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超インドア系の「僕」が、超体育会系の「自分」になるまで

中学生までの自分を「何系?」という言い方で分類するなら、すぐに「インドア系!」と言っていたと思います。

きょうだいもいない一人っ子で、友達と外で走り回るより家でゲームをしていた方が楽しいと感じる、人と関わりを持ちたくない、という内向的な性格でした。

そのうえ、小学生の頃から物語を作ることが好きで、いつも家に帰ったらゲームか小説を書くか、という生活だったものですから、ますます人と関わりたくないという気持ちが加速していきました。

中学生になる頃には、家に帰ったら食事とトイレと風呂以外はひたすらノートに物語を書き続けるようになっていたように思います。人と話すより、1人で空想を描き続ける方がよっぽど性にあっていましたから、これは良い趣味を見つけたものだなと、今でも思っています。

社会人になって久しい今でも、そんな自分の本質は変わっていません。人並みに付き合いぐらいはできるものの、1人でいる方が気楽ですし、あまり興味がないことの裏付けのように、人の顔や名前を覚えるのが大の苦手だっ たりします。

自分たちが学生から新社会人になる頃は、テレビのバラエティ番組のようなおちゃらけたノリが当たり前のほうな雰囲気があって、そういう雰囲気は今も苦手ですし、そういうノリが好きな相手と一緒にいると、話のネタがまったくと言っていいほど響かない、なんてこともよくあります。

そんな自分ですから、学生の頃のまま、創作だけが自分の世界になっていれば、社会生活を営むことが苦痛になるぐらい、内にこもる性格になっていたかもしれません。

しかし、高校に進学してすぐ、そんな自分が変わるきっかけが、唐突に訪れました。

クジ引きで応援団

「今日からおまえら、応援団な」
高校1年生の4月、突如担任に呼び出されて告げられたときは、意味がわからず「え?」という顔をしていたと思います。

高校に入学してすぐ文芸部に入部した自分は、高校になって部活でも創作活動に励もうとワクワクしていました。いろいろな物語を心行くままに書き綴ってやろうと意気込んでいたところにこんなことを言われたものですから、その衝撃たるやかなりのものだったのを覚えています。

皆さんは、応援団、と聞いてどのような集団を想像するでしょうか。
体育祭のときに、各組ごとに結成されるもの?
スポーツ観戦のときに、巨大な旗を振り回して声を出しているもの?

自分がクジで選ばれたのは、昔ながらの真っ黒い学ランを着込んで、ハチマキにタスキをかけ、白手袋をつけて、大声を張り上げる、いわゆる学生応援団という組織でした。

壮絶なシゴキや先輩に怒鳴られっぱなしの、まるで軍隊か何かのような非人道的な扱いをされる組織だと思っていたものですから、その日の帰りのバスは、いつものように眠りこけて家に帰ることもできず、ただ俯いて何もしゃべらず、人生が終わったかのような深い絶望を感じていました。

かくして、文芸部兼応援団という、珍しい両極端な部活に所属する自分が生まれました。

変わり始める、自分

そして迎えてしまった練習初日。

ビクビクしながら集合場所に向かったのですが、いざ練習が始まると、しだいに「あれ」と思いはじめました。初日だからなのかもしれませんが、いきなりのシゴキが始まるわけでもなく、先輩方の自己紹介があって、生徒手帳に記載されている校歌の練習が始まったのです。

初練習が終わった後、「なんだ、こんな感じなのか?」といささか拍子抜けしたような気分になりました。もっと走り込んだり、筋トレしたり、いろいろすると思っていたのに……。

先輩方も、もちろん指導は厳しかったのですが、冗談を言ってくれたり、個性的な面々に思わずこちらも笑ってしまったり、なんだかとてもフレンドリー。

もちろん、校歌・学生歌・応援歌の通称「三歌」や、20近くもあるそれぞれに異なる応援の振り付けである「演武」、マンガなどでもおなじみの三三七拍子など、応援のための練習は毎日あり、それについては厳しく指導を受け、鍛錬に励んだことは間違いないことです。

