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フリーペーパー、作ってみっか。~ペンとカメラの応援団~

山口県周南市鹿野を応援する「まちづくり応援団えーる」として活動を始め、気が付けば15年目。

故郷である鹿野を応援するフリーペーパーの発行は、時々休みを交えながら、2023年9月の初めに154号目の発行を迎えることができました。

10年以上もの間、鹿野のために情報発信を続ける。
自分はどうして、こんな選択をしたのでしょうか?

このまちのために何かしてみたらどうかね?

それは2008年か、もしくは年明けの2009年か。とにかくまだ、寒さの厳しい頃だったと思います。

何がきっかけだったのかは覚えていませんが、当時、実家で暮らしていた自分は、鹿野について母に熱弁したことがあります。

鹿野のすばらしさ、そして、今のままでは人は減り、駄目になる、とか、そういうことを、取り留めもなく語り続けていました。

そんな息子のとりとめもない話を、黙って聞いてくれていた母。
自分がひとしきりしゃべり終わった後、言われたのが「このまちのために何かしてみたらどうかね?」という提案だったのです。

故郷のまち、山口県周南市鹿野地域。中国山地の山間にある高原の田舎町です。

まだ20代で、その言葉をまじめに考えるぐらいには素直だった自分は、自分に何ができるんだろう……と、まじめに考えてみることにしました。

まだまだ社会経験も乏しく、何ができるのか、何が効果的なのか、わからずに頭を抱える日々。そんな中で、自分が持っている数少ない「武器」が、あることに気が付きました。

書くこと

昔からアニメやマンガが好きで、小学2年生の頃からマンガを描き始め、上達せずに挫折。小学6年生の頃、ライトノベルに出会い、それ以降小説を書き続けるようになりました。

中学・高校・大学と、日付が変わるまでひたすら小説を書き続け、時には賞に応募しながら、文字と関わり続ける学生時代を送っていました。

当時、すでに10年以上物語を書き続けた経験があったから、鹿野のために「書くこと」で何かできないだろうか、と考えるようになりました。

応援すること

高校1年の4月、クジ引きで応援団に選ばれました。
最初は、今までの人生にはあまりにも存在しない要素にぶち当たり、絶望さえしたものですが、だんだん誰かを応援することにのめりこみ、大学入学してすぐは「もう応援団はしないでおこう」と思っていたはずなのに、気が付けば自ら入団を志願し、そのまま4年間の大学生活を応援に捧げることになりました。

今も懐かしい、わが母校。

学生時代だけしかできない、濃密でかけがえのない7年間。
この7年間がなければ、そもそも母に熱く語るほどの思いを抱くことがなかったように思います。

これまでの経験を束ねて、選んだ道

地域でがんばっている人を取材して地域情報紙を作る、「まちづくり」をする人の「応援団」になる活動、「まちづくり応援団えーる」は、こうして活動を開始しました。

正直なところ、最初は1年続くのかな、鹿野というド田舎に、そんなにネタがあるのかな……そう思いながらのスタートでしたが、10年以上も「まちの応援団」として活動を続けることができています。

フリーペーパーの発行は、まずネタ出しから始まります。
毎年恒例のイベント、鹿野でがんばっている人の噂、そういえば今あの場所はどうなっているんだろうという思い付き、時には鹿野に住む皆さんから情報提供をいただくこともあり、何を取り上げるのかを決めるのが発行の第一歩になります。

その後、取材を開始します。
人のインタビューをするときは、相手とコンタクトを取り、対面でいろいろな話を聴きます。例えば何かの活動をしている人なら、どんな思いで活動を始めたのか、どんな活動をしているのか、将来の展望はどんなものか……など、その人のいちファンとして、その思いを汲み取るために全力を尽くします。

取材をもとに、ついに紙面を作成します。
取材はインタビューだけでなく、写真撮影も行います。どんな写真をどう配置して、インタビューの内容をどういう流れで書けば、魅力を引き出すことができるんだろう……と考えながら、時には何度も手直しを繰り返し、日を置いて見直しながら、原稿を完成させます。

そして、相手に原稿を見てもらい、校正を行います。
大切なのは、相手のことを全力で応援すること。相手の意に沿わないことや、ニュアンス違いで誤解を生むことのないように、相手に確認することは最も大事な工程になります。

校正が完了したら、後は事務作業。
ネット印刷で完成した紙面は、新聞折り込みや公共施設への設置、小・中学校に郵送するなど、さまざまな方法で配布しています。

ホームページでバックナンバーを掲載し、SNSなどで宣伝を行って、ようやくフリーペーパーの発行作業は完了します。これを毎月1回繰り返していますが、すでにこの行程は、生活の一部になっているように感じます。

癒しのふるさとへの恩返し

自分がこうして活動を続けられる原動力は何だろうと問われると、それは鹿野が自分を癒してくれたから、と答えるでしょう。

もともと、生まれ育ったこの田舎町のことは、好きではありませんでした。駅もなく、令和の今でもコンビニさえない、人口3,000人を割ったこのまちは、高校生までの自分にとっては退屈極まりない、ただの田舎でしかありませんでした。

それが変わったのは、社会人になってからのことでした。
自分の性格からすれば、完全に合わないとわかりきった仕事を「大丈夫だろう」と軽い気持ちではじめ、結果として左遷され退職。

私生活でも彼女と手痛い別れを経験し、公私ともにズダズダになった自分は、地下鉄に入ってきた電車を見て「飛び込んだら楽になれそうだな」というようなことを、「今日の夕飯は何にしようかな」と同じぐらいのレベルで考えるほど追い詰められていました。

そんな消耗しきった心身を、帰郷した鹿野の自然が癒やしてくれました。

樹齢360年を超えるサクラが咲く春。
清流の流れる鹿野では、初夏にホタルの乱舞を見ることができます。
新米の季節。昔ながらのはぜかけが、米をよりおいしくします。
旅するチョウ「アサギマダラ」がやって来る秋。
真っ赤に染まる紅葉を眺めるのもいいですね。
氷点下の世界に広がる雪景色が、鹿野の冬には欠かせません。

そんな癒しの故郷が、人口が減り、何世代も続いてきた伝統芸能が廃れ、ゆっくりと衰退しているのです。

癒しをくれた鹿野に恩返しをしたい。
それが活動のきっかけであり、今なお活動し続ける原動力になっているのではないか、と思います。

進化し続ける応援

活動を続ける中で、自分自身のスキルも、大幅な成長を遂げていることを感じます。

フリーペーパー制作の過程で、ありふれたワープロソフトからDTPソフトを使いこなせるようになりました。

より良い写真撮影のため一眼レフカメラを学ぶことで、今では花火やホタルなどもそれなりに撮影することができるようになりました。

ホームページもHTMLタグの解読ができるようになり、ちょっとした画像を作るためのアプリを使いこなし、さらには動画制作まで手掛けるようになりました。

どれも、活動を開始したときには「とても別世界の話だなぁ。ここまですることはないじゃろうね……」と敬遠していたものばかりです。

しかし、今ではそれを使うことができるようになっている。
フリーペーパーから始まった活動は、今も新たな方法……より伝わり、より効果的に応援するための方法を探し、進み続けています。

まちを応援するという選択をした自分。
これからも、この思いを形にするために技術を磨き、故郷にエールを送り続けていきたいと思います。

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