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『土偶を読む』を読んだけど(1)

『土偶を読む』という本が話題だ。発売前からNHKに取り上げられ、SNSではここ数日、「土偶の謎がわかった!」、「土偶って植物だったんだ」、「すごい」という声が溢れている。アマゾンの本のランキングでも今見たら品切れ状態で5位。坂道シリーズの写真集くらい売れている。そんな本を今から「くさす」のはなかなか勇気がいることだ、しかし、売れてなかったらわざわざ触れたりしなかっただろう。

当初は期待していた。人類学者が考古学の知見を得て「土偶」を読み解くのは「新しい角度」だ。こういうのは大好きだし、縄文時代は従来の考古学とは違う視点を持った様々なジャンルから読み解くべきだと、以前からずっと思っている。

さらに、この本が出る1,2年ほど前に、著者の竹倉さんの熱烈なサポーターのような方から、竹倉さんの講演を聴きに来ませんかと連絡が来たこともあり(日程の都合で行けなかった)、その熱量がすごくて、そこまで言うなら面白いかもなと興味は思っていた。

で、予約して読んだわけですが…。

正直、発売に合わせてアップされていたネットの記事を読んで、届く前から嫌な予感がしていた。その考古学を扱うには断定的すぎる書きっぷりと、従来の考古学への挑発的な言葉にだ。そして本の表紙の栗と中空土偶の写真。

以下『土偶を読む』で「読み解いている」土偶について、その考察の感想と疑問です。多少のネタバレ(そういうものでもないと思いますが)があります。

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1、中空土偶と合掌土偶

『土偶を読む』は冒頭で「土偶の正体を解明しました」と始まる。続いて土偶とは縄文人達が主食としていた食物をかたどっていたのだと続けている。非常に断定的で、センセーショナルな書き方だ。しかし、多少なりとも縄文時代のことを調べたり書いたりしている筆者には、表紙に乗せられている国宝の中空土偶と栗がイコールで結ばれているところから嫌な予感がしていた。

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確かに中空土偶の顔とクリの実は似ている。竹倉さんは自身の論「土偶は縄文時代の食用植物をかたどったフィギュアである」から、イコノロジー(印象)で中空土偶と合掌土偶(同時代の青森の土偶)はクリの精霊だと断定し、その上で自身の論を固めていく。しかし問題はそのイコノロジーの認知から始まっている。

実はこの中空土偶は完形の土偶ではない。欠けている部分がある。その部分とはこの土偶の頭部に空いている二つの大きな穴のことだ。

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しかし、安心してほしい、この二つの穴についてはどのような形であったかはかなり推測できる類例がある。それは東京の町田から見つかっている。町田の土偶には中空土偶の顎鬚のような部分はない、しかしそれ以外のデザインは瓜二つと言っていいだろう。

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そう、中空土偶にはもともと頭からラッパのような突起が二つ付く土偶だと推測されているのだ。さらに同時代の同文化圏の注口土器(急須のような注ぎ口の付いた土器)にも同様の顔と同様の頭の突起がついている。

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これを見て、土偶はクリの精霊だと言えるだろうか。

また、同様の顔と頭を持つ注口土器がいくつも出土しているということを考えると中空土偶もまた液体を入れていた可能性もある。液体と栗の精霊、食物儀礼、ちょっと遠くなったけど、まあもちろん無くはない。スペルマ=クリ=液体という論も考えられる。ただしその場合は食物儀礼ではなく、再生儀礼の方に近づいていく。ちなみに中空土偶には足の間に注ぎ口がついている。クリと読み解かなくてもめちゃくちゃ面白くないですか?中空土偶。

あと、北海道の土偶と東京の町田の土偶がそっくりなのもめちゃくちゃ興味深い。

カックウです

ただ思うのはこの頭の欠損部分、二つの穴、類例について『土偶を読む』では触れていない。このことを知らなかったと言うのであれば、明らかな調査不足(研究者であれば誰でも知っていること)で、もし知っていて触れなかったとしたら、あまりにも恣意的な資料の選択と言えないだろうか。結論ありきでデータを探していないだろうか。センセーショナリズムのために何かを売り払っていないだろうか。

日本の考古学は過去に、あるセンセーショナリズムのために大きな傷を負い、その傷はいまだに癒えていない。だからこそ冷静に、慎重にモノを見て発言する必要がある。

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※中空土偶の欠損については著者の竹倉さんから記述したとの指摘があり、ここにお詫びします。しかし、その記述はエクスキューズの意味合いが強すぎるんじゃないかと思います。章の終わり間際に注的な小さな記述も感心しませんし、これは栗太郎の帽子のようなものというのも、矮小化がすぎるのでは。縄文人が聞いたら怒り出すんじゃ…。あの突起が装飾か機能かに関わらず、類例がいくつもあるということは、突起はそもそもこのタイプの土偶のデザインの一部と考えるべきではないかと思いました。

