数学・物理は読解力が大事

 数学・物理学(に限らず, 学び全般)には読解力が必要です。

 ひとつは, 数学・物理学は話を抽象的に進めるからです。「抽象的」なのは良くないと思いがちですが, そうではありません。「抽象的」はとても大切で有用なことす。
 たとえばこどもは絵本で「これは自動車です。これも自動車です。これも自動車です」のように具体例に触れて, 慣れや感覚で概念を把握していきます。これは「帰納的」な学び方です。他方で, 自動車はそもそもどのようなもの(機能や構造)かを抜き出して「自動車の定義」として整理し, それを理解するのが「演繹的」な学び方です。帰納的な学びは想像しやすくわかりやすいのですが, たくさんの例を経験せねばならないので, 手間暇がかかりますし, 経験したことのない状況には非力です。演繹的な学びは多くの物事を短い言葉で一網打尽に整理し理解しますので短時間で多くを学ぶことができ, 未知の状況にも(多少は)応用が効きます。しかしその話の多くは抽象的でわかりづらいのです。
 帰納的(具体的)な学びと抽象的(演繹的)な学びは両方大事なのです。しかし前者はこどもでもできますが, 後者は大人の知性が必要です。想像しにくくて難しい話についていける忍耐力や論理的思考力, 精神的成熟が必要なのです。
 だから小学校の最初は多くが帰納的・具体的な学びであり, 年齢・学年が進むにつれ, 徐々に抽象的な学びが増えていきます。その切り替えに適応できないとき, 「突然勉強がわからなくなった」となるのではないでしょうか。
 それでも高校までの学びはまだ対象が狭く, イメージしやすいので,「ひたすら問題を何回も解きまくる」 という「具体的な学び」だけで乗り切ることもできます。ただ, 頻出問題は解けるようになるのですが, 毛色の違う問題には歯が立ちませんし, わからなくなったときにどこに戻って考えればよいかわかりません。そしてこの勉強法は多くの具体例にぶつかって「どうやらこういう話があるらしい」と体得していくのですから, 時間と労力を大量に消耗します。「1を聞いて10を知る」という諺がありますが, これは「10を聞いて(解いて)1を知る」ようなものです。
 そこで大事なのが演繹的な学びとの組み合わせです。原理原則や仕組みに関する抽象的な話から逃げずにそれを理解しようと努めるのです。それと並行して具体例(問題)にあたって, その理解を検証し, その体験を演繹的な学びに戻して理解を強化するのです。
 この過程で大切なのは「教科書を丁寧に読み, 咀嚼して理解する」ということです。教科書には原理原則や仕組みを言葉や式で一網打尽に説明するように構成されています。だから問題を解きまくる前に, 教科書をしっかり読むべきなのです。ここで読解力が必要なのですが, それができる中高生は多くはありません。まだ読解力が不十分で, 抽象的・演繹的な思考が上手にできないから仕方ないのです。まだ若くて頭が柔らかいので, 大量の具体的事例や解き方の丸暗記で乗り切ることも不可能ではありませんし。

 しかしさすがに大学ではそうはいきません。扱う話題が広く深くなりますので, 具体例の集積では間に合いません。さらに, 見たことや体験したことのない話が増えます。実際, 宇宙空間や地底や深海底や極微の世界で起きる自然現象は, 直接見たり体験することはできません。昔のできごとや, 行ったことのない国や社会でのできごともそうでしょう。そのようなものごとを理解しようとしたら, 結局は言葉に頼ることになるのです。抽象的で高密度な言葉に込められた情報を受け取り, それを元に個々の事例を一網打尽に処理することが求められるのです。その際, その言葉を素直に正しく解釈して受け取ることができるかが鍵になります。つまり読解力が必要なのです。

 読解力が弱い人は, 飛ばし読みをしやすく, そのくせ変に行間を読もうとします。話をはしょって「結論」や「やり方」だけを知ろうとするのですが, それだと理解に隙間ができますので, そこを自分の知っている文脈(聞いたことのある話)とのパターンマッチングで無理やり埋めようとするのです。そうなると, 自分の知っている文脈にあてはまらないものを理解したり受け入れることができず, 「新しいもの」を受け入れられないのです。学びが自己変革に結びつかず, 得た情報が表層的・刹那的に流れて消えてしまうので, 同じレベルに留まり続けるのです。その場ではできる・解けるようにはなるかもしれないけど、わかるようにならないし、定着もしないのです。そもそも「わかる」という感覚がわからないので, わかろうとしないのです。

 そうなりがちで危ういのは「勘の良い人」です。少し読むとピンときて文脈が見えてしまうのです。だから細かく読まず, 要所要所をつまみ食いして, 隙間を勘で埋めます。だから自分の勘の働く範囲を超越する話には途端に無力になり, 途方に暮れるのです。そして, そのような話は数学や物理学にはたくさんあるのです。

 読解力の不足は学びを律速します。正しく読み取れない → 誤解・読み落としが多い → わからない・できない → 面白くない → モチベーションが落ちる → めんどくさい → 丁寧に読まない → (最初に戻る)、というループが起きるのです。正しく読めないと, 自分の書く文章も批判的に読んだり整理したりできないので, 正しく書くこともできません。レポートも書けないし, 卒業論文もうまくいかないのです。

 読解力の足りない学生に, よりわかりやすく, 誤解しないような教え方・伝え方を教員が工夫すると, むしろ事態が悪化する可能性があります。まず, 何回も繰り返したり, 何パターンにも言い換えた, くどいメッセージが必要になります。テキストや授業が過度に冗長になるのです。すると学びの密度が下がり, スピードが落ち, 知的訓練の機会の質と量が落ちます。それによって, 読解力のある学生の成長機会が失われます。一方で, 読解力の無い学生は, 冗長化されて膨れ上がった大量のメッセージを受け切ることができず, 消化不良に陥ります。

 また, 読解力を低下させる危険すらあります。たとえば, 「整数n, mの片方は偶数である」というと, もう片方は奇数じゃなきゃダメ, と思う学生がいます。つまり「両方偶数」の場合はこれにあてはまらないと考えてしまうのです。なぜかというと, 両方偶数でもOKな場合も含めた表現は、彼らには「整数n, mの少なくとも片方は偶数である」のように「少なくとも」が入るのが普通だからです。しかしこの「少なくとも」は誤解を避けるためにあえて追加された蛇足なのです。ところが彼らはそれをむしろあって然るべき表現だと思い込んでいるのです。その結果, 「〜〜の片方は」という文や論理の誤解が強化されてしまうのです。「AはBである」と言ったら, 自動的に「AでなければBでない」と誤解してしまう学生もいます。そういう学生のためにあえて「しかしAでなければBでないというわけではありません」などの蛇足をつけると, 学生の誤解しやすい考え方をかえって強化してしまうのです。

 高い読解力を持つのは良いことです。でも, 自分が書くときには相手に高い読解力を期待してはダメです。読むときは注意深い読者として読み, 書くときは雑な読者にも伝わるように読みやすくわかりやすく書きましょう。

 読解力を伸ばすために私が使うテキスト:「わかったつもり」https://www.kobunsha.com/shelf/book/isbn/9784334033224
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?