした顔をしてる…
あとで調べたら、展示されていた麗子と私のよく知る麗子は違う作品であった。
展示は【童女図】、教科書は【麗子微笑】
いずれも岸田劉生という人の作品で、そっち方面の学識が一切なくて全然知らなかったけど、調べたらめちゃくちゃ麗子を描いてて驚いた。
それと、童女図の彼女がかなり立体だったことはかなり印象に残っている。

中盤の章が終わると二階に上がった。
この階段がいかにも裁判所感があって好きだ。ステキな金縛りとか、HEROとかに出てきそうな裁判所。
二階にも大小様々な作品が並んでいたが、やはりどれも「美しい絵」であった。
だが、途中で急に雰囲気が変わることになる。

奇妙なものが目に入った。
でっかい靴下…?なにこれ?
何がなんだかよく分からないが、とにかく大きな靴下のオブジェがどーん!と置かれていた。そのすぐ横にはじっと客を見張る係員。
少し進むと、床と壁に水玉模様が貼り付けられていた(この表現が正しいのか分からないけど)。そのすぐ横にまた別の係員がいて、足元の水玉に気づかず踏みそうになった人に「すみません、こちら作品になりますので」と声をかけていた。
その他にも、同じ被写体をいくつも写した写真が並んでいたり、エレベーターガールが花と対比されるように描かれた作品があったり。
さらに進むとビー玉だけで作られたシカがいた。

うーん…と考える。
現代アートがなんとも苦手だと思った。
メッセージが強すぎる。
芸術にはそんなに確固たるメッセージが必須なのだろうか。
一階で感じた「美しい」という感情だけで生きてはいけないように思えた。

どうして?

私たちは常に人生とは何かを考えながら生きなければならないと言われているようだった。

苦しくない?それ。

美しい作品は、その解説に何が書かれていようと「美しい」で終わらせられてしまう。
本当は作者の思いに寄り添ってしっかり作品を理解するべきなのであろうが、ただそれよりも「美しい」が先行してしまうことは、果たして作品にとってマイナスなんだろうか。
そうでもない気がするんだけどなあ。

“分からない”人間の意見でしょうか。

でも、じゃあ、
作品に隠されたメッセージが先行してしまうのはどうだろう。
それもそれで違うんじゃない?

一階で見た作品はどれも、作品それ自体に意見はなく、情景や風習をそのまま切り取り、映し出していて、どちらかといえば記録として、あるいは後世に伝えるために描かれているようであった。
で、現代アートはというと…
なんか、なんかね、
作品は置いといて作者の思考を見てくれよと言わんばかりのメッセージ性。
静かなはずなのに、どこかうるさくてネチっこい作者を感じる。
あの水玉模様の作品、あれなんでロープ張らなかったんだろう。だってロープ張っちゃえば作品を踏むことはないわけで。
係員は常に客が作品を踏まないか気張っていたから詳しくは聞けなかったけど、
もしあれが作者の意志によるものだったら相当腹が立つなと思った。
「ロープなんかで枠組みを決められたくない!自由こそ正義!!!」とでも叫んでいそうな。
いやいや(笑)そんなに自由を叫んだって(笑)貴方の作品は(笑)常に係員に見張られてますよ(笑)ざんねんでしたね(笑)

ひねくれてるんでしょうかね、わたし。
けどなんだか最近はそういうのがトレンドらしくて、
半◯直樹なりノー◯イドゲームなり下町ロケ◯トなり、描かれ称賛されるのはいつも偉大なるお上への抗議と行動。
真面目に黙々働く社員は放ったらかしでやんよやんよと暴れ回る主人公。
池井戸潤さんが描く組織はあまりにも悪すぎるからそりゃスッキリするんだけど、主人公の抗議の姿勢のみタチ悪く真似して、「古き悪しき習慣」だの「我々で改革を」だの騒ぎ立てる立派(笑)な方々が巷に増えたような気がする。

悪いこととは思わないし、そういう人がいなきゃ社会ましてや世界はいつまでも変わらない。それは誰だって分かる。
だけど、なんかなあ…

芸術には色んな種類があっていいし、自分の意見を表現することだって出来る素晴らしいものなんだと思う。
だけど、最近評価される芸術、現代アートと呼ばれる類のものはあまりに自己表現が勝っていて、現物としての価値ってあるのかな?って思えてしまう。
“分かる”人が見れば「素晴らしい!」
“分からない”人からしたら「なにこれ?」
それでいいんですか?どなたか芸術を仕事としている人に是非聞いてみたい。

そんな感想を持ったまま数週間が経ち、先日一冊の本を読了しました。
ふかわりょうさんの
【世の中と足並みがそろわない】
《男の敵》とタイトルがついた章に書かれたバンドマンの男限ライブについて。
めちゃくちゃ共感して、笑ってしまいました。
見え見えの本音にむりやり建前を貼りつけて生きてる人、なんでそんな必死なんだろうってすごい思います。
「真剣な人を笑うな!」って言う人がいるけれど、よく分からないことに真剣になってる人には申し訳ないけれど笑ってしまいます。

話は戻って、読んでる途中でなんとなく、あの現代アートの感じ方と似てるなと思いました。
「認められたい」「アートで生きていきたい」
そう思うから、作品を作って何かしらどこかしらの偉い先生に持っていって、だからあの美術館に飾られてるはずです。なのに、
「分かる人に分かればいい」「100人のうち1人が振り向けばいい」「これが俺の/私のアートだ」
そんな自我が溢れた作品たち。
あまりにもカロリーが高くて、受け止めきれない。
芸術家には、100人中100人が振り向く作品を作ってほしい。世の中とはかけ離れた、美しく儚い作品を描いてほしい。でもそんな思いは遥か彼方に飛ばされ、今はもうトレンドじゃないみたいです。“分からない”人間が“分かる”人間だった時代はもうとっくに過ぎ去っていたようです。

ですが、
言わせてほしいことがあります。

ビー玉のシカ

彼こそ、
あの努力の結晶こそ、
世の中の不平不満への抗議の姿勢を無視し、
一心不乱にビー玉を繋ぎ合わせた彼こそが、
きっと真のアートなのだと、私は思うのです。

あの真っ直ぐでありながら照明を乱反射する瞳こそ、真のアートだと思うのです。


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