妹たちの国(後編)

 真夜中の森はしんと静まり返っていて虫の音一つどころか、梢のざわめきすら聞こえてこなかった。森の存在は影絵のように、暗闇に包まれたまま一個の塊として目の前にある。
 音もなければ風も吹かない、その光景に私は不思議と恐ろしさは覚えない。むしろ安堵感の方が大きかった。雑草がしっかり地面に根づいて、固まっているために足場が頼りないということもなかったし、また周囲を取り囲んでいる樹々のおかげで、ずっと全身を苛んでいた冷ややかな空気が幾分か遮られたのもあった。何より、ここが妹たちの国の入り口であることが私にとっては一番重要な事実だった。私はようやく求めていた場所に辿り着いたのだ。

 だが目的地に着いたというだけでは、まだ不十分だった。しなければいけないことはもう一つある。どうしても私は自分の妹に会って、この国から連れ出さねばならない。私は闇に封じられた森の中へ踏み出した。

 砂漠の乾燥した空間とは違って、森はずっと水の気配がする。とはいっても巌を穿つ雫の水音や渓流のせせらぎとかのあからさまなものではない。葉身の青さや瑞々しさ、あるいは泥で汚れた靴下の重さなどもっと微妙で隠避な感覚だ。そのような湿っぽい雰囲気が、真夜中の深い暗さと視界の狭さも相まって何となくあてのない、やるせない気持ちを起こさせた。怪我のせいもあるのかもしれない。

 生い茂る梢に閉ざされた暗い森の中を進んでいくたびに無造作に伸びた樹の枝が、シャツやズボンにたびたび引っかかった。枝の先端や樹肌のささくれだった部分が、服の布地をほつれさせて破れ目を作った。また、ときおり肌を掻き破って血が流れることさえある。そうして気がつくと、じんじんとした疼痛が体のあちこちに広がるありさまになっている。

 もちろん、こちらも人間なのだから何とも思わないわけはない。苦しいのはまだ耐えられる。だが痛いのはずっと昔から嫌いだし、感染症は怖い。だから大小問わず流血沙汰はなるべく避ける。
 しかし私に足を止めるという選択肢は存在しない。どのような形であれ、私はもう一度妹を自分のものにしなければいけなかった。妹のいない兄など割れたフラワリウムと同じく無意味であるし、音の鳴らない銅鑼くらいに滑稽にもほどがある。

 歩を進めるたびに森の草木は私を傷つけ、痛めつけた。あの子も、こんなところを通ってきたのだろうか。そんなことを考えると、何だか無性に悲しくなかった。
 私は自分自身と同じくらいに彼女のことを愛している。妹のために自分の骨を折れと言われたら、きちんと真っ二つに折るだろうし、または逆に自分のために妹の骨を折ることだって出来る。なるべく苦しまないように、素早く的確に。こんな道と比べなくとも、それくらいの資格が私にはある。それを――痛みを私以外が彼女に与えるなど、けして許されることではない。

 ひきつるようなうずくような痛みとともに、ひたすら前へ前へと歩き続けていた。すると、不意にどこからか歌声が聞こえてくる。放課後の校庭の隅で寄り合っている女の子たちを思い起こさせるような複数の、囁くような歌声だ。

 その中の一つ、ソプラノの域に隠れている小さく低めの声質には聞き覚えがある。妹だ。小さなころから幾千も幾万回も耳にしてきたのだから、人違いをするはずがない。この森のどこかで私の妹が歌っている。

 そういえばメロディーにも、何となく記憶がある気がした。だけれど、これがどんな名の曲なのかはまったく思い出せない。幼いころに数えきれないくらいに口ずさんだ童謡である感じもするし、私たちが生まれ来るはるか以前の流行ったシャンソンというような趣もある。あるいは讃美歌ではないかという印象もあった。そのような異なるイメージをその曲は一切の矛盾なく、美しい整合性をもって内包していた。

 私は自分が傷つくのにもかまわずに駆け出して、走りながら妹の名前を呼。今際の際に絶唱するナイチンゲールのごとく大きく叫ぶ。彼女が私に気つくまで何度でも。そのあいだも歌声は途切れることはなかった。まるで自分たち以外はこの森に存在していないという風に、妹たちはずっと歌い続けている。
 距離感が何だかおかしかった。どんなに早く駆け寄ろうとしても、私は声の源に近づくことが出来ない。惑星の周囲を運行する衛星みたいに、我々はいつも一定の距離が保たれていた。たとえば私が一歩進むごとにあちらも一歩遠ざかり、私が一つ後ろに退くたびにあちらも一つ前に出る……そんなぐあいに。

 会いたかった人が間近にいるのに傍に寄れない。それどころか間近に迫る術がないというのは、相手が遠ざかっていくよりももどかしかった。そのもどかしさは穴の開いたシチュー皿に似た、激しい飢餓感をともなっていた。そして私は悲しみを通り越して、もはや怒りや憎悪さえ覚える。
 私は様々なものを取り上げられてまであなたを求めたのに、与えられるべきものが与えられない。どうしてあなたは私をこのように扱うのだろう。そんなひどく恨みがましい心持を持ち始めた。誰に? わからない。
 ……嘘だ。わかっている。だが、認めるわけにはいかない。彼女が、もはや私のために額ずくことがないなどとは。私の妹が兄の言うことに従わないなどとは。そんなことは絶対にあってはならない。

 ありったけの声で、妹の名前を呼ぶ。ついで出ておいで、と叫ぶ。一緒に帰ろうと、また前みたいに仲良くしようと。

 瞬間、あたりに響いていた歌声がぴたりと止まった。しかし、いつまで経っても応えは返ってこない。森の中は静まり返っている。
 じっとひたすら耳を澄ませていると、どこかで木の葉がかさりと揺れた。ほんの一瞬のことだったけれど、私には音が聞こえた場所が確かにわかる。また、そこには誰がいるのかということもちゃんと理解できる。
 振り返ったところに茂みがあり、その奥に人影が陽炎のように揺らめきながら、その場にたたずんでいた。どうやら相手は白い服を着ているらしい。真新しい紙を切り抜いてきたみたいに、身体の輪郭が闇の中にぼんやりと浮かび上がっている。
 その鮮明な色合いの布地には、乏しい月明かりの全てが集まって反射しているようだ。そのために相手の姿かたちが、こちらにもはっきりと判別できる。ずっと昔から私の隣にあるべきだったはずの人物の姿が、何があっても見紛うはずのない顔立ちが。

 繁みをかき分けて、私は自分の妹の傍に駆け寄る。先に進むたびにやはり枝や棘が肌を傷つけるが、私はかまわずにひたすら足を動かす。もう一度手に入れなければならない。もう勝手に死んでしまわないように。もう二度と自分で歩いて、離れることが出来ないように。
 そうして、とうとう私たちは向かい合う。どうやら彼女は私に会えて嬉しいらしかった。まるで優美に伸びたドレスの裾のように、ゆったりとした笑みを浮かべている。僕も嬉しい、とそう言いたい。一刻も早く。でも――さまざまな土地を長くさすらうほどに求めてやまなかった人を前にしても、