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あの亀ヶ岡の遮光器土偶(しゃこちゃん)を掘ったのは蓑虫山人かもしれないというお話。

もちろん、亀ヶ岡出土の遮光器土偶といえば、多分縄文時代の土偶全体の中でも一番有名なあの左足の無い遮光器土偶のことだ。「しゃこちゃん」と呼ばれ広く親しまれている。それこそ縄文時代のアイコン的にアニメに登場したり、さまざまな図録や雑誌の表紙も飾っている。さらにはしゃこちゃんのふるさとであるつがるの木造駅はでっかいこの遮光器土偶の駅舎で有名だ。

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一方、蓑虫山人とはそれほど有名な人物ではない。明治時代の家を背負った放浪の絵師で、青森にも深い所縁がある人物だ。「家を背負った?」と思った人もいるかもしれない。そう、家を背負って旅をしていたから蓑虫。不思議で可笑しく、かつ清々しい生き方をした人物だ。

筆者は蓑虫山人の評伝『蓑虫放浪』を昨年末上梓した。もしこの人物を詳しく知りたければこちらを読んで欲しい。簡単に言えば蓑虫山人は「サブカルポップ仙人」だ。と言えばなんとなくの雰囲気がわかるだろう(わかるのか?)。

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蓑虫山人と縄文時代

蓑虫山人が青森を放浪していた時期は明治11年から20年頃。今回の話はその時のことだ。蓑虫は青森に入りすぐに縄文時代の土器や土偶に目覚める。

モースによる日本初の学術調査である大森貝塚の発掘が明治10年と、日本の考古学は未だ黎明期。当然縄文時代という名前は定着しておらず、蓑虫は縄文時代の土器や土偶のことを「神代品」と呼び、それらを所蔵している人たちを訪ねてスケッチをし、また自分でも土器を集め、発掘まで手がけることになる。もちろん当時の発掘は今の学術的な発掘とは違い、一部の先進的な研究者を除けば宝探し的な意味合いが強かった。もちろん蓑虫のそれも例に漏れず、今と比べればずいぶん雑な発掘だったのだろう。

青森では人に恵まれる。弘前で、国学者で画家の平尾魯仙と出会い、多くの魯仙の弟子や歴史学者と親交を深めることになる。特に歴史学者の下沢保躬、広沢安任、魯仙の門人である佐藤蔀らと、遺跡や考古学などの情報交換を頻繁に行っていた。その中でも16歳年下の佐藤蔀とは大変に親しくなり、お互いに影響を与え合い、良き理解者となっていたようだ。

また、下沢と佐藤蔀を通じて明治政府高官の神田孝平という人物を紹介される。当時神田は「東京人類学会」という日本においてはじめて考古学を研究する団体の立ち上げに携わり、その調査のために東北を訪れていた。政府高官と放浪の変人旅絵師という立場の違いを超え、二人は意気投合する。出身が同じ美濃で同じ考古趣味、話が合ったのだろう。以下が神田が東京人類学会誌に蓑虫を紹介した文だ。印象深い出会いだったことがわかる。

浪岡と申所にて蓑虫と号する奇人に逢ひましたが、此人至て古物ずきにて所蔵沢山あるよしなれど、皆弘前に預け置きたれば手元にあるは是斗なりとて、瓶ヶ岡(亀ヶ岡)掘出しの壺を以って造りたる烟草入れに同種の土偶の首を根付にしたる者、一寸五分斗もある翡翠質の大緒〆、ならびに蕨手の鉄刀などを見せられました。別人の話に此老人、茶道具一式を瓶ヶ岡土器にて取揃えて愛玩して居ると申す事を承りました

蓑虫山人と亀ヶ岡の遮光器土偶

実は、亀ヶ岡の遮光器土偶(=しゃこちゃん)はその出土状況がはっきりとわかっていない。学術的な発掘ではなく、地元の方の所蔵品として歴史の表舞台に登場する。一説には明治19年に発掘されたとだけ伝わっている。

さて、表題の蓑虫山人があの遮光器土偶を掘ったのかどうか。筆者は蓑虫山人がこの土偶を掘ったと考えているのだが、実はここでは断言できない。なので、いくつかの当時の確実な状況証拠をここで時系列として上げることにする。

