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思い出すこと

前回


 彼と初めて顔を合わせたのは、今からだいたい1年前のこれぐらいの時期ことだ。もうすぐ年が明けるから、じきに2年になる。あるいは、もうなっているかもしれない。どちらにあるにしても、そのとき彼が涙を流していたのを私は確かに覚えている。

 泣き顔がどの角度からでも美しく見えるように――と、造られているとのことだった。そして実際に本物を目の当たりにしたら、確かにそうなるように設計されているらしいのが一目でわかる。
 彼は葬式で会ったら目を惹きそうな顔立ちをしていた。肌は永訣の日にふさわしく適度に血の気が欠けた色をしている。けれども全く機械的というわけではない。まつ毛の陰が落ちている眼元は、瞳に嵌め込まれた人造エメラルドの輝きと色合いとにあいまって儚げに思えた。とはいえ弱々しいというのでは全くない。そんな風に絶妙な塩梅に計算されていた。

「彼は100年という長きに渡って人類のためによく働き、我々の魂のために尽くしてくれた。しかし今回の次世代機導入とOSの大規模更新を契機に、後進に活躍の場を譲って堂々たる勇退となる」

 自室のソファで寛いでいるバイオノイドをマジックミラー越しに見やりながら、隣にいる所長が言う。また私も所長と同じように、彼の姿を眺める。
 仕事の性質のためか、植物の多い部屋だった。白いバラとか蘭とか、ユリや白菊などの鉢植えがそこかしこに置かれていて、室内はちょっとした庭園のような様相を呈している。そんな中に彼はいた。
 椅子に彼はじっと座っている。とはいえ目の前に飾られた花々を眺めているわけではなかった。本を読んでいるわけでも、映画を見ているわけでもない。ただ、ぼんやりとその場に座っている。遠くを見つめている表情からは、どのような感情を内心に抱いているかはうかがい知れない。ただ、ただ物憂げな印象だった。

「つまり、お払い箱ですか」私は言う。
「口を慎め。彼はこのあいだまで私や君や、その他の有象無象の代わりに難しい任務にあたっていたのだ。私たちが血の通った人間である限り、彼に敬意を払わずには済まされない」

 そこのところが退院してからのお前の悪いところだ、と所長は私に向かって口にする。ついで、ほれと冊子をこちらに手渡してきた。辞書くらいある分厚い冊子だ。そうして、これは取扱説明書だと相手は述べる。

「職務から身を引くとはいえ、彼はまだ十分に機能する。人間で例えるなら健康的な身体があって、そのうえ予定に大きな空白が出来たということだ。もっとも仕事に捧げられていた時間よりも遥かに短いものだろうが」
「前途洋々のセカンドライフとは結構なことですね。羨ましい限りで」
「その限りある時間を実り豊かなものにしてほしいと私たちは考えている。君にはその手助けをしてほしい」
「手助け?」
「彼の生活上のパートナーとなることだ」

 はあ、ととりあえず私は相槌をうつ。けれども内容を受け入れたというわけではない。上司から命じられたことが、私には上手く呑み込むことが出来てはいなかった。
 長きに渡る入院生活で体力も低下しているし、人事不省だった頃のブランクもある。空白期間のあいだに、普及した技術について勉強三昧の日々だ。そのうえプライベートでも定期検診やカウンセリングで目まぐるしい忙しさだ。

 もしかして、お払い箱にされたのは自分の方か? 間接的に仕事をやめろといわれている?

「簡単なことだ。君は24時間のあいだ彼の傍にいて、日常の中での疑問に答えればいい。熱暴走を未然に防ぎ、フリーズが発生したら適時処理してくれ。型落ちになったとはいえ、彼は電子計算機だ。人間とは違って、言われたことは一度で覚えるだろう」

 じゃあ、頼んだぞ。相手から発せられる声音は、いかにも気楽そうに聞こえた。まるで引き出しを開けて適当な靴下を選ぶみたいに。そしてそのまま、所長は立ち去った。

 何気なく、私はもう一度彼の方を見遣る。そうしてあちら側にいる彼と向き直った瞬間、わっと短く声を上げてしまう。眺めようとしていた相手と、マジックミラー越しに目が合う格好になったからだ。
 大きく目を見開いて、驚いたような顔つきをしていた。話が聞こえてしまったのかもしれない。そんな考えが頭をよぎる。
 なんとなしに、私は彼に向けて手を振る。もちろんあちらからは何も見えないはずなので、相手がこっちに向かって振り返すことはない。それでいて向こう側にいる彼がじっと自分の方を見据えているので、くすぐったいようなそうでないような、怖いようなそうでないような何だか不思議な心地がした。

      *

 それから数か月後に共同生活が本格的に始まった。3月。まだ春が始まったばかりのころだ。

 引っ越しの作業は予想よりもスムーズに進んだ。あらかじめ立てた計画に沿い、引き継ぎ業務の合間をぬって家具を少しずつ運び出したり、日用品や生活必需品などを揃えたりしていたのが良かったのだろう。何よりお互いに持ち込むものが少ないのも大きかった。だから新居に移った日の夕方近くには、水回りや寝室などすぐ使う場所はすっかり片付いていた。

 その次に、彼が行ったことは庭先に花壇を作ることだった。かつて与えられていた部屋と同じように、自宅の庭を白い花でいっぱいにしたいのだという。とはいえ、それは 大変な仕事なるだろうというのは容易に察せられた。なにせ名も得体も知れない侵略種の草木が生い茂る、ぼうぼうとしたありさまだったのだ。
 彼は丹念に除草や伐採、あるいは根扱ぎをして、石を砕き、肥料や薬を散布して、しかるべき土壌を整えてきた。愚痴ひとつ零さないで、黙々とやらなければならない作業を確実に着実にこなしていく。その努力の甲斐あって野放図に広がっていた空間は、数か月で何もなかったようにすっかり拓けた。

