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龍王山城に登った & ヤマハ・アクシストリート故障顛末記

 コロナウィルスとは特に関係なく、世間様の連休とも関係なく、私もポっと三連休ができちゃった。
 なので、しばらく乗れてなかったバイクを転がしてやるべく、ちょっと電車じゃ行きづらい山城でも攻めてみようかと思い立った。

 で、大阪から奈良街道を経て天理に至って、三輪大社近くの山に登っていくわけですよ。

アクシストリートの故障について

 写真もなにもないから、先にまとめて書いちゃう。

 大阪から天理方面に適当に走ってたら、JR三輪駅についたんですね。
 そこで一旦エンジンを切って、龍王山城への道順を確認して、さあ行こうとしたら、かかったエンジンがすぐ止まって、以後どうやってもかからなくなった。
 セルは回るけど始動しない。キックでもだめ。ガス欠のときにこんな感じだった気がするけど、ガソリン計の針はまだある。
 ともあれ、ガス欠のカンを信じて近くのガソリンスタンドまで押していって、満タンにしてみたら始動した。

 龍王山城について城を見て、帰路に信貴山の麓のコンビニに入って、軽く飲食して出発しようとしたらまたかからない。
 ちょっと検索してみると、どうもアクシストリートは燃料ポンプが故障多いらしい。私のも、キーをオンにしてもポンプの作動音がしない。
 こりゃダメだな、と、アクサダイレクトに入ってるからロードサービスを頼んでみた。
 しかしレッカーの方が到着したら、燃料ポンプ動き出してエンジンかかっちゃった。

 で、レッカー搬送の受け入れ先としてお願いしていた大阪のバイク屋まで乗っていった。
 燃料ポンプっぽいと伝えてみると、なにやら問い合わせをしてくれて、「ポンプは保証が延長になってるから、未交換の部品は無償交換」とのこと。
 状況を伝えただけで、すぐ車台番号から照会してくれたあたり、多分よく起きてるんだろうな。
 まあ、他の部分はほぼノートラブルで、2012年夏以来の長い付き合いだから、一箇所くらい故障も出るだろう。

龍王山城へのアプローチ

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 さて、noteの画像サイズで読めるかわからんのだけど、龍王山城への道は、北側からだと天理ダム方面(国道25号旧道から県道247号笠天理線から)、南側からだと藤井町から(巻向から県道50号大和高田桜井線で山に入って、県道247号から藤井集落へ)、とある。
 で、私は藤井町から行こうとしたんだけど、集落を抜けるところで「狭いから車は通れない」と警告看板があり、舗装も荒れ果てた激坂の道になっていた。オフロードバイクなら行けそうだけど、アクシストリートなんかじゃ怖かった。

 で、素直に回り道して北からアプローチしたら、入る交差点こそこんな様子だけど、こっちは車で入れる状態だった。
 龍王山城北城本丸への入り口すぐに駐車場もある。南城はちょっと離れるけど、まあ1kmくらいだから歩いてもいける。バイクだと南城の方にも停められるスペースがあった。

龍王山城北城

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 駐車場からすぐ、こんな碑がある。到着したのは間違いないのだが、この石碑右手の、かろうじて通れそうな感じの獣道っぽいのが、本丸への登城口になる。すげえ道だなあ。
 カバー画像にしている城跡案内図もここにある。

 龍王山城は、城郭の規模でいえば大和国随一の巨大山城。北と南のふたつの峰にまたがっていて、一応北城が主城で南城が詰の城だったとのこと。
 北城本丸のさらに北西側に、西ノ大手ノ丸というのがあるようで、名前通りならそっちが大手で、多分今の菅生町あたりから出入りしてたんじゃないかな。