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蓑虫山人は亀ヶ岡遺跡にはかなり前から目をつけていたようだ。それは中央の東京人類学会や考古学会よりも早かった。明治17年と20年に亀ヶ岡を発掘しているという記録がある。特に20年の発掘ではその様子を神田宛に報告し、その手記が明治20年6月に発行された東京人類学会報告第2巻16号に掲載(下原文)されている。

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このままだと読みづらいので、以下に要約し書き下す。これは本当に重要な文なのでぜひ読んで欲しい。

「亀ヶ岡で未曽有の発見!ーー四月上旬、西津軽郡亀ヶ岡において古今無双の珍物を発見いたし申候。当日、私自ら鍬をとり人夫たちと共に、土中一尺ばかりを掘り出したところ、忽然と瓶十個、石剣五本、曲玉四個、人形(土偶)一対、玉質磐石(磐石の意味不明、翡翠の大珠か)及び菅玉無数を封したる壺一個を発見せり、土偶は男女二人を模したる者にして、一個は乳を具し胸に角玉様のものを飾り、頭の後に結髪、一個は冠を被り左右の腕に大礼服のような模様が彫られ、古代首長を模しているもの。とにかく無類に御座候。しかし、発掘に三日間を費やしたため、分け前の分配について人夫たちが紛糾してしまい、一つの人形が罵声の声と共に数個に砕け申候。私はといえば、さんざん説法を聴かし曲玉四つ、磐石一、石剣若干と、壊れてしまった人形を手に入れることができた。此人形一対考古学者にとりて無上の佳品と存じ候。瓶及人形(完全なる者)は非常の高値にて私などの及ぶ所にあらず。図は後便に託し差上申す可く候」

数個に砕け申候ーーこのくだりは「おいっ」と突っ込みたくなるほど雑なオチがついていて、いかにも蓑虫らしい話ではある。最後の「図は後便に託し」という文言も覚えておいてほしい。

そもそも亀ヶ岡遺跡は、掘ると瀬戸物・甕が出ることから「瓶ヶ岡」などと呼ばれ、戦国時代から地元では有名な場所だったのだが、蓑虫の寄稿が亀ヶ岡遺跡を初めて中央に紹介した文となる。この寄稿から2年後には 初の学術調査、明治28年と29年にはさらに大規模な調査が行われたことを考えれば、この遺跡がこれ程までに有名になったのは、蓑虫山人の報告がきっかけだ。これは、一つ、蓑虫山人の大きな功績と言えるだろう。

この亀ヶ岡での未曾有の発見の報告から5ヶ月後、明治20年11月に発行された第3巻21号。この号の巻末に蓑虫山人と交流の深かった佐藤蔀の描いた遮光器土偶のスケッチが二つ折りの綴じ込み付録のように掲載されている。これが「しゃこちゃん」が中央に紹介された初めての瞬間だ。さてこの図の解説はといえば、巻末にこう書いてある。「瓶ヶ岡土偶図解は出版の間に合はざりし故次号に譲る」。どうやら間に合わなかったようだ。

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さて次号。待望の解説が載っている。

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上段がその解説となる。署名の淡涯(たんがい)とは神田孝平の雅号である。土偶図解―前号に佐藤蔀の遮光器土偶の図が掲載されていると書かれ、解説として下澤(下沢保躬)の記文(解説文)が続く。それからその造形の説明、発掘した場所と明治20年5月に発掘したとのこと…。(ここで明治19年説は無くなる)

実はこの文には一箇所間違いがある。この文章の元となった紙片が弘前大学に残されている。それによると「大ノ人形図、西津軽郡舘岡村加藤氏ノ蔵、堀得タル時ハ明治二十年四月ナリト云」こちらが一次資料にあたる。

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そう、蓑虫山人が「亀ヶ岡で未曽有の発見!」と報告してきた発掘と同じ4月にしゃこちゃんは掘られているのだ。

