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柏原~八尾の寺社散歩 (LUMIX GF1 / G VARIO 14-45mmF3.5-5.6)

 久しぶりに石切さんでもお参りしようかな、と思ったんですよね。
 じゃあ上本町から近鉄奈良線で石切駅やな、と、準急に乗り込んで、本読んでたんです。
 気がついたら高安とか恩智とか通ってる。あれ?
 奈良線は地下だよ。地上から乗ったら大阪線で、布施から別れて南の方に行っちゃうよ。

 しかし大丈夫だ、問題ない。
 先日の柏原町歩きシリーズ(12)の続きだ。スポットはチェック済。
 堅下駅で下車して東へ歩き出す。

侍従御差遣之碑など

 外環状線旧道の特に変哲もない交差点に、なにか石碑発見。

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 なんで防災詰め所を六角堂みたいに作ってるのかも謎、この碑についてもノー説明。うーん?

 検索してみると、別の場所の史跡案内看板に記載があると。堅下のぶどう園を視察に来た昭和天皇が、さらなる発展のための情報交換にだろうか、牧野侍従を甲州のぶどう園に派遣してくれたことを記念したものだそう。

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 業平公園、という気になる名前の場所に来てみたものの、小さな児童公園に歌碑ひとつあるだけだった。横の道が業平道とされていて、在原業平が河内と大和を行き来するときに通っていたとのこと。
 ここからもう少し南に行って、竜田越奈良街道を通って大和にいってたそうです。北には高安まで行ってたというけどもうルート不明。私が通ったところと重なってたかもしれない。

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 今日は柏原のちょっと山手を北へと歩いていってたけど、このあたりは古くから斜面が開発されてたみたいで、こんな時代がかった石垣がそこらじゅうにある。戦後とかに作ったらこんな積み方でもないと思うけど。

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 石材をごろんと積んでるところもあったけれど、青石も混じってる。紀州から持ってきたんかな。
 今日歩いて見かけた範囲では、柏原の山手は石垣の町に思えた。

 それから、こんな急斜面の多いところでドゥカティ1198Rを押して歩いてる白人男性を見かけ、流石にしんどそうだから気になってじろじろ見てしまったら話しかけられて軽く雑談。
 で、古民家というほどじゃない昭和風の平屋にドカを押し入れたと思ったら「ここに住んでる」っていうからびっくりした。面白く生きてるなあ。

鐸比古鐸比賣神社

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 鐸比古鐸比賣神社(読めない)。ぬで。
 フィルムでも撮ってたからうっかりデジタルはこの拝殿と案内板しか撮ってなかったわ。

 鐸比古命は、垂仁天皇の御子だそう。
 和気清麻呂の遠祖ということで和気神社に祀られてることはよくあるけど、鐸比古命を主神としてるのは珍しい。

 神社は成務天皇二十一年(西暦151年?)創建で、元は裏の高尾山の頂上にあって、これは今もあるみたい。
 鐸比賣神社も元は高尾山の麓にあったそうで、これは今のかしわら水仙郷の近くにまだあるのがそうかな。こっちは勅願で雨乞いをやってたそう。

 ここからどんどん北へいく。

遠慶寺

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 通りすがりのお寺と地蔵尊。昭和生まれの私には、私が思う日本の原風景ってこんな感じだなあ。民家っぽいけどちょっと違う作りのお寺が住宅地に混じってるやつ。

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 鐘が壁を貫通して設置されている。
 というか、一つ前の写真に写ってた屋根の上のは鐘楼じゃなかったのか。

若倭彦神社

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 小さいけど延喜式内社。
 6世紀頃に若倭部ノ連という豪族?が祖神として若倭彦を祀った、このあたりの氏神様。

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 ちょっと北に碑があって、大池決潰遭難者供養之碑とあった。昭和10年9月1日とある。
 「大池」というのがどれかよくわからなかった。もっと南の、金山彦神社のところの池が大池って名前らしいけど、ちょっと位置が違いすぎる。

山井寺

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 山ノ井町というところにある山井寺。
 融通念仏宗って、てっきり浄土宗と近い宗派なのかと思ってたら、成り立ちから全然違うのね……。平野の大念佛寺から河内の方に広まったのかな。

 前回来た時から思ってたけど、柏原の寺社は高台にお堂がひとつあるだけで他になにもないタイトな作りが多くて、ここもそうだった。坂の町ゆえの作りかな。

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 山井寺の左手奥には、瑠璃光寺という森深いお寺がある。曹洞宗。
 こちらはある程度敷地に余裕をとってて、石碑などがいくつか建てられている。

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 日露戦争の慰霊碑とか、高田川音吉(今の年寄名跡・高田川の元になった力士)の碑とか。現高田川親方(元安芸乃島)もお参りに来るんだろうか。