 龍王山には南北朝時代から砦があったらしいけど、それをこの巨大城郭へと拡張したのは十市遠忠という人。
 戦国時代の早い段階で、河内から大和へと勢力を伸ばす畠山氏の木沢長政と、それに協力する筒井氏とを相手に、龍王山城や信貴山城を舞台に激しく争っていた。
 その過程で、1536年ごろに龍王山城を大きく改修して居城とした。ばちばち戦争してた頃だから城もがちがちにやったらしい。
 しかしほどおなく、河内の木沢長政が三好長慶の台頭に押されて没落していき、大和国内では1540年に筒井氏と十市氏も和睦。1545年には十市遠忠が亡くなる。城を戦の舞台にする機会はなかったようだ。
 跡継ぎの十市遠勝は若年で、そこを筒井氏につけこまれて勢力を落とし、さらに松永久秀の大和侵攻で家中が混乱。宇陀の秋山直国と争って龍王山城を攻められるも、ろくに抵抗もできずに城を明け渡してしまった。

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 かろうじて道かというところを登っていくとすぐに「土塁」「南虎口」の解説板があった。
 このふたつの看板の間の先に、丸い窪地があって、そこが元々は虎口だったようだ。今は窪地に入らずまっすぐ登る道があるが、元はそこも土塁にしてあったのが破損したようだ。

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 虎口を抜けた先、本丸から見下されてる。急な崖になってるから無理に登るのも厳しげ。やっぱり山城は、攻め込むとしたら嫌だろうなあという地形が楽しい。龍王山城はだいぶ地形的イヤさがわかりやすいな。
 この写真の左手あたりに石垣が残ってるらしいけど、土に埋もれてしまってるのか、あんまりよくわからず。

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 登っていったら、いつのまにか空堀を通ってたみたいになって、こんなわざわざ道を塞ぐように枝を残した倒木がかけられている。
 ここが、左手が本丸、右手が辰巳櫓があった曲輪の分岐点。これは目印がなかったらまっすぐ突っ切ってしまいそうだが、あえて看板やロープじゃなくて倒木を利用して道を塞いでるんだろうか。

 城跡の見取り図で見た感じ、ここをまっすぐ突っ切ると大手道らしく、そっち方面にも色々あるようだ。が、ちゃんと登山するような装備でいかなきゃ危なそうにも思えるので無理しない。

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 辰巳の櫓があったという曲輪に上がってみると、確かに広めの平地になっている。
 が、案内図で示されている通路から外れているせいか、あまり人の立ち入ってない曲輪らしい。厚く落ち葉が積もったやわらかい腐葉土になっちゃってて、見た感じわかりやすい櫓台とかあるわけでもなさそう。

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 なんの写真かわからないと思うけど、辰巳の櫓の曲輪から本丸側を見た写真。どこが道かわからんよな。私も現場でもほとんどわからんかった。

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 で、どうにか上がってきた本丸。
 ところどころベンチが置かれた憩いのスペース……というには通路がわかりにくすぎると思うけれど。

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 西の方に向かって、ちょっとした展望台が作られていて、そこから大和の平野が見える。ちょっとモヤっぽい天気の日で、そんなに見晴らせてないけれど。

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 展望台から下を見ると、一段低いところの帯郭っぽいのが見える。
 これが時ノ丸という曲輪らしい。時鐘楼でも置いてたんだろうか?

龍王山城南城

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 龍王山城の南北の城は、尾根伝いにひと連なりになっていて、その間も遊歩道になっている、と案内板にはある。
 だけれども、北城の道がすごいというか、現代的整備をしてない感じだったから、遊歩道もどんな代物かわからない。ちょっと体力的に怖いから単車で移動しちゃうことにした。

 で、ちょっと移動すると池がある。
 これは馬池と呼ばれ、荷物担いで上がってきた馬に水をやって労ったといわれている。今でも湧き水が絶えず、重要な用水源だったそう。
 北城本丸と西ノ大手丸の間にも、馬ヒヤシという湧き水の池がある。
 ここに来るまでの車道にも、なんだか道の脇から水が湧いてしまって路上に流れ出たりもしたから、結構水の出やすい山なのかも。

