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執狼記 2-4

※動物を虐待する描写があります。ご注意ください

 あくる朝、私はまた若君と森へ入りました。私の記憶が正しいのなら、その朝は曇り空だったはずです。

 この日は猟犬に先導してもらい、例の野原を越え、いつもの行動範囲よりもさらに奥へと進んでいきました。そうして広々とした川幅がどんどん狭くなるのを横目に森をかき分け、雪で凍りついた枯れ葉や岩場を踏み通って山際まで近づいたとき――私どもはとうとう狼たちのねぐららしい洞窟の前へ辿り着きました。同時に、出現した光景に私は息を呑みました。

 眼前に広げられた景色は惨憺たるものでした。四方八方に飛び散った血があたりに散在する針山のような岩々を濡らして、土の色を赤黒く染め上げています。周囲には何ともいえない臭気が漂い、そのなかに数々の狼たちの亡骸が倒れ伏していました。

 このあいだまではこの狼たちが体毛を豊かに震わせ、重量のある足音を刻みながら日々、颯爽と大地を駆け抜けていたのを私ははっきりと覚えていました。しかし今ではその面影は失われて、どれもが肢体を無惨に引き裂かれ、食い破られています。それでも五体が揃っているのは、まだ幸運な方でした。なかには首や尻尾、四肢のいずれか、あるいはそれらの全てを引きちぎられているものさえあるのですから。
 このような有様は血で河が流れるような、凄まじい戦闘を……また“共喰い”という言葉を私に想起しました。そうして狼らに襲い掛かったはずの痛みを想像すると、全身にぞっと寒気が走る心地がしたのを覚えています。これらの中で唯一私を安堵させたのは、彼ら彼女らがもう二度と目覚めることがないという事実でした。

「いた!」

 けたたましい猟犬の哮りとともに、Yが声を上げました。弾かれたように身を翻し、彼がいる方向に駆け寄ると、洞窟の入口から少し離れた岩陰に黒っぽい毛色の狼が横臥しています。それを認めた刹那。頭上を覆っていた雲が不意に途切れて、気まぐれに差し込んだ日の光が、濡れた毛皮にぬらりと照り返しました。ついで全身の緑色の光が走り、私には眼前の狼の正体が何であるのかを、真実、確信しました。カリストです。

 倒れ込んでいる見た目通り、カリストは見事に力尽きているようでした。薄く開いている瞳は薄く白濁していて、半開きになった口元からは長い舌がだらりと垂れています。一瞥しただけなら背筋が寒くなる風貌でしたが、しかし全く絶望的であるというわけではありません。口からはぼんやりとしたもやが消えたり現れたりを繰り返していて、かろうじて息をしているのがわかったからです。
 そして、まさに半死半生のこの生き物を、若君は自分の屋敷に連れて帰るのだといいます。

 私が状況を上手く呑み込めずにその場に立ち尽くしていると、彼は焦れったそうににわかにこう言い放ちました。

「ここまで多くの屍を越えてきて、今さら足踏みをするのは彼らに対する冒涜だと思わないか」

 そのときでした。突如、地響きに似た低い唸り声が耳に届いたのは。

 まもなく……風が砕ける感覚が肌に走りました。洞窟の奥から躍り出た影が、彗星の如くこちらに急接近します。その何かは瞬く間にぐんぐん大きさを増し、私の視界を覆い尽くしました。

 ぶつかる! そう閃いて、私は猟銃を構えました。しかし、ひとあし遅かったようです。むっとする臭気を帯びた、熱っぽい吐息が顔にかかりました。けれどもあらかじめ予想された、打撃はやってはきませんでした。何故か?

 硬直している私の脇を、ぶんと何かが横切りました。いきなり飛んできたそれはずさりと土の上を滑る音とともに、砂煙をもうもう立てながら転がっていきます。そしてゆらゆらと揺れる煙幕の中で2つの影がもつれあい、しのぎをけずり、そしてお互いに吠え喚きます。そのうち煙が払われ、それぞれの正体が現れました。青白い火花を散らすような眼差しで睨み合う、猟犬と……紅白まだら模様をした狼の姿です。

 それを認めた瞬間あっ、とはからずも私の唇から声が漏れ出ました。狼の顔つきや比較的短足気味な体躯、そしてまだ血に濡れていないところの、鮮明な白色の毛皮には見覚えがあったからです。

