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『あゝ、荒野』寺山修司

 1960年代の新宿を舞台に、二人のボクサーを主人公に、その周囲のひとびとの心象風景を時に交差させ、時に交わることなく三人称で描く。ラングストン・ヒューズその他の詩、坂本九その他当時の流行歌、競馬新聞の出馬表などがカットバックされ、同時代の「孤独」が輻輳されながらドラマは進行する。あとがきで寺山はモダン・ジャズの手法を取り入れたと「告白」している。


 余計な夾雑物を関心の外におき、ひたすら自らの身体を強靭化させ、勝つことだけを求め頂点に立つことをゴール設定する新宿新次。吃音と赤面対人恐怖症を克服するためにボクシングを始める〈バリカン〉健二。二人が歌舞伎町のさびれたボクシングジムで邂逅するところから物語は始まる。


 展開部は〈バリカン〉の心の変化によって起動する。自分がボクシングを続ける目的、生きる衝動が、大好きな新次を倒すこと以外にないという苦い認識。〈バリカン〉は他のボクシングジムに移り、新次を「憎む」ことのトレーニングを行うが、試合直前までそれはままならない。


 後半、〈バリカン〉が行きつけの酒場でビールを注文する場面がある。「来るたびに幅五十センチ足らずのカウンターが、彼にとっては果てしなく広い荒野のように見える」(290ページ)。明らかに寺山は自身の心象風景を〈バリカン〉に託している。「荒野」とは詩人らしく魅力的な言葉のセンスである。「荒野」は〈バリカン〉のみならず、登場人物すべての抱えざるえない心象、いや、むしろ「荒野」こそが小説の主体であるといえる。


 小説は〈バリカン〉がボクシングで勝てないのは相手を憎むことができないからだと語られた後、「新宿日活の隣の池田書店で、雨の日に立ち読みしたアメリカ人の小説の一節」を引用する。その小説はカースン・マッカラーズの「心は孤独な狩人」である(223ページ)。なるほど!と私は思わず手を打った。「孤独な狩人」=「荒野」を心に抱えるボクサーたちということか。マッカラーズの同小説を何十年ぶりに読み返そうと、その美しいペーパーバックを探してみるが、なぜか見つからない。


 菅田将暉とヤン・イクチュン主演の映画(2017年)を最近見る機会があり、その強烈な映画体験から改めて自分はバディ物が好きであることに気づかされた。原作を読んだことで、マッカラーズまでたどり着いた。というか、環ってきた。

『あゝ、荒野』
著者:寺山修司
発行:角川文庫
発行年月:2009年2月25日


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