 彼はそのぽっかりと空いた場所に、水仙や紫陽花を持ち込んで育て始める。まるで割れやすいグラスを扱うみたいに慎重に。その成果はやがて芽吹き、次々に花開いた。花々のほのかな香気は絶えることなく、季節ごとに違う種類の匂いが漂う。かつて荒れ果てていた場所は、彼によってこのような美しい庭に変えられた。そのあまりにも素晴らしい発展具合に、空間を造り上げた彼自身でもときおり見入っていることがある。
 そんな彼の庭に、あるとき新しい花が加わった。なんでも夾竹桃の株をもらってきたので植えるのだという。

「人手が増えたら助かる?」
「いや、いい」

 これは僕だけでやってしまいたいから、とスコップで腐葉土を袋から鉢の中に移しがら彼はそう答える。こちらに背を向けているので、相手がどんな顔つきをしているのかはわからない。また平坦な発音かつ事務的な口調なので、ニュアンスを感じ取るのが私には少し難しかった。
 彼がしゃがみこんで土をいじっている姿を、リビングにいる私は窓ガラス越しにぼんやりと眺めている。自分が薄暗い室内にいるのに対し、庭にいる彼は5月の陽光を一身に受けているために、何となく舞台上にいる俳優を見ているような気分になった。おそらく、なまじっか体躯が整っているせいだろう。太すぎず痩せすぎない、しかし適度にバランスが崩された本当に絶妙な体格だったのだ。
 そこでどうして、と私は彼の背中を見ながら考える。はるか昔の技術者は、彼をこんな美しい容貌に作り上げたのだろう? 彼に限らず、バイオノイドというのはどれも見目麗しくあらねばならないのだろう?

 彼が家の中に入ってきたのは、それからしばらく経ったころだった。おやつにリンゴを剥いていると、彼は両手をきれいにしてリビングに戻ってくる。彼は万事にそつがないから、顔に土や泥がついているということはない。身だしなみが整っているというのは良いことだ。
 私たちは切り分けたリンゴを茶うけにして、ダイニングでお茶を飲んだ。室内はリビングと隣続きになっているために広々としていた。大きな窓だってある。目の前にいる彼とほぼ同じ背丈くらいの大きさで、きっと晴れた日の朝に窓を開けたら、風が吹き抜けてとても気持ちがいいだろうなと思うような窓だ。そしてその窓からは彼が整地した庭が見える。

「剪定枝の処理については、役所に問い合わせして確認したから安心していい」

 燃えるゴミに出せばいいのだと、フォークでリンゴを刺しながら彼は言う。

「あと一月か二月したら盛りの時期になるから、ちゃんと世話していれば開花するはずだよ。楽しみだ」
「あの木には、どんな色の花がつく?」私は訊ねる。
「白い花」

 間髪入れずに彼はそう答えた。こちらの胸にえぐり込んでいくような強い口調と、真剣な顔つきで。そしてこう続ける。

「赤とか黄色とか夾竹桃の色合いは様々だけれど、あの木には白い花がつく。そんな木を僕が選んで、もらってきた」
「好きなんだね。白が」
「うん。白い花に囲まれているのが好きなんだ。きっと棺の中にいるのはこんな感じなんだろうなって。それで何にもしなくていい気がして、ちょっとだけ安心できる」
「本物のお葬式なら、そのあとは燃やされるだけだけどね」
「でも、これはしょせんごっこ遊びだから」

 そうだね。――私はそう言ったきり、口を噤んでしまう。居心地が悪かった。何だか聞くべきではないことを、予想外に耳に入れてしまったような気がしたからだ。

 また 気分にもなる。こうやってリンゴを食べたり、花を植えたりする以上に(それも大切なことなのだけれども)もっと重大なことがあるんじゃないだろうか。病気や怪我のときにベッドの上で安静にするのと同じくらいに、大事で切迫した何かが。そして、その中に自分という存在は不用なのではないだろうか。その疑問は1年が経った、今でも変わってはいない。

      *

 時計の表示が午前0時に切り替わると同時に、空を切る音が響く。次の瞬間、わずかに間を置いて衝撃音とともにバルコニーの上空で花火が炸裂する。赤や黄、緑や青など様々な色合いの火花が暗い空を照らして、散っていくさまは本当に目を奪われるものだった。同時にこの光景は私にささやかだけれど、深い充足感を与えた。少なくとも年明け早々に素晴らしいものを見られたと私は思う。そのぶんだけ、彩り豊かな光がすぐに消えてしまうのが、なんだか切なかった。

 やっぱり火薬の配合は、毎年変えているんだな。そう隣にいる彼が言う。

「その組み合わせというのは何通りくらいあるんだろう」
「具体的な数字はきちんと計算してみないとわからないが、とりあえず万単位は余裕でいくんじゃないか。知らないけど」
「そっかあ」

 同時に再び、花火が上がる。輝きがぱっとあたりに広がり、瞬時に収束する。隠れて見えなくなった。暗さの中で私は口を開く。ねえ――。
「今年もよろしくね」

 うん、と彼は答えてくれる。私はさりげなく隣を顧り見た。けれども、彼が今どんな顔つきをしているのかは、夜闇に紛れてしまっていてよくわからなかった。

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