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 すごく古そうな仏像を囲っている。

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 それから若倭姫神社、さっき参った若倭彦神社の姫神社がここに。
 奥にもうひとつお社があるけど、これは何の説明もなくてわからず。

恩智城~恩智神社

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 戦国時代的には特に知名度のない城だけど、恩智城の跡へ。

 南北朝の頃、恩智神社の神主の末裔でこのあたりの土豪だろうか、恩智左近満一という人が築いた。
 恩智左近は、楠木正成に従って千早城で幕府と戦ったり、四條畷の戦いで押し寄せる高師直の大軍に飯盛山城で戦ったと。恩智城もその戦いで落とされてそのまま廃せられたそう。

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 今残ってる部分は二の丸らしくて、かつては堀を巡らせた本丸が別にあったらしい。堀ももう見当たらないけれど。西側から平野を見下ろせるようになっていて、城らしい展望になっていた。

 後に小学校になってたので、西側に階段とレンガ造りの門柱があった。これは多分小学校の遺構なんだろうな。

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 恩智城から東の山へ上がっていくと、見事な石段の恩智神社へ。
 700年くらい前に恩智左近の一族がつくった石段を、昭和52年にも修復したものだそう。

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 上がっていくと右手に、かつての神宮寺だった天川山感応院というお寺がある。国指定重要文化財の十一面観音像が本尊。
 ここらのお寺はよく整備されてるとこが多いけど、ここは特に真新しくきれいだった。

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 そして恩智神社。創建不詳だけど大和時代頃からの古社。
 延喜式では名神大社。河内に名神大社は四社しかないひとつ。旱魃のときには醍醐天皇や村上天皇の勅使も来て雨乞いをしていったとのこと。

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 祭神は大御食津彦大神・姫大神の二座。彦大神は天兒屋根命の五代子孫で、姫大神は豊受姫大神のことだと。

 なんかもともとはもっと麓の、今は頓宮がある場所にあったそうで、恩智城ができたら「城から見下されてる」と、城の上に遷座したとか。ちょっと大人げないが当時としては重大事なんだろう。

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 頓宮はこんなところで、牛頭天王社が置かれていたから天王の森と呼ばれていたとのこと。
 またこのあたりは弥生時代・縄文時代にかけての遺跡が見つかる場所で、土器や石器が出土する。それを記した碑も建っていた。

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 天王の森といわれてただけに古い木もあったらしいけど、保全樹木だったムクノキも力尽きていたらしい。いまも残る木はあるけれど、森とはいえないな。

安養寺

 さてそろそろ帰ろうか、と恩智神社から降りてきつつ、ちょっと北側に進路をずらしてみたら、なんか変わったお社を見かけた。

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 弘法大師の爪形……?

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 安養寺というお寺の参道。結構疲れてきてはいるんだけど、気になる。

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 うっかりお堂の写真を忘れてたけど、法話とかもやってる活発なお寺。
 浄土宗のお寺で、和泉の浄土宗本山上善寺(私の実家の近所だ)から寺号をもらったお寺だそう。

 この九重の塔は、日露戦争の戦没者慰霊塔だった。ちょっとひん曲がって建ってるし、よく倒れないな。

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 そしてかなり険しい斜面に、路地と階段をいくつも通して、ぎっしりとお地蔵さんやお堂を並べている。多分八十八箇所巡りとかができるようになってるんだと思うけど、通路の狭さと密度がすごい。

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 上の方には大師堂。そういえば浄土宗のお寺なのに弘法大師が多い。

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 それから毘沙門堂もあった。これは恩智左近が堂宇を再建したことがあるらしい。ほんとにここらでは恩智左近大人気だなあ。

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 その毘沙門堂の脇で、なぜかぽつんと鎮座する仏像。なんだろう?

 ここまで見てきた生駒山地西側の寺社の中でも、なんだか情報密度が高くて濃ゆいお寺だった。
 観光案内看板などには書かれてないみたいで、地域の歴史と密着してる恩智神社などとは由緒が違うっぽいんだけど、参って面白いお寺なのは確かだ。

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 最後に食べそこねた昼食を食べに恩智駅近くを探して、ガード下の「虹」という喫茶店でハンバーグ定食。
 昭和で時が止まったような店内に、八十年代男性アイドルの歌がなぜかボーカルキャンセルをかけて流れ、そしてこの一見乙だけど手作りの分厚いハンバーグ。愛おしい。
 時間がずれてたのもあって客は私だけ、お店の気さくなおばちゃんと少し世間話。また機会があったら来てといわれると来なくちゃいけないな。

 次に来るときは、信貴山口駅から南下して恩智駅まで歩いてみるか。


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