見出し画像

大人になるとは|エッセイ

 弟の日記にはこんな事が記されていた。

 この世の中には、見かけだけでなく、中身も大人になれる人がいる。

 目には見えないけれど彼らは心にも髭が生えているらしい。とはいえ、社会との兼ね合いで見かけばかりは体裁を保っているようにしていても、つるっとした心を持った、子どものままの人だっている。僕はきっと後者の方だと思う。変わったことなんて何一つない。子どもの頃と同じだ。これからも変わらないと思う。変わらず、地球という惑星の中で喜劇を演じ続ける。台本はもちろんない。全て即興だ。たくさんの娯楽を享受することさえしていれば、あとは何だっていい。

 それはただのわがままだという人もいるかもしれないけれど、そうでもしていないと退屈で死んでしまいそうになるのだから仕方がない。肉体的な意味合いではなく、精神的な意味合いで。子どもは飽きっぽい。飽きることは死ぬことに等しい。次から次へと矢継ぎ早に遊びを変えるか、永遠の遊びを見つけない限り、充実感など味わえず、精神の泉が枯れてしまう。

 どこかの国の哲学者が「死ぬことより、生きながらも死んでいることが一番不幸だ」と言っていたのをいつか本で読んだことがある。生きながら死ぬ。それは不自由になることではなく、諦めることだと思う。今は高い所にしか飛んでいない真っ白なモンシロチョウが、手の届くところに再び戻ってくるかもしれないのに、勝手な判断を下し、追いかけることを早々とやめてしまうのと同じように・・・

 そこで日記を読むのをやめた。というよりは読んでいられなくなった。弟と違って自分は身も心も大人になろうと考えたからだ。周囲の人間からは「大人になったね」と言われるようになったけれど、それほど自覚はない。大人として扱われるのは遙か遠い未来のことだと思っていた。

 何となくぼやっと生きているうちに大人になってしまったような気がする。そう、あっけなく。自分が生きてきた時代が平和だったからかもしれない。

 大人になった自分は、いや自分だけでなく同じ時代を生きてきた周囲の人々は蓑虫のように窮屈に暮らすのに慣れてしまっているし、それでいて、いつかは孵化して美しい蝶になることを夢見ている気がする。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?