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「食は最高のコンテンツ」。そう言い切った大将がくれたのは、第二の故郷の味だった。

ガラっと扉を開けてみると、
カウンターの奥に立つ中年の男が、目をまん丸にしてこちらを振り向いた。
「いらっしゃいませ」を期待していたこちらも一瞬、固まるほど、それは見事な「お前だれ?」感。
目は口ほどに物を言うともいうけど、あの、ここ、お店ですよね?

「空いてますか…?」
引き戸に手をかけたまま、私は一応、声をかけた。
外にメニューの立て看板が出ていたのは見間違いじゃないはずだ。
「牡蠣のオイル漬け」「和牛のタタキ」、そんな言葉の下にあった「日本酒各種500円から」の文字に惹かれて決心したのだから。
土曜の夕方6時、東京の路地裏にある小さな瀬戸内料理屋。やらない理由はないはずだ。
例え予想外に無愛想な男が、まるで招かれざる客でも見るようにこちらを眺めてみようとも。「あれ?入っちゃダメだった…?」と一瞬後悔しそうになろうとも。

男は気を取り直したように、「どうぞどうぞ」とカウンターの真ん中あたりを手で示した。
どうやらこの人が大将で間違いないようだ。
気まずい邂逅がが生まれてしまった理由は分からなくもない。
だってこの店、大将以外、誰もいないんだもの。
こじゃれた隠れ家小料理屋もいいけれど、本当に隠れてしまっているように、ひっそりとしていた。
いいのか、角の餃子屋は行列ができてたぞ。

そこはカウンターの前に6つほどの椅子が並ぶ、小さな小料理屋だった。オレンジの蛍光灯に薄明るく照らされて、行儀良く並んだ酒瓶がつるりと光る。奥には輪切りのレモンとみかんが漬けられた貯蔵瓶が二つ。「レモン酒」「ミカン酒」とそれぞれマジックで書かれた紙が貼り付けられていた。その隣の木箱に山のように盛られたみかんは、ところどころ色が変わっていた。

何にしましょう、と聞かれる前に、「ビールください」と言ってみる。
その頃にはもう大将にも、妙に行儀の良い酒瓶と無造作なみかんにも好感を覚え初めていて、先手を打ったようで楽しくなってくる。

まずはぐいっと一杯。
そしてカウンターの向こうのメニューを見つめた。
大将は何も言わない。私も何も言わず、アットホームな店内とはちぐはぐの気まずい雰囲気が漂う。初めての店なんて、こんなもんかしら。

「近所の方ですか?」
大将が口を開いた。さきほどの訝しげな目つきはない。
ただ見慣れぬ客に戸惑っているといった様子だ。たぶんさっきは、単純に純粋に、びっくりしたのだと思う。
それもそのはず、このご時世だ。繁華街から少し離れてしまえば、路地裏の店に酔い客がたどり着くことが減っても不思議じゃない。

「そうです。帰りにここを通る度に気になってたんです」と私は答えた。うそではない。ひとりで飲み屋に入ったりしない私が、引き戸を開けてみたのには理由がある。

牡蠣のオイル漬け、和牛のタタキ、真鯛のカルパッチョ。
どれも私にとってとても、懐かしくいとおしい味なのだ。

ビールを飲み干した私が「日本酒おすすめありますか?」と聞くと、
大将はうれしそうに「どんなのが好きですか?」と聞いてくれた。
そして出したくれたのは、大きな一升瓶。
きりっとさわやか、
とろり、グラスに降り注ぐ
「雨後の月」。

それはとても懐かしい名前だ。私にとって「酒所」と言えば、若い頃に少しだけ暮らした広島である。

「第二の故郷」などと言うには甘酸っぱすぎる。
ちょっと遅れて大学を出たばかりの24歳、見知らぬ土地に降り立った。
失敗ばかりの毎日。何か間違えては「ああ、そうだったのか」を繰り返す毎日だった。
落ち込んでは同僚や友人と飲みに行き、ビールにお好み焼き、キビナゴの刺し身に日本酒、広島レモンをたっぷりしぼったサワーなんかを夜な夜な若いお腹に流し込んでいた。
休みの日、川沿いの牡蠣料理屋で1500円もするランチにワインもつけちゃったりなんかして、社会人すごいなって思ったりもしたなあ。それから、地元の人を誘ってオイスターバーに行った時に「こんなこじゃれた店でかしこまって牡蠣を食うのは県外の観光客だけ。地元では牡蠣は山盛りのフライで晩ご飯に出てくるもんだ」と怒られたのも懐かしい。

自分には何ができるのか、何をすべきなのか、何者としてならこの世界で生きてゆくことができるのか、何もかもがまだ分からなかった。
哀れでかっこわるくて、情けなくて、でも一生懸命で可愛くもある自分自身を、慰めてくれたのはあの土地の人々と、料理とお酒だったのだ。
街に受け入れられて、街に学んで、よちよち歩きで踏み出したんだなあと今になって思うのだ。

「私、むかし広島に住んでたんです」。

そう言うと、大将は、おおっと目を輝かせた。生牡蠣を頼み「ぷりぷりですね」と喜べば、「最高の時期のはこんなもんじゃないっすよ」とにやり。「雨後の月」の懐かしい味にも刺激され、牡蠣筏の並ぶ呉の海の風景が、大将の笑顔越しにぶわっと蘇った。

気がかりだったのは、すっかり打ち解けて盛り上がっても、店にはひとっこ1人現れなかったことだ。

「コロナでさっぱり。半年間も店を閉めて、やっと再開してもこの通りですよ」と切なげに首を振る大将。
10代で食の道を志し、イタリアンで経験を積んで地元・広島料理の店を開いたのは、酒や食材の生産者への思いがあるからだと話してくれた。

「食ってコンテンツなんですよ。すぐそこにあって、口にすることで元気が出たり、知らないものを知れたり。身近でこれ以上ないコンテンツだなって思って、やってるんですけどね」。

食はコンテンツ。
その通りだった。おそるおそる引き戸を開けてから、カウンター席に腰掛け、一杯のビール。それから懐かしい食材や日本酒、大将の笑顔。
何より、この空間が思い出させてくれたのは、やっぱりこそばゆくても「第二の故郷です」と言ってしまいたい、瀬戸内海の美しいあの場所と、舌が忘れられない優しい料理だ。

扉を開けた瞬間、大将がびっくりしたような、戸惑ったような顔をしていたのはきっと、このコロナ禍で、早い時間から1人で飲みに来る客なんていなくなっていたからではないか。そう思い至りながら、2杯目の日本酒を頼んだ。

そして感謝した。偶然であっても、ここにこの店が存在してくれて、ありがとう。
そうこうしているうちに、この日2人目の客がやってきた。
それを合図に私はあいさつして店を出た。
手には大将が分けてくれた広島直送のみかん。


このコロナ禍の東京の片隅で。
ここで飲む一杯を、失いたくないと強く思い、ちょっとふらつく足取りで帰路についた。

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