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 それから、藤井・田龍王社というお社があった。ここも池になってるから湧き水かな。南城に向けて登ったところに柳本龍王社というのもある。藤井町・田町はこのあたりの地名、柳本町は麓の崇神天皇陵があるあたり。
 龍王山はこうやって龍王を祀ってるからそう呼ばれてるみたい。
 龍はよく水神として祀られるわけだけど、近くにある天理ダムにも龍王山から川が流れ込んでいる。やはり龍王山は水の山だな。

 あと、このお社の近くはショウジョウバカマという植物が自生してるらしい。3月中旬の今ならそろそろ咲きかけててもよさそうだけど、あいにく見当たらず。

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 南城へ登っていける通路の入口、単車くらい十分停められそうなスペースがあった。で、そこに二階堂高校校歌なる碑がある。
 崩し字で読みづらいが、「青いやま並み春萌える/龍王山の峰はるか/希望の光り雲染めて/明ける高校さわやかに/ああ華かおる二階堂」かな。

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 南城のほうはわりと歩きやすい道になっている。
 そこに、あまり新しいものには見えない石段があった。案内板にもわざわざ「石段」とあったから、これは城の遺構なのかな。

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 ちょっと開けた、これもやっぱり曲輪なのかな。案内板にはなにも書いてないけれど。奥の石段を上がれば南城の本丸。
 うっかりして本丸の写真を撮り忘れてしまったんだけど、まあ、平坦な曲輪があるだけって感じではある。
 南城は戦国時代以前からあって、北城が十市遠忠によって拡張された新しい城、ということもあってか、南城はわりとあっさりした構造に見える。城って新しいほど複雑で凝った造りになるからなあ。

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 で、南城からは実に眺めがいい。この天気だと無理だけど、明石海峡大橋まで見えるらしいぞ。
 奈良県景観資産「奈良盆地を眺望できる龍王山南城跡」に指定されている。

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 現地の案内に合わせて、見えてるものを書き込んでみた。
 奈良の名所の半分くらい視界に入ってそうな勢い。西向きだから夕日の時間帯もよさそう。帰り道怖いが。
 往時には十市城も見えてたことだと思うので、大体あったらしいあたりも書いておいた。

 十市遠忠は歌人としても知られていて、「天(の)下 おさまる時を 朝夕の 月にも日にも 光いのる哉」という短歌があるそう。この景色を見てる人の歌だな。
 龍王山城が完成してから晩年にかけては、筒井氏と和睦して大和の戦乱も小康状態になってたみたいなので、穏やかに詠めたであろうか。

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 本丸にあった切り株が、いい感じに中の抜けた虚になっていた。
 そこにトカゲかと思うのが一匹いた。日光浴していたが、私が近づくと虚に飛び込んでしまった。
 今の龍王山城は城主もなし、あまり大きな動物がいるようにも見えなかったから、本丸に陣取ってるこいつが城主といっていいかもしれない。

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 三角点もあったよ。

天理ダム

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 帰りに天理ダムを通りかかったので、ちょうど駐車場もあるし少しだけ見物。

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 国道25号に出たところで、布留川へと放出するところが道路から見える。これ増水してるときに一気に放流したら道路まで水掛かりそうやな……。

龍王山城まとめ

 なにしろすぐ近くまで車で行けるので、登山というほど登る必要がないので気楽。まあ天理まで来るのが大変だけれども。
 鉄道だと、柳本から登るしかないのかな。だいぶ長くなりそうだけど、しかしシルバーハイカーらしき人も見かけたな。

 北城の道の悪さは驚くけれど、距離はちょっとだけなので。遺構を保存するためには手を入れる余地がないのかもしれない。
 山城を見てる感じがあるのも北城の方で、自分がもし攻め上ってるなら、と想像すれば実に厳しそうなのが見て取れる。南城は景色かな。

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