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「自分の代わりはいくらでもいる」と思っていた私の話

自分の代わりはいくらでもいる、そう思っていた。

もちろん最初からそんなに卑屈だったわけではない。
高校生ぐらいまでは、何事にも使命感を持って真面目に取り組む女の子だった。

文化祭では、一生懸命に委員会の仕事を引き受けて全力で取り組んでいたし、シフト調整もカップル同士が同じ時間帯に休めるように考え、個人の希望に応えるために努力した。

でもある日一人の女子からシフトについて不平不満が出て、あれだけ一生懸命に考えていたのに、と大変傷ついた出来事があった。

些細な出来事ではあるが、その日を境に緊張の糸が切れてしまい、私がやらなくても他の誰かがやってくれるだろうと思うようになった。

私は自分の心を守るために、一生懸命取り組んだ結果、傷つくようなことがないように、「自分の代わりはいくらでもいるし、私がやらなくても誰かがやってくれる」という考え方になってしまったのだ。

社会人になった今でも、この考えは基本的には変わらない。

でも最近少し、代わりはいるけど自分と同じように物事に取り組む人間はいないのかもしれないと思い始めた。

人は遺伝子と経験から成り立っている。

同じ考えを持つ人は誰一人として存在しない。

私が恋愛でモラハラ男に傷つけられたり、営業の仕事でパワハラに苦しんだりした経験は、他の誰にも代わることができないかもしれない。

であれば私にしかできないこともあるのかもしれない。

最近は、そんな思いで仕事に取り組んでいる。

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