『精神分析と横断性』〈看護人─医師の関係をめぐって〉フェリックス・ガタリ
ひたすら「横断性」という概念についての関心から手に入れた本書は、フランスの精神分析学者にして政治闘争にコミットした著者による1955年から70年までの論文集である。それらは精神医学・精神分析に関するものと一九六八年五月革命前後の政治闘争に関わるもののいずれかに分類できるが、各々の文脈として読み進めると、精神病院の改革に同時代の政治的固有名が絡みつき、生々しい政治闘争のパロールに精神分析の手法が突如として介入する。いずれかに関心を持たない者が読めば、いずれにも挫折しそうになる。ここではそれをかろうじて避けうる「抵抗」の力を「私の横断性」と呼びたい。とりあえず、以下、注目すべき論文のいくつかを概観するという非横断的な行いを試し、逆説的に「横断性」を体得することを目論む。強引過ぎるか。
2 看護人─医師の関係をめぐって
ラボルド精神病院にて様々な改革を実践した精神科医ジャン・ウリとの討論。閉じられた精神病院内の医師─看護人─病者の三者の関係性を社会全体としての展望のなかで位置づける。
精神病院という複合体のなかでそれぞれが疎外されている有り様を識別すべき。病気というものがそれ自体人間を疎外する。病人は社会から疎外される。看護人は医師からも病者からも疎外される。医師にしても管理運営との関係では疎外されるといえる(フェリックス)。
主体と客体の合理的な管理的諸関係を、人と人との実在的な諸関係に置き換える跳躍が必要。マルクス主義の疎外概念は人類史的なニュアンスを持つものであり、単なる客体の疎外ではないはず。人と人との関係という基礎的概念こそ重要。医師─看護人の関係というのは、医師という枠づけと看護人という枠づけとの関係にとどまるものではない。役割の関係と人間の関係は違う。狂人とか医師といった役割を演じることが、人間の関係を隠してしまっている(ウリ)。
そのようなステレオタイプや役割をなくした人間的諸関係の促進をはかるべき。その先に、狂気や神経症におけるもっとも根源的で根本的な疎外というものの姿を現出させることになる。あらゆる技術的な専門特化、共同作業場や社会的セラピーの提案を行うこと。それによってはじめて、してはならないことが見えてきて、効率性や再適応の危険性、病気を単に治療するために機能することの問題性が明らかになる。人は根底のところで言語を構成し、また言語によって構成される。そこによってこそ、主体の根底的な異常性が真にその姿をあらわす(フェリックス)。
ある医師がいてある看護人がいて、という関係ではない。ただ狂人といっしょにいる人々がいるということ(ウリ)。
狂人と根本的な関係を持っているのは看護人だが、看護人は疎外されていて、狂人へのアプローチや理解という情感的な仕事に不向き。問題はむしろ病人との接触において医師が看護人のレベルに達するように医師の方を変えるべき。
われわれが確立しようとしている仕事は、精神医学的観点からみて左翼グループやコミュニストのグループの内部で欠落していることにほかならない(フェリックス)。
看護人と医師の諸関係あるいは治療グループと狂人の諸関係を研究するには、「グループ」と社会の関係を研究しなくてはならない。
われわれは狂人をひきうけ、狂人以上に狂人でなければならない。こうした概念はいくつかの政治グループから絶対的に否定されるが(ウリ)。
二人の討論が終わる。前半では、精神病院内における医師─看護人─病者の三者の関係性をマルクス主義の疎外概念を更新しつつ当てはめることで、そこで隠される「人間の関係」の重要性を説く。それは、その先に「主体の根底的な異常性が真にその姿をあらわす」からこそ重要である。
後半ではガタリが精神病院内の疎外関係を当時の政治グループ批判に展開する。この部分はそれらの知識がないと理解に苦しく、概観から省きたくなるが、それではガタリの「横断性」を見失うことになるだろう。
さらにここで二人は「グループ」という言葉を頻出させる。この言葉は、Groupe-sujet(主体-集団)というガタリが用いる用語からくる。「主体-集団は、外的規定力との関係ならびにみずからの内的法則との関係を同時に管理することを使命とする。それに対して、隷属集団はすべての外的規定力によってあやつられると同時に、みずからの内的法則によっても支配される傾向性をもつ(たとえば超自我)」(フェリックス・ガタリ『三つのエコロジー』より、訳者杉村昌昭の用語解説からの引用)。この集団は主体-集団であの集団は隷属集団というように一義的に分けるのではなく、そのグループ(集団)は主体-集団にもなれば隷属集団にもなる。横断的な読み方をすれば、精神病院内の疎外された関係性は隷属集団のそれであり、役割を演じることをやめ、人と人との関係を促進することで、真の狂気をリリースさせることが主体-集団である、と。
ここで私もガタリに倣って?二人の討論を自分の事情に「横断」させてみる。すなわち、精神・知的障がい者のグループホームという場へ。利用者は日中活動として就労支援事業所などに通い、人によっては定期的に精神科病院へ通院し、それ以外はグループホームで過ごす。グループホームは他の支援職や病院に比べて、支援がゆるいともいえる。なにしろ、そこは利用者にとって「ホーム」なのだから。と同時に、職員は利用者に対して「支援」を行う。この、いわばあいまいな支援の場において、職員と利用者とのあいだには、ガッツリとした(就労)支援とも、専門的・特権的な精神科医との個室での診断とも異なる、独特な関係性と空間が生まれる。
前者との関係性に疎外があるのは容易に想像できる。では、グループホームにおいてはどうか。疎外はやはりあるだろう。独特な関係性というのは、「ホーム」、つまり、擬似家族的な親密性である。そこには、父-子の垂直性もゆるやかな「支援」としての水平性も含まれる。支援職に携わる者は、まずは疎外の発生に敏感でなければならぬだろう。さらに、その外部と内部に人と人の関係に基づく「グループ」をつくること。それが来るべき「グループホーム」に生成するはず?
『精神分析と横断性』
〈看護人─医師の関係をめぐって〉
著者:フェリックス・ガタリ
翻訳:杉村昌昭/毬藻允
発行:法政大学出版局
発行年月:1994年6月10日
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