 しかし何がしかの音が起こったのはそれきりで、あたりは水を打ったように静かになりました。静寂が支配する空間は、湖の水面に張った薄氷のように微妙な均衡を保っていました。ほんの、わずかでも動けば足元が崩れてしまう。そうたら、もうどこまでも沈んでいくしかない。そのようなイメージがずっと頭から離れないでいました。

 そんな中で――誰かが、溜息を吐きました。手の込んだタペストリーみたいに、とても長い溜息です。ですがその主はYではなく、もちろん私でもありません。猟犬や、まだらの狼でとも違います。私は音の聞こえてきた方向を顧みました。カリストです。カリストが意識の深い淵から帰ってきたのです。
 息が荒く、焦点が合っていない。体毛も血や土で薄汚れている上に、ばさばさとしていて無惨な有様でした。けれど、確かに四つの足で立っている。そうして、まっすぐに私たちの方を見据えていたのでした。三つ巴。そんな言葉が胸の中によぎりました。

 そこでYは猟銃のリボルバーを下します。機械を操る手つきは一見すると、なんでもない動作でした。けれども、あの瞬間には……機械音の響きには、どこか儀式めいた雰囲気を帯びていたのを、私は今でもありありと思い出せます。
 一連の操作により銃はいつでも発射可能になり、あとは照準を定めるのみとなりました。しかし、彼はなかなか標的を決めようとはしません。銃口を地面に向けたままカリストと、2匹の獣たちをしきりに見比べています。そのさなかに男は抜け目なく、手を出さぬように、とこちらに目配せをするのを忘れませんでした。

 他の2匹はYとカリストの出方を伺っているようでした。特に彼の猟犬は課せられた役割ゆえに、飼い主の意向を察知しようと神経を研ぎ澄ませています。このように波瀾を含んだ膠着状態ははて無く続き、一瞬間のようにも、永遠のようにも感じられました。しかしいつまでもというわけではなく、とうとう銃身が持ち上がります。……最終的に、Yが選んだのはカリストでした。

 瞬間。若君の猟犬がその場から跳ね上がり、カリストに飛びかかります。しかし、カリストはこれを回避。次の刹那、猟犬は獲物の背後にあった岩に衝突しました。
 ばあんとボールのように体が跳ね返ったところを、さらに紅白の狼が追撃。猟犬の首元に喰らいつきます。そうして箒のように体を振り回され、四肢をひくつかせている猟犬の様子はまさに人事不省、まさに無様と表現しても過言ではありませんでした。

 一方、カリストといえば飛んできた2匹の下を、火の輪のように滑り抜け、Yに向かってまっしぐらに駆けます。またたくまに相手を間近にすると、ぐっと前かがみになり跳躍する体勢に入ります。その動作と同調して、若君が引き金に指をかけたのが見えました。
 若君か、カリストか。勝利するのはどちらにしても、ここで雌雄が決するかと思われました。だが――だが、どういうわけか。彼はおもむろに銃口を逸らします。

 次の刹那。だあんと銃撃の音が一発、波紋のようにあたりに鳴り渡り、こだまが空間を切り裂くみたいに周囲に通り抜けます。まもなく、まだらだった白狼の毛皮はすべて深い紅色に染まって、切り倒された倒木に似た音を轟かせ大地に倒れ伏したのでした。

 そしてカリストがYめがけて跳ね上がったのは、それとほとんど同時でした。

 このまま彼は銃をすばやく持ち替え、テニスラケットのようにスウィングさせます。大きく振られた銃床が弧を描き、ついでカリストのお腹へとしたたかにめり込みました。魔女の一撃を連想させるくらいに勢いよく、力強く。そんな風に打たれた方はもう、たまりません。打ちのめされた生き物はぎゃっと短く悲鳴を上げて、コインみたいに空中を回転しながら地面に落下。そのまま動かなくなりました。

 Yと私はこの獣の前後の脚を縄で拘束し、そのあいだに適当な棒を通して吊り下げます。そうして捕獲した狼を私たちは肩に担いで村まで連れて帰りました。

 このような経緯でカリストは、丘の屋敷の虜囚となったのです。

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ヘッダー:joel fillip@unsplash

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