宇陀松山城を尋ねて (K-70 / smc PENTAX-FA 31mmF1.8 Limited)
私は城巡りが趣味なんで、ゴールデンウィークもどこか行ってみようか、でも人混みになりすぎなくて遠征になりすぎないところ……と検討してみると浮上したのが宇陀松山城。
宇陀にいた国人領主の秋山直国という人にちょっと興味を持って、ざっと調べてみたこともあったりして。激動の戦国時代に、小勢力の家として、時々に従う相手を変えながら絶妙のバランス感覚で生き延びたんだけど、最後の最後に「そこで……?」という無念の戦死を遂げる。
大阪から宇陀へは、近鉄大阪線で榛原まで行って、それからバス。
バス乗り換えが必要な土地はどうにも行きづらく感じてしまうけれど、まあ行ってみればそれほど遠くもない。篠山とか丹波焼の立杭なんかもそうだったし。
バスで行くところももう少し行く先に検討してみようか。柳生とか京都大原、多田銀山とか思いつくところもあるし。
榛原駅前
榛原駅から大宇陀行きのバスは、一時間に一本。電車が着いたらたっぷり30分待ち。
バス停前の観光案内所で聞いてみると、レンタサイクルもあるけど宇陀まで8km。4時間1000円・1日2000円。天気も良かったんだけど、4時間じゃ足りないやろという微妙な価格設定……
ちょっと駅から南へ、宇陀川まで来てみる。十分景色いいな。
丹切地蔵尊というのが見えてお参りしてみる。小さな祠の隣に、一見お地蔵さんかと思ったら、五輪塔の上3段をそれっぽく置いてる。なんでこんなことに……?
駅から東に商店街があり、西にはショッピングモールがある。
バスが来る頃に駅に戻って、大宇陀方面へ。終点の大宇陀バス停が道の駅宇陀路大宇陀になってる。
松山の重要伝統的建造物群保存地区
道の駅からちょっと東にいったあたりが、重伝建になってる。
南へ熊野街道・東西へ伊勢参宮街道、北に行けば伊勢本街道へもいけるという立地で宿場町として栄え、江戸時代には薬草採取や製薬業が盛んになって商業も栄えた。
宇陀松山城の西側、南北の通り沿いに、江戸時代からの建物が多数残る。
道の駅から国道166号を歩いてくると、右手に酒蔵が見える。「初霞」の久保本家酒造。以前は酒造カフェもやってたらしいけど閉めちゃってた。
国道と重伝建の通りの交差点は、左手に観光案内施設「まちかどラボ」がある。写真撮り忘れてたけど。
右手が上の写真で、酒蔵通りと書かれていた。久保本家酒造の他にも奥に芳村酒造というとこがあるみたい。
松山ではこういう看板が時々みられる。渋い。
久保本家酒造は、帰りに見たらお酒の販売をやっていた。
交差点から北へいくと、薬の道とカーブ外側に見えてるのが松山地区まちづくりセンター「千軒舎」。明治前期に建てられて、薬屋・歯医者をやってた家。
建物自体も無料で見学できる。古いモノの展示などもやってるけど、松山観光の案内はまちかどラボの方へ、とのこと。
宇陀松山城への登山道はここからもあるんだけど、登るのはこっちじゃないほうがいいかなあ。
城跡が個人所有の土地らしくて、おそらく管理の都合と思うんだけど、南側の登山道は幅広く舗装されてしまっていて、歩きやすくはあるんだけど山城に上がる感はまるでなくなっちゃってて。
北の方へ、先に街並みを眺めるのがおすすめ。
道行く商店にかかってる看板がこの重厚さ。和菓子屋さんだけど、あいにく2019年には閉店しちゃってたらしい。
電話番号169番。大正か昭和初期か。そんな時代に電話引けるくらい栄えたお店だったのかなあ。
1903年に建てられた松山町役場が、今は「宇陀松山会館」として展示施設になってる。松山城の歴史についての映像を流してたり、吉田初三郎の鳥瞰図があったり。
興味深いのは、俵屋宗達の「風神雷神図屏風」の雷神らしい像を立体的に作った鬼瓦なんてのが展示されていた。全身作ってる鬼瓦は他に甲府城くらいでしか見つかってないレア物だとか。
それから、この場所は林豹吉郎という人の生まれた場所だそう。鋳物師の子で、緒方洪庵の塾で蘭学を学んで、さらに砲術を学び、大和郡山藩では大砲の鋳造をやっていたという、郷土の知識人。
しかし、1862年に天誅組の変が起こったのに加わってしまう。多分五条代官所襲撃あたりで合流しちゃったと思うけど、その後高取城攻めに失敗しても律儀に中山忠光についていって、鷲家口でとうとう討ち死にした。
森野旧薬園。江戸中期に、幕府から薬草を与えられて栽培を許されたことで開かれた、日本最古の施設薬園。今でも薬草木が250種ある植物園があって、見学も可能になってる。
松山が薬売りで栄えるルーツでもあるんでしょう。
元は葛粉を商ってた家らしくて、吉野葛の元祖を名乗る看板がかけられている。宇陀と吉野は遠い気がするけど。
神楽岡神社
松山城のある山に、神社の鳥居が見える。
神楽岡神社というところで、宇陀松山城も神楽岡城とも呼ばれるくらいだから、この山自体が神楽岡とよばれるわけかな。
場所からして松山城の鎮守とかかな、と思ったら、城よりずっと前からあるっぽい。ただどういう歴史のある神社なのかは詳しい人が調べてもよくわからないみたい。
こういう長屋門っぽい作りの立派な拝殿?があるんだけど、神域が広いわけではない。摂末社も見当たらない。
見晴らしもよくて、真正面に山が立ってる。
なぜか灯籠がずらりと並べられている。参道じゃなくて境内の隅に。