しかしそれは、今まで1人ノートに向かい続け、小説を書き続けるという地道な行為を続けていた自分の性に合っている部分もあったように思います。

創作活動も、運動部の練習に通じるところがある、と自分は思っています。
毎日少しずつでも積み重ねていくことで、しだいに実力がつき、気が付けば成長した自分を感じることができるものだと思います。
運動は体を酷使しますが、創作は頭を酷使する。体の部位の、使う場所が違うだけのことだと感じるようになりました。

半月、一カ月と日が進むにつれ、クジ引きで選ばれた同級生の中には、練習に来なくなる人も出始めました。

そうしたサボリ組を引き留めるため、先輩方が下駄箱で見張っていることもあるのですが、「練習来いよ」とすごまれても、そのつもりなので一向に気にならず、結局1日も休まず練習に出続けていました。

自分の意思で入部したはずの文芸部を「今日応援団があるから」と欠席する日が出てくるようになりましたが、それは誰に強制されたわけでもなく、自分自身の意思でそうしていました。

気が付けば、自分の中の優先順位が変わっていたんです。

高校1年の夏、人生が変わる

7月。そんな練習の日々にも、ひとまずの終わりがやってきます。
自分の母校で1年生が応援団に強制招集されるのは、全国高等学校野球選手権大会……「甲子園」の予選大会で、応援団が必要だからなのです。

期末テストも終わって後は夏の大会本番に向けて最後の練習! という段階になった頃、ふと最初の頃に聞いたことを思い出します。

……2学期になると、応援団に残留するかを選ぶことができる……。

その話を聞いた当時は、当然こんなことはこの夏までで、秋からは創作に打ち込むんだ、としか思っていませんでした。当然のようにやめるという選択肢しかなかったんです。

でも、夏を迎える頃には、なぜだか「やめる」と言い切れなくなっていました。
残留するの? 応援団に? なんて自分に問いかけてみても、もしかしたらそれもいいんじゃないか……と思う自分もいて、決断ができないままになっていました。

まわりを見れば、同じように練習をがんばっていた仲間でも「俺はもうやめるから」と言いきれている人もいて、思い切りが良くていいなぁ、などと思っていました。

そんな迷いはありつつも、迎えた甲子園予選第1回戦。

1年生はまだ学ランを着ることも許されず、校章と学校名がプリントされた空色のTシャツを着て応援に臨みます。

通称「ゲロT」と呼ばれるそのTシャツ。なぜそんな通称なのかというと……試合中の暑さにやられて、ゲロを吐いた1年生がいたからなのだとか。

先輩方は暑い中の応援なんて未経験の1年生にそんなことを吹き込んでくるのですが、不思議とそれを聞いても、自分もそうなったらどうしよう、なんて不安はありませんでした。なにはともあれ、頑張って応援するだけだな、という気持ちになっていたから、不思議なものです。

そして球場に到着し、試合が始まると、心はただ1つに定まっていました。
もう「がんばれ」って気持ちしかない。

確かに日差しは暑く、コンクリートの内野席に裸足で立つものだから足の裏もすごく熱い。汗はダラダラで、眼鏡はズレるし、喉はだんだんかすれてくる……もう20年以上も前ですから、暑いとはいっても、令和の夏とは比べ物にならないぐらい涼しいのですが、それでも暑いものは暑かったです。

それでも、目の前の選手たちに対して「がんばれ」という気持ちだけしかありませんでした。
とにかく大声で選手の名前を叫び、汗をまき散らしながら演武する。選手たちが得点すれば「もっともっと!」と鼓舞し、点を取られれば「まだまだこれから!」と勇気づける……人生初の応援は、気が付けば母校の勝利で終わっていました。

