山田川の柘榴(K-70 / smc PENTAX-FA J18-35mmF4-5.6)
先日、前から気になってたsmc PENTAX-FA J18-35mmF4-5.6mm、ひょんなことから2000円で見かけてゲットしたんですよ。レアではあるけど別に価値はないのだった。
とはいえ、PENTAX純正では数少ないK-1で使える超広角。いやDFA15-30mmがあるだろって、そんな高いレンズはちょっとなかなか買えない。
曇ってますね。
いや売ってるときにクモリありって書いてたんですが、現場でレンズ見てもあんまりわからなかったから大丈夫だろと思ったら、思いっきり実写に影響するぞ。
まあ、あんまり明るいものが画面に入らなければなんとかなる。フードもついてたしな。
18-35mmだったら、APS-Cでも28-52mmくらいだから、扱いやすい標準ズーム。また軽いし、そんな大きくもないし。
まあ、APS-CでF6.7でも、角でなく辺のあたりでも周辺は甘くなる。K-1だと相当絞らなきゃならんかなあ。
で、これは学研奈良登美ヶ丘駅から東の丘の上から、山田川沿いのほうまで降りようと道を探すと、辰ケ谷というあたりでGoogleマップにもない抜け道を発見して突破したあたり。ここはもう京都府の精華町だな。
日出神社
で、今年の初詣、日出神社。
山田川に日出橋という小さな橋がかかっていて、その近くの道を畑の間を通って上がっていった先にある。
もともとこのあたりは、平安時代に朝日荘という荘園になってたそうで、その朝日にちなんで日出神社と名付けられた……というような大雑把な説明があった。なんかあいだのステップがかなり飛んでる気がするが……。
狛犬があまりにもすり減っていて、かわいいというか胎児みたいになっちゃっている。なんでこうなったんだろう……?
丘に小さく切り開いた小さな神域に、なかなか趣あるお社。
もう少し北西に鹿畑というところに石を祀る神社があったんだけど、平安時代に洪水があって、その石がここまで流れてきちゃった。
そして流れてきた先の集落の人々はその石をゲットし、洪水でやってきたことにちなんでか、雨乞石だと扱うようになった。で、旱魃で雨が欲しいとなったらこの石を山田川に投げ込むという儀式が行われるようになった。
このあたりは今「柘榴」という地名なんだけど、石がここで木に引っかかって止まったから「石留」に木偏をつけて柘榴になった、という伝承もある。
で、多分この石がその雨乞石なんだと思う。お社に納めてるわけではなかった。
1200年前にこの土地の由来となった神石は、土地の名前を生み出し、何度も川に投げ込まれつつ、今も野ざらしにされているのだった。味わい深い。
そういえばあのすり減り果てた狛犬、雨乞石と一緒に放り込まれてたんだろうか。それとも雨乞石が酸性雨を招きすぎたか。
日出神社を出て、山田川を渡って柘榴集落のほうへ。
なんか見慣れない花だな、と思ったら、木の枝に地衣類(ウメノキゴケ?)が繁茂してるだけだった。
日出神社の狛犬もすりへってたけど、集落にこんなすり減った石仏が半分埋まって祀られていた。
今の国道163号が山田川沿いを通っているけど、この道も古くから使われてたはずで、ここの集落も少なくとも雨乞石が流れてくる1200年前より古いはず。その頃からの古い石仏だったりするかもしれない。
東谷神社
レンズの曇りで酷いことになった写真をどうにか救出したけど、ともあれ山田川を挟んで反対側、柘榴集落を見守るように建っている東谷神社。
日出神社よりかなり立派なつくり。定例の祭りも行われているらしくて、地元の崇敬もいまなお続いている神社らしい。
社殿はこぢんまりしている。拝殿の裏に納めるんじゃなくて、むき出しでお社が建ってるスタイル。
しかし不思議なのは、由緒書がない。ネットで検索してもさっぱりわからない。ぜんぜん情報がない。素戔嗚命が祭神だとわかっただけ。
今も立派に活動している神社なのに、ここまで情報がない神社ってのも珍しい気がする。歴史や伝説のハッタリとかご利益がどうとかも必要とせず、ただ神社であるだけで成立している神社なんだろうか。それはそれで哲学的な気がする。
柘榴集落の古老の話とかを聞けばなにかわかるのかな。
どうも、狛犬の生首がこんな小さなお社?らしいものに納められていた。多分破損したのを捨てられなくてこうしたのかな。これまた他所では見たことがない。
それから、なんか裏手に玉垣だったらしい石柱が一本だけ残っている。これも他で見たことないな……。
これはアーティスティックに撮ったしめ縄の影。
柘榴の西国三十三箇所石仏
元文元年(1736年)、中井庄右衛門という人があったのだけど、あいにく娘さんが病弱だった。
娘を救うにはどうすればよいかと八卦見に占ってもらったところ、「娘を連れて西国三十三箇所を参れ」と出た。病弱だつってんだろボケ、と八卦見を張り倒したかどうかは定かでないけど、まあ、第一札所がいきなり紀伊国の果ての那智青岸渡寺なんだから、江戸時代に歩いて旅するのも無理な話。
それで代わりに、三十三箇所を参れるように、写し霊場を作ったのがこれであるらしい。
別に参拝路を巡っていくとかではなくて、まとめて並べられていた。もとからそうなのかはわからないけど、病弱な娘さんのためにというんだから、もともとこうだったかもしれない。
300年過ぎて破損も多いし、背中に板を背負う作りだし、千手観音の手とか素朴だけど、なんだかいい造形に見えるのは、作った経緯を知ってる贔屓目であろうか。
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