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2024/7/29(月)の宿題:本とビール

『今日の宿題』(Rethink Books編、NUMABOOKS)に毎日取り組んでみる9日目。

 カニエ・ナハさんからの出題(一部抜粋)

本も麦酒も、ひとときじぶんのなかに留まって、
あとは流れていくだけなのに、
私たちはなぜこんなにも、
読んだり飲んだりすることをやめられないのか?

※出題全文は素敵な言葉で書かれているので『今日の宿題』で読んでほしいです。

 ビールが好きだ。そう気づいたのは成人して初めて迎えた夏だった。夏祭りのあまりにも暑い夕方に、屋台で買ったきんきんの生ビールがおいしかった。
 それがアサヒの生だったから、しばらくはアサヒばかり飲んでいた。ビールという飲み物はとにかく辛口でのど越しが重要なのだと信じていた。しかし、だんだんサントリー・プレミアムモルツの濃厚さに魅かれ始める。ここで、ビールの味自体のおいしさに気づき、海外のビールやクラフトビールも好きになる。その後しばらくして、プレミアムモルツよりはややさっぱりした麒麟・一番搾りへと嗜好は移る。麒麟・一番搾りはクリーミーさとさっぱり感のバランスが好きで、今も缶ビールの中では手に取る率が一番高い。ちなみに麒麟・晴れ風は一番搾りよりもさっぱりとして今の季節に良い。
 ビールだけ飲んでいれば、腹が膨れるだけで酔わない。そして気持ちいいままでアルコールが抜けていく。

 本もまた好きだ。だけど読書が趣味と胸を張って言えるほど読んでいるわけではない。大学生まで文体への偏食っぷりがすごく、特に大学時代後半は小川洋子と村上春樹しか読めなかった。逆に言うとその期間で小川洋子と村上春樹はほとんど読んだと言ってもいい。社会人になってから少しずつ他の作家も読むようになり、読書の楽しみの幅がかなり広がってきた。
 ただし、読んだものをすっかり忘れてしまうタイプでもある。あれだけどっぷり浸かっていた小川洋子と村上春樹も、内容の記憶が怪しくなっているものは何冊もある。

 ビールも本も、確かにひとときじぶんのなかに留まって、やがて流れてしまっている。だけど変わらずビールは好きだし、読書も好きだ。

 じゃあビールも本も無駄なのか? 無駄だとは思いたくない。
 私は無駄という言葉が大嫌いだ。無駄が嫌いなのではなくて、無駄扱いすることが嫌い。一見無駄に見えても、その回り道はそのとき必要だったり、回り道のおかげで思わぬ学びがあったりする。全ての経験はひとときじぶんのなかに留まり、澱を残して流れていく。その澱が私を形成するのだ、と信じている。
 だから飲んだビールが私の体から流れてしまっても、ビールを飲んだ時のおいしさや高揚感はなかったことにならない。読んだ本の内容を忘れてしまったとしても、じぶんにとって大事なセリフの一言、シーン、文章の雰囲気は心のどこかに留まっている。そしてそれらの記憶は私の心を温めたり、エネルギーになったりする。だから私はビールを飲むし、本を読む。好きで、それが自分にとって無駄なんかではないと思うから。

 みなさんがビールと読書を好きだとしたら、どうしてやめられないのだと思いますか?



(最近の日記)
1.渋谷ユーロスペースで、映画『めくらやなぎと眠る女』を観た。職場や住んでいる部屋、バス、病院などの描写がどことなく日本っぽくない。村上春樹の作品は読んでいて時代や地域がわからない場合があり、そういう雰囲気とマッチしていて不思議で良かった。精神的に調子が悪いので約2時間じっと座っていることがわりときつかったのが悲しかった。それにしても毎日殺人的な暑さで、外出どころではない。

2.家賃の振り込みを忘れたり、電車を乗り過ごしたり、財布を忘れて夕飯の買い物ができなかったりする。それっぽっちのことだが、重なると、自分なんか簡単なこともできないポンコツだと落ち込んでしまう。しかし母から旬のぶどうが届いたので一瞬で機嫌が直った。簡単なやつだ。

3.引っ越しの荷造りをしているが、うんざりするほど本が多い。しかしどれも手放したくないので困る。村上春樹の作品に出てくる男くらい荷物が少なくありたいし、小川洋子の作品のように丁寧に暮らしたいが、本を読む限り無理なのかもしれない。


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