形もひとつひとつ違うから、最近まとめて作ったとかではないな。
やまとうし丼で昼食
神楽岡神社の近くにいくつか飲食店が開いていて、食事できるポイント。
良い町並みがあるのに観光客は少なく、道の駅ばかりが車で通りすがりに立ち寄ってる人でいっぱい。こっちで正解だった。
で、大和牛(やまとうし)丼の店 件というところへ。
やまとうし丼スペシャルの定食1500円。
普通のやまとうし丼は、玉ねぎと細かめに切った牛肉を煮込んで、葛であんかけに仕上げたものだそう。スペシャルにすると、上のように肉が増えていわゆる牛丼らしい形になる。
どれもおだやかな味付けで丁寧な料理。しみじみ美味し。
宇陀でとれる大和当帰というセリ科の薬草があって、2012年まで漢方薬扱いだったのが解除されて、今は野菜として食べられるようになった。
最近売出中だそうで、ここでも豆腐にのせた味噌に大和当帰を使ってあるとのこと。
重伝建地区続き
奈良漬屋と和菓子屋。
さすが古い商業地だけあって、レトロというかアンティーク看板が多いんだけれど、屋根までかけてる豪華な看板まで時々見られる。店の顔。
街並みは実に良い建物が多いんだけど、まだ個人の方が住んでる家も多いようで、あまり個人宅だけ主な被写体にした写真はちょっと遠慮。だから載せてるのはお店とかだけにしてるけど、ほんとに歴史的建造物の割合が高い。
また、戦後まで宇陀地域の中心として栄えてた時期が続いてたらしくて、商家として現役だった時期が比較的新しいっぽい。まだ取り壊されたり、廃屋状態になってる建物も少ない。
路地から山が垣間見えるのもいいな。これは西向き。
東向きだと山が近い。
街の西側に、宇陀川を渡ってすぐのところで、松山の街への西口関門がある。写真を撮ってる立ち位置は橋の上で、かつてはこの橋がメインストリートだったらしい。
城門ではないはずだから、特に戦闘的でもない感じね。
宇陀市歴史文化館「薬の館」
薬種商で栄えた宇陀でも随一の大店だったらしい細川家の住宅が、現在は「薬の館」として展示施設に。今あるだけでの250坪、かつては南にも250坪あったとか。
屋根のある看板は他にもあるものの、銅板葺きで唐破風がある屋根つけてるの贅沢すぎて笑ってしまう。
昔の薬の看板が大量にコレクションされていて、太田胃散やら宇津救命丸、浅田飴、赤玉ポートワインなど今でもあるようなものがあったり。
建物自体も実に立派で、これは南から北に見て3間続く。で、東西にも3間あって、3x3の9間で作られている。6間は普通にあるけど9間は珍しい。
天井を見てもずいぶん梁をたくさん通してあるようで、お金かけて建ててるなあ。
この細川家からは、アステラス製薬(旧藤沢薬品)の創業者・藤沢友吉が出ている。次男だったので道修町に丁稚に出て、そのまま藤沢家の養子になって独立。
「薬の館」には、藤沢樟脳から商売を始めて戦前から海外に進出する大企業になっていた藤沢の歴史も展示されている。
宇陀からは他にも、ロート製薬の山田安民、ツムラの津村重舎(このふたりは兄弟)、それから「命の母」の製造元である笹岡薬品の笹岡省三も輩出された。人材豊かな町ね。
春日神社
城山の北側にある春日神社に来てみると、あからさまに城っぽい石垣がある。実際ここは宇陀松山城の春日門があったところ。
城の門である防御施設なのはもちろん、町人地と武家屋敷を分けるための門でもあったそうな。
門の跡を過ぎると、一段高いところにある春日神社へと上がる階段。
その右手に細い道があって、そっちが登城口。
さらに一段高いところにある春日神社の社殿。
なんか打ち込み接ぎと切込み接ぎの中間みたいな石垣ね。だいぶ新しいのかな。
城の鎮守として勧進されたのかな、と思いきや、足利義満が寄進してできたらしいから、城より古そう。
宇陀松山城
宇陀松山城への登山道は、一昨日の雨のせいか一部ぬかるんでいる細い山道。降りてくる人がいるとすれ違う場所をちょっと考える程度。別に転落を恐れるような場所はないので、危険ってことはないけど。
道端はシダがいっぱい。でも野草の花も見られて、サギゴケなどの都市部では見かけないのを見かけた。
さほど高くはないので、15分も歩けば着く。
宇陀松山城は、1615年に城主だった福島高晴(正則の弟)が大坂夏の陣で西軍に内通したとされて改易、その際に破却されてしまった。だから石垣もこんな半端な状態のものがそこかしこに見られる。
破却されているとはいえ、本丸跡地はきれいに削平されてるから、明らかにわかる。本丸近くだと、堀切っぽい窪みとか郭っぽい平地とか、そこらじゅうに見える。
元々は宇陀国人の秋山氏の居城だったけど、1585年に退去、代わりに何人か城主が入った頃に近代城郭として整備されていった。戦国時代のだいぶ後の方だから、山城とはいえ石垣と複数の櫓、そして天守を備えた作りだったと見られる。
本丸には天守台もある。天守台には白鬚大明神があった。
またこの城、眺めがいい。これは確か南向きだったかな。
全周がずっと先まで山で、ほぼ360度見渡せる。近畿では指折りの海から遠い場所だもんな。
惜しいのが、二の丸の方へ降りられる通路にロープ張ってあって、行ってくれるなという感じだった。なんか危険な状態だったのかもしれないが、とくに表示が見当たらず……。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?