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「首席」が成功できないという皮肉な現実

知的能力の高さ(頭の良さ)が社会での成功と相関が低いことは多くの人が気づいていると思います。この相関関係について実際に調査したのはボストン・カレッジのカレン・アーノルドという研究者です。

カレン・アーノルドは1980年代、90年代にアメリカのイリノイ州の高校を首席で卒業した生徒81名に対して追跡調査を行いました。

この首席たちの90%が専門的なキャリアの経験を積み、40%が弁護士、医師、エンジニアなど社会的ステータスの高いと言われるような職に就いていました。ここまで予想通りです。

しかし、この首席たちの中から社会を変革したり、世界中の人たちに影響を与えるような人物は生まれませんでした。たまたまだろ!と思われるかもしれませんがそうでもないようです。ハーバード大学のショーン・エイカーが行った別の研究でも、大学での成績とその後の成功は関係がないということが示されました。

カレン・アーノルドの調査によると、学校で優秀な成績をおさめる「能力」そのものが、社会で成功する資質と相反するのだそうです。

その理由を2つあげています。

1つ目。学校というのは(特に日本がそうですね。)言われたことを「きちんと」行うことが求められるからです。学校では規則に従い、すでに存在するシステムに順応する生徒が良い成績をもらえるということです。また、与えられた問題に対して正解を出すことが求められます。しかし、社会に出たら明快な答えなどありません。答えのない問いを徹底的に考え抜き、自分自身で「正解」を選択肢するしかない場面が多分にあります。与えられた問題に対して正解を出すことしかできない人間は社会的なインパクトを与えることは難しいでしょう。

2つ目。学校で良い成績を取るためにはあらゆる教科に優れている必要があるからです。学校で成績優秀と言われる生徒はあらゆる教科をそつなくこなすパターンが多くあります。一つの分野だけ突き抜ける生徒は成績優秀とは捉えられません。あくまで「ある特定の教科はできる」という評価です。ましてや首席となると教科全般で良い点数を取る必要があります。言うまでもなく、社会でひとかどの人物になるような人は特定の分野に並々ならぬ情熱を注ぐものです。

以上がカレン・アーノルドによる解釈です。

かといって私は首席を取ることが良くないと言いたいわけではありません。学校で優秀な成績を取ることは素晴らしいことであるし、与えらえた環境で結果を残せるというのは立派な才能だと思います。

私が問題だと感じるのは、学校で「お利口」にしている生徒が評価され、はみ出し者たちの才能が摘まれてしまうという現実です。

特にギフテッドと呼ばれる子たちは先生たちより賢いことが往々にしてあります。だから先生にとっては「生意気」に写ってしまう。せっかくの才能も適切な教育がなされず伸ばすことができません。

イギリスの哲学者であるジョン・スチュワート・ミルはかつて「変わり者になることを厭わない者があまりにも少ないこと、それこそがわれらの時代の根本的な危機なのだ。」

この言葉はとりわけ今の日本の教育に当てはまる現象です。知能が高すぎるギフテッドの子供たち、能力に「峰」と「谷」を併せ持つ2E (twice-exceptional):二重に例外な」子供たちは学校に適応することが困難です。しかし、社会にインパクトを与えるような人物は割とこのような子たちが持つ素養を併せ持っているように思うのです。

「トイストーリー」を代表とするヒット作を生んだピクサーは勢いを失った際に「はみ出し者や変人を求める」と表明し、社内の改革に取り組んだと言います。その取り組みにより、「Mr.インクレディブル」という作品が生まれました。同作品はアカデミー長編アニメ賞を受賞します。

社会不安が蔓延する時や危機に瀕した際には「はみ出し者」の力が必要なのかもしれません。


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