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「土偶は縄文時代の食用植物をかたどったフィギュアである」とは、正直に言えば「その視点は面白い」である。イコノロジーを出発点にすることも面白い、しかし、この本で挙げられているデータは恣意的な部分が多いように感じる。「イコノロジー×考古学」と銘打っているほどに考古学の視点があるのかは疑問だ。冷静に見て竹倉さんは土偶研究のとば口にいる段階のように見える。「謎を解いた」はどう考えても言いすぎた。

本書でも書かれていたが、竹倉さんは研究者にある種の門前払いを食らっている。恨み節も見え隠れする。そのためか、共同する考古学者がいない状態でこの本を書き上げている。惜しむらくはこのことで、充分な考古学の知見を取り入れることができなかった。

それとも考古学の知見と自身の論のソリが合わなかったのか。

他にも中空土偶と合掌土偶で突っ込みたいところがいくつかあるのでこちらも並べておく。

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合掌土偶の身体の文様を「クリのイガ」と論じているのだが、この文様は同時代の土器からの転用である(土器と土偶はなかなかに切り離すことはできない)。またこの縄文の施文の仕方はすでに縄文前期から使われている「羽状縄文」という。だからこの土偶のためのあつらえた文様ではないことは明らかで、またイガを表現するならもっと違うやり方もあるんじゃないかと思う。

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合掌土偶の顔だけ見てもクリには見えない。また、顔の下半分を横断する区画文は、正直に言えば類例はそんなに多くない。以下に合掌土偶と同時代の座ったり腕を組んだりしている土偶を紹介する。わんぱくな顔つきの彼らを見て欲しい。クリ、では無い。それよりこのポーズ、なんなの?

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2.ハート形土偶

ハート形土偶はクルミだ。こちらもセンセーショナルな対比で、見た人は「絶対そうだ!」となってしまうかもしれない。確かにこの二つは似ている。しかし、これも類例の選び方と写真の角度が恣意的すぎる。

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そもそもハート形土偶と名付けられている一連の土偶たち(本書であげられているのは群馬県のもの)、思っているよりもハートではない。次に上げる写真はハート形土偶の出現期のモノだ。クルミかと言われるとちょっと首を傾げたくなる。

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またハート形土偶の特徴はその「顔」だけでは無く、「顔の付き方」も特徴だ。顔はほとんどが平面で、もし植物だとすると薩摩芋の葉っぱの方が似ている気がする。横から見ると飛び出ているように付けられているのも特徴だ。これ、あんまりクルミじゃ無くないですか?

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ハート形土偶じゃないけど下の長野県の井戸尻考古館のこの土偶の顔も輪郭がややハート形になっている。もしかしたら顔の立体感などを考慮に入れるとこちらの方がクルミに近いのではないでしょうか。

実は縄文時代の土偶には時期や範囲を超えて眉毛を強調したかのようなデザインが採用されている。ハート形はハート形土偶だけではないのだ。それはなぜか?僕にはそちらの疑問の方がより面白い。

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クリやクルミ、後から出てくるトチノミは縄文時代の主要な食物で、それに対して縄文人がどんなアプローチをしたのかはっきりとはわかっていない。『土偶を読む』では植物食料の儀礼は全くと言っていいほど行われていないとして、土偶が植物祭祀のそれにあたると断言しているが、様々な遺跡から炭化したクリやトチやクルミが見つかっている。今、横浜の歴博で岩手の御所野遺跡展がやっているけど、そこにも展示されているので、ぜひ見に行って欲しい。これは植物の「送り」の儀礼だと言われている。

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『土偶を読む』で欠けている視点は圧倒的に土偶の編年だ。土器の編年もまた関わってくる。土偶のデザインは突然出来上がるわけではなく、前の時代や周辺の土器や土偶のデザインから引用され、変化し、一つの型式となっていく。そこにははっきりグラデーションが見て取れる。例えば一つの土偶をイコノロジーの視点で「似てる!」と言っても、結局はただの印象論だ。僕もよくやっているし得意だ。その前後を考えなければ土偶の謎は解くことができない。

ちなみにハート形土偶の前の段階は板状土偶と言われている。ハート形は北関東あたりで成立する土偶だが、東北地方でよく作られていた板状土偶にその萌芽を見つけることができる。先に挙げた中部高地の井戸尻考古館の土偶とはあまり繋がりはなさそうです。

これらを見るとあんまりクルミ関係なさそう。

写真は2019年に開催された群馬県立歴史博物館の「ハート形土偶大集合」展の図録から(ハート形の種類の写真も同様)、これを見に行っていれば…

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全部の章に疑問点があるのですが、時間があれば残りを書きます。反射神経で書いてるので、間違えがあればご指摘ください。

謎を解いたはあきらかに言い過ぎだけど、「ひとつの説」として面白かった。正直に言えば、ここから何かが生まれる可能性も感じた。しかし、現状では本の中で揶揄している「俺の土偶論」そのものだ。それにしても従来の考古学にたいしてけっこう挑発的なのはどうしたことなのか。


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