しかし、母校は甲子園の本戦に一度だけ進んだことがあるのですが、ほとんどの年は、1~2回戦止まりが常なのが現実です。
勝利に浮かれるのも一瞬で、残念ながら敗退の日を迎えることとなってしまいます。

失意のまま母校に戻り、皆がお疲れ様、と声を掛け合います。負けてしまったけれども、よくやった……そんな雰囲気だったように思います。

ですが、団長だけが1人離れた場所に座ってうなだれていた姿を見つけて、その「よくやった」ムードが、自分の中からサッと逃げていったことを覚えています。

声を掛けたわけではないので、何を思われていたのかはわかりません。ただ単に疲れてうなだれていただけかもしれませんが、その時の自分には、悔しさに涙していたように見えました。

……ここまで応援に対して心を1つにしておきながら、まだその時は応援団を続けるかどうか迷っていました。
団長のその姿を見るまでは。

2学期になり、残留の意思を告げたのは、全部で5人。
その中の1人になることは、もう夏休みが明ける頃には決めていました。

クジ引きで決まった応援団。
この偶然から始まった3年間は、これからおそらく一生続く「応援」との出逢いになったのでした。

大学の専攻は応援団

時は過ぎ、高校3年生の夏も終わってまた春。
北九州市の大学に進学することとなった自分は、さすがにもう応援団をすることもないだろうと思っていました。

初めての一人暮らしも始まるし、今度こそ創作に打ち込んでやるぞ、と意気込んでいました。大学進学時に選んだ学科では心理学が学べるのですが、それも創作活動に何か心理描写が役立つのでは? というぐらいのフワッとしたイメージで選んだものでした。

とにかく創作する。未来の展望もなかった自分は、そのくらいの気持ちで大学に進学しました。

大学では最初の1日目だけホームルームがあって、形ばかりの担任から話を聞いた後、オリエンテーションに各自で向かう……という流れで日程が進んでいました。

ホームルームが終わったとたん、ガラッ! と教室のドアが開いて、フルネームを大声で呼ばれました。
ぎょっとして声のした方を見ると、学ラン姿の女性。
そういえば、入学式で応援団が校歌を歌ってたな、ぐらいには応援団の存在を認識してたのですが、まさかここで名前を呼ばれるとは。

実は、高校で応援団をしていた入学生の情報は、応援団に渡されていたと後になって聞きました。
当時は2001年。個人情報保護法の成立まであと2年という状況でしたから、このようなことは日常的にあったのだろうと思います。

それはともかくとして、その声に応じれば確実に入団になるなと感じた自分は、そっと教室から脱出しました。

大学講堂前には、まるでマンガの世界のような、サークル勧誘のテントが立ち並び、勧誘の声がこだまする、そんな風景が広がっていました。押し付けられるチラシをもらったりもらわなかったりしながら、文学系のサークルのテントを探しても見つからず、部室の方に行ってみることにしました。

そして、部室の前で、ノックしようと何度も思い、腕を上げては下げ。
気が付けばその場所を後にして、他のサークルのテントをぐるぐると回り……気が付いたら応援団の勧誘テントに座って、入団します、と先輩に伝えていました。

大学になって応援団はしないはずだったのに、どうしてもその存在が忘れられず、自分の意思で、入団を決めていました。

人生最濃の4年間

大学応援団は、高校のそれに比べて、よりハードで厳しいものでした。とはいえ、先輩方は皆優しく後輩を指導してくださり、厳しい規律の中ではありますが、恐怖で縛られていた、なんてことはありませんでした。

筋トレにランニングで体を作り、声出しから演武をひたすら練習する日々。
太鼓の叩きすぎで右手の皮がごっそりはげ落ちたときは、講義の時に痛すぎてペンが握れず、テーピングをはげた皮の上に貼って、むりやり皮膚の代わりに使って勉強していたこともあります。
昼休みに応援団の行事があれば、私服姿の同級生に混じって学ラン姿で講義を受けたこともあります。

