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女学校vs.女子高校

 この記事は昨年の5月に公開したものですが、或る事情で直ぐに取り下げたため、下書きとして残っていました。この度、事務局の方から、下書きを復活させる件についてお勧めがあったので、このような昔話に興味のある方も居られるかと思い、再度公開に踏み切つたわけです。公開直後にすでに読まれた方も居られるかもしれませんが、ご容赦のほどお願い致します。


 孫娘から女学校のことをnoteに書いて、とのリクエストが来た。この孫は愛読者の1人であるらしい。
 元々、noteを始めたきっかけの一つが、子供達の知らない母親の少女時代を、知りたがったことでもある。
 彼女は、祖母の自己紹介の中で"女学校に入学"に興味を持ったのだろうか。戦後は男女共学が普通の中で、女子高は今なお日本の各地で存続し、伝統を守り続けている。彼女自身は女子高の出身だけれども、女子高と女学校とはどんな風に違うのかを知りたいのだろうか。

 少女の頃に私がイメージしていた女学校とは、鹿鳴館に出てくる貴婦人の子女たちとか、津田梅子氏など女子教育の先頭に立っていた方々とか、とにかくエリート女性たちの行く特別な場の象徴だった。地域によって程度こそ違え、戦前の小学校から女学校へ進学したのは決して多くはなく、終戦の年に私が通っていた秋田市土崎小学校では、50人のクラスから2人しか県立の高等女学校へは進学していない。

 私の通った女学校の話を聞かれても、セーラー服に大きな白いリボンのロマンチックな話は何も語れない。 何故なら、女学校に入って4か月で終戦を迎えたし、その翌年の2年生からは、学制改革で新制高校附属中学校となって、女学校という名称は消え、原則共学となったので、女子高校として区別された。
 僅か1年間の女学校も、入試は内申書、面接、体育のテストだけ。制服も上はセーラー服でも下はもんぺ姿。英語の授業はなく、体育は薙刀(なぎなた)の練習。 終戦後、英語の授業は復活したものの、私の担任が英語の先生だったので、自分のクラスの授業になると、その授業は防空壕の埋め立て作業に振り替えられてしまう。 おかげで、東京の学校に転校するための転入試験では、英語だけ兄に特訓してもらうなど、大いに苦労した。しかし、そんな話では面白くもなんともないだろう。

 代わりに、 古今を問わず、これが"女の園"の風景かなと、印象に残っている映画があったという話をしてみよう。

 その映画のタイトルは「桜の園」これはロシアの文豪チェホフの作品「桜の園」を映画化したものではない。或る女子高の演劇部が、創立記念日にこの作品を舞台で上演するまでの2時間の流れを描いたもので、1990年に封切られ、2008年にリメイクもされている。
 私が見たのはどちらだったのか記憶は定かではないけれども、女子高生たちの特徴を垣間見た気がして、記憶に残っているのだと思う。

 孫娘はロマンチックな明治大正の頃の話を期待したのかもしれないが、例えばこの映画を見れば、あゝ、私たちの高校生活や仲間意識と大して変わらないわと感じるかもしれない。

 こんな古い映画でなくても、参考になる映画やドラマや、期待される新作もある。脚本家で監督もされる大石三知子さんによって、20世紀前半に"蝶々夫人"を歌って世界中に名を轟かせたオペラ歌手、三浦環さんの伝記が映像化されるそうだ。女学校とは、の答えにならなくとも、先駆者として活躍した女性の生き様から、いろいろ学ぶものがあると望んでいる。

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