<連載小説>片おもい -10
(エピソード-10) 選択 -1
そして、受験、卒業と、その日を迎えるまでの時間はめまぐるしく流れて、
受験まで二日、卒業まで五日と迫っていた夕刻のことでした。
そのときわたしは、はじめたばかりの日記を綴っていたのですが、
むしょうに、杉に会いたくなったのです。
中学に入学してから今まで、
ふりかえると、さまざまなできごとが頭のなかを駆けめぐり、こんなに愉しかった時代は、もう二度と来ないだろう……と思えた。
なにもわからず、ただ、はじめて見て、感じて、考え、苦しみ、泣いて、笑って、めまぐるしく感情がゆれうごいた時々。
はじめて……、
じぶんを一個の人間としてふりかえり、
なんと小さな存在であるのか。と、
じぶんの力のなさに嘆いた。
今まで、じぶんを中心に地球がまわっていると本気で思っていたのに、
その考えを、
根底からくつがえす存在に出会った。
――それが杉だった。
彼女は、今の自分に価値があるかないかなど考えてはいない。
そんなこと、考える意味すら持ち合わせていなかっただろう。
ただその日その日を必死になって生きている。
彼女はもう立派に社会に巣立っていたのだ。
いや、社会に出て味わうであろう何倍もの苦労を背負って生きている。
なのに……、
その苦労の片鱗すら見せない彼女のすがたが、まぶしいほどに美しかった。
彼女といると勇気をもらえた。
自分もきっとなにかできるにちがいないと思えた。
そして、自分がどれほどめぐまれた環境にいて、甘やかされて育っているのかを思いしらされた。
――彼女は、実は、強い人間であったのだ。
そしてその彼女から、わたしは、実に多くのことを学んでいたのだ。
……そのきもちが伝えたくて、彼女の家まで行った。
しかし、玄関の戸を叩くことができず、電信柱の影にひそんだまま、
このきもちは、自分のなかに大事に仕舞っておこう。
そう決めて、
『好いとっぞ』と、柱に刻んで帰ってきた。
そして、いよいよ試験当日――、
出掛けに母が、玄関先でこう言った。
「あきひと。試験場に入る前に、かならず
『よろしくおねがいします』と一礼するのよ。
そして試験がはじまったら、
『お父さん、お母さん、よろしくおねがいします』って、そう言ってはじめたら、頭のなかがスッキリなって、勉強したことがスーッと出てくるからやってごらんなさい。」
そう言って、握手をしようと言うのです。
わたしは、なにごとかと思いました。
きっと、なにかのお呪いにちがいないと思いました。
わたしは、そういった類いのことが大キライだったので、合格祈願のお札も持ってはいませんでした。
おそらく母も、そういうことを信じてはいないだろうと思っていたのに……、
「なんねお母さん。おまじないやったら、したっちゃいっしょやろうもん。」
「ちがう、ちがう、おまじないなんかじゃないのよ。
これをやったら、ほんとうに無駄な緊張がとれるから、ほらー、」
「よか、なんか可笑しかたい。親子であくしゅばするって、」
「なんの、おかしかことがあるもんね。いま流行のスキンシップたい!」
そう言って握手をしたものの、恥ずかしくなり、足早に玄関を後にした。
母の手のかんしょくが、右手の掌になまなましく残っていた。
カサカサして太い、女性とは思えないような掌――、
わたしは、母の言ったことを、実行してみることにした。
工業高校の玄関に到着すると、すでに引率の先生が校門の奥に控えておられた。
引率の先生は、三年間陸上部でおせわになった顧問の先生だった。
わたしは、校門をすぎたところで一礼した。
何人もの人間の視線をかんじて恥ずかしかったのだが、それいじょうに、ひじょうに清清しいきもちになれたことを思いおこす。
このあいさつの一礼は、小学生のときのソフトボール、そして陸上部の先輩へのあいさつをとおして慣れてはいたのだが、正直、真剣におこなった挨拶など、一度もなかったに違いない。
心のこもった礼の一つで、こんなにも気持ちが変わるのか……と、後に驚くことになった。
「荻山先生、おはようございます。今日はよろしくおねがいします。」
これは、いつもの陸上部での挨拶だったのだが、そのときは、なにかとくべつなことばに聞こえた。
「津村は、なかなか礼儀正かねぇー、」
「いいえ、出がけにお袋が、入る前に一礼したら落ちつくから。と言ったもんで……、」
「ほー、りっぱなおふくろさんやなかか。」
先生には母の意図していることが感じられたのであろう、
ひじょうに感心しておられた。
しかし、母の言ったように、
なにやら落ちついた感じにもなって、
おかげで、勉強をしていなかったにもかかわらず、授業中に聞いていた問題が多く出題されていて、わりとスムーズに解答できたように思えた。
……がそれでも、英語はサイテーだった。
これで落ちたと思った。
『日本人やもん、できんであたりまえやっか!』