野球応援が終わって打ち上げで酒を酌み交わしたり、団員全員でカラオケでオールしたり。酒を覚えてからは、二日酔いならぬ一週間酔いに陥ったりこともありました。
一世代上のOBとやり取りすることも多々あり、年齢の離れた人たちと関わる機会もありました。
友人や彼女と旅行に行ったり、合コンにいそしんだり、そんな経験は一切ありませんでしたが、その代わりに、いくつも得難い体験をしました。

大学は最高学府と言われながら、勉強以外に身を入れる学生も多数いました。自分も「優・良・可は同じもので、不可にならなきゃいい」という考えで、あまり勉強してないように記憶しています。
そんな勉強嫌いな自分ですが、応援団生活の中で「勉強」したことは、机について講義を受けた内容以上に、自分自身の実になってくれていると感じています。

大学応援団は生き方を学ぶ場所だった。
そう言えるほど、この4年間は、今の自分を形作るうえで欠かせない時間になっています。

学ランを脱いでも応援団

あまりにも濃い応援漬けの7年間も、学生の間だけ。
社会人になると、仕事もあり、生活もあり……で、応援というものからはどんどん遠ざかっていくのを感じました。

そんな中、再び人生に応援の2文字が浮上してきたのは、卒業から5年ほど経った頃のことでした。

左遷・失恋・親族の死……と、社会人1年目にはこれでもかとマイナスなことが起こり続け、失意のうちに帰郷することになった故郷、山口県周南市鹿野地域。

限界集落と言ってもいいほど過疎化が進んだ地域で、駅もない、遊ぶところもない、コンビニさえない……そんなど田舎である故郷のことを、大学を卒業するまで、ずっと嫌っていました。

……こんな何もないところにはもう帰らない。
そう思っていたのですが、結局、ボロボロになった自分は、否応なくこの田舎へ帰ることになりました。

すると、この何もないと思っていた町に、都会にはない多くのものがあることに気づかされました。
人工物はないけれど、心が穏やかになる自然や、四季や、おいしい食べ物がある。都会はにぎやかでなんでもあるけれど、田舎にあるものは、何もない。その時の自分は、そう感じていました。

「この町のために何かしてみたらどうかね?」

何がきっかけだったのかは覚えていません。
何気ないことから鹿野地域の話になり、母に故郷のすばらしさ、そして今のままでは故郷は駄目になる、とか、そういうことを熱弁したように記憶しています。

そんな息子のとりとめもない話を黙って聞いていた母が言った言葉に、自分は考えさせられることになりました。

……何ができるのだろうか。
馬鹿正直にその言葉について考えてみても、わからないとしか言いようがありませんでした。実家近くで再就職して忙しく働いていましたが、20代の若造には見えないものが多すぎました。
圧倒的な経験不足。しかし、それでも考えを巡らせて、今までの人生の中で何か使える経験はないか……そう思ってみたときに、2つのことが頭をよぎりました。

書くことと、応援すること。

小学生からずっと趣味だった創作活動。
高校から始まった応援団。
何かを書いて、誰かを応援することができないかな。そう考えるようになりました。

こうして始まったのが、地域でがんばっている人を取材し、地域情報紙を作る、「まちづくり」をする人の「応援団」になる活動です。

自分の目で見て、感じたことを、文字にする。文字に説得力を持たせるため、写真を撮る。その活動を、町を応援したいという気持ちが支える……きっかけはささやかでしたが、もう10年以上も、「町の応援団」として活動を続けています。

誰かを応援し、形にして、皆に伝える……学ランも着ていませんし、大声を出したり、演武をしたりもしません。それでも、やっていることは学生時代から何も変わっていないと感じます。

これからもずっと、何かにエールを送り続けたい。
高校のとき踏み出した第一歩は今、二歩、三歩と前に進み続けています。

※当記事は2020年6月に執筆したものに、コンテスト応募に際し加筆修正を加えたものです。

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