実はこの「瓶ヶ岡土偶図解」の掲載の下段には神田と蓑虫山人のエピソードとなっている。要約すると、蓑虫山人が東京の神田の自宅に訪ねてきた時のこと(明治20年8月ごろ)頼まれていたいくつかの土器や土偶を神田に譲ったという。その中には「未曾有の発見」で粉々に砕けた亀ヶ岡出土の土偶も含まれていたという話だ。

ここからは想像も入る

ここまでは文字や図に残されたほぼ確実な証拠である。先にも述べた通り、筆者は蓑虫山人が「亀ヶ岡で未曽有の発見!」と報告した、壊れなかった方の土偶が例の遮光機土偶(しゃこちゃん)だと考えている。「亀ヶ岡で未曽有の発見!」報告の中で書かれている土偶の様子「一個は冠を被り左右の腕に大礼服のような模様が彫られ、古代首長を模している」は確実に遮光器土偶を評したもので、遮光器土偶(同じ遮光器土偶でもバリエーションがある)の中でもしゃこちゃんについて書いた文章としても矛盾しない。

またこの時点で多くの土偶を見てきた蓑虫山人(蓑虫は、明治十五、六年頃に青森内の「神代品」とその所有者を記した「陸奥全国神代石幷古陶之図」という巻物状のスケッチを残している。ここには、実に110点もの縄文時代の「神代品」が描かれ、蓑虫所蔵のものも33点含まれている)の言う「此人形一対考古学者にとりて無上の佳品と存じ候」はやはり相当な「無上の佳品」をあらわしているのではないだろうか。もし、しゃこちゃんがその「無上の佳品」ではなかったとしたら…、正直、亀ヶ岡遺跡出土で他に候補は見当たらない(あれば教えてください)。

ではなぜ、蓑虫は自分でこの図を描かなかったのか、なぜ、報告までにこんなに時間がかかってしまったのか。文献などは残っていない。あくまでも想像の域を出ない話ではある。しかし、一つの推理として読んで欲しい。

「亀ヶ岡で未曽有の発見!」の時、報告でも書かれている通り、蓑虫と作業を手伝った人夫たちは争いごとになってしまった。それゆえにその場でスケッチをすることができなかったのだろうと思う。また、当時の蓑虫山人は放浪の身、もしスケッチするためにこの土偶を渡したら盗まれてしまうのではと、人夫たちに警戒されてしまってもおかしくない。だから、報告の際には図は送れず、「図は後便に託し差上申す可く候」と書くのが精一杯だったのではないだろうか。

蓑虫はその後、5月には書画展に参加し、6月には三沢で古器物展に参加する。さらに8月には東京に上京している。と、かなり忙しく動き回っている。だからこそ、仲の良い佐藤蔀と下沢保躬にスケッチと解説をお願いし(二人は地元の人間でまた魯仙の門人というのは信頼としてはかなりの肩書きだ)、神田に送ってもらったのではないだろうか。「亀ヶ岡で未曽有の発見!」の後、「後便に託す」とされた図は、蓑虫山人「関連」では佐藤蔀のこの図しかない。


以上の考察で筆者は亀ヶ岡の遮光器土偶(しゃこちゃん)を掘ったのは蓑虫山人だと考えている。確実な証拠は確かに無い。しかし、状況証拠は少なくないことはわかっていただけたと思う。

どうしようもないエピソードではある。だけど、もしそうであればこれもまたこの土偶のストーリーだ。ストーリーに厚みがあればあるほど、モノには重みが増すはずだ。確実じゃなくても、「もしかしたら」と括弧書きでもいい。亀ヶ岡の遮光器土偶(=しゃこちゃん)にこのエピソードを加えてくれたら、しゃこちゃんは、さらに愛される存在になるのではないかと思う。


※以上の考察と文は書籍『蓑虫放浪』からの亀ヶ岡の遮光器土偶の部分の抜粋である。土偶の話もこれだけではなく、また、蓑虫山人の放浪は多岐にわたり、変な話がたくさんある。彼のことをもっとよく知りたい方はぜひ、本書を読んでみてください。ほんと面白いおじさんなのです。

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装丁には蓑虫山人にならって、楽しい仕掛けをほどこした。帯はミニ掛け軸になる。これは本を買った人だけが楽しめる仕掛けだ。


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