と、高をくくっていたわたしの頭の中に、英単語の入る余地など、まったくと言っていいほどなかったのだった。
「たぶん、落ちたばい。」
佐竹にそうつぶやいていた。
佐竹も、いっしょに工業高校を受けにきていた。
シンちゃんは、進学校を受けた。
すすむ進路も、学校の方角もまるで違った。
わたしは、このことを、自分のいちばんたいせつにしているものを、
『受験』によって奪われてしまうのだ……と、痛切に感じた。
次の日、
クラスの中は、試験の出来具合をたしかめあう声でうるさかった。
皆、今までの緊張が一気にゆるみ、活き活きとした顔で笑い合っている。
しかしはなす内容は、どれもつまらなく響いた。
わたしとシンちゃんと佐竹は、中学最後の想い出づくりのための山登りの計画を相談していた。
場所は烏帽子岳。
杉やエミちゃんや笹本さんやその友人たちも誘おうかとはなしは盛りあがっていた。
彼女たちはと見てみると、やはり何人かのグループをつくってたのしそうにはなしていて、誘ったときの、
「わー、行こう行こう!」
という返事が聴こえてきそうだった。
「ねェー、春休みさ、みんなでハイキングにいかんや?」
「中学最後のおもいでづくりに、みんなで行こうよ!」
「笹本もいかんや、」
わたしとシンちゃんと佐竹と順に言った。
「ウワー、行きたか!」
と、さいしょに口にしたのが、以外や、あの清楚でおとなしいエミちゃんだった。
彼女は、つやつやした黒髪を左の指にはさんでもちあげながら、実にひかえめな笑みをうかべていた。
そのよこ顔に、
『あー、ぜったいに良か嫁さんになるばい。』と、思わず声にしそうになった。
「ンー、いこういこう!」
と、笹本さんがそれに応える。
これでみんなの意見は出そろったもどうぜん、と杉の顔をみた。
しかし杉は、さえないかおをしている。
「もちろん、杉も行くやろう、」と投げたことばに、
「んー、行きたかとばってん……、そのときになってみらんばわからんとよ。
……ばってん、なるだけその日は空けとくごとするけん。
……んー、
私もいくよ。
ピョンちゃんもトンちゃんも行くやろう?」
「もち、」
「ンー、行くよ。」
「ヨーシ、そしたら決まりね。三月十八日!」とシンちゃんが言った。
こうして――、ねがってもないかたちで、中学校さいごの想い出づくりの山登りの計画が成立した。
二日後の卒業式――、
思い起こせば、じつに、たくさんの想い出をのこしてくれた三年間。
できることなら、あのたのしかった日々を、もう一度さいしょからおくりなおしてみたかった。
でも……、さようなら。
さようなら学校。
さようなら先生。
さようならみんな。
さようなら、三年間。
ほんとうにありがとう。
あふれるなみだがむねを伝う。しかし、ぬぐいたくはなかった。
見送りをしてくれた下級生たちが、あんなにも可愛かっただなんて。
そして、いよいよ合格発表の日――、
大きな分かれ道だった。
ラジオでは、先ほどから各高校の合格者の名前を読みあげていた。
しかし、わたしはよく聴いてはいなかった。
自分でたしかめにいくつもりだった。
杉は……、
この街にはいなかった。
屋島の高校の合格発表をたしかめに行っていた。
できれば、わたしもいっしょに行きたかった。
しかし彼女の家をたずねたときは、すでに、家のなかに彼女の気配はなかった。
彼女はいつもそうだった。
自分からはけっしてなにもはなそうとはしてくれない。
……しかし、彼女の相談にのってあげようとしたところで、
自分にいったい、なにができる?
いいや、何もできないだろう。
彼女はそのことを知っていて、わたしに相談したところで、なんの解決にもなりはしない。と、そう思っているのか?
いや、それは違う。心配かけたくないだけなのだ。
自分のことで、他人に迷惑はかけられない。
――と、そう思っているだけのことなのだろう。
もう一つ考えられる。
彼女は、今の現実から離れたい……、そう思っているのではないか?
彼女にとって、これから、新しい人生がはじまろうとしているのである。
苦労の多かったであろうお母さんとの二人暮らしも、お姉さん夫婦が看てくれるという。
数年後には、女の子ならだれもが夢に描くであろう、ステキな人との出会い。
そして結婚。
杉だって、そんな夢を思いねがっているにちがいない。
杉にとって結婚とは、わたしの思いえがく何倍もの幸福に彩られた出来事であることだろう。
これから開けてゆく人生、彼女は、明るく前向きに進んで行きたい。そう願っているにちがいない。
いままで背負ってきたものを、振り返らずにすむような、そんなしあわせを望んでいるにちがいない。
……ひょっとして彼女は、過去のものすべてを、棄ててしまおうと考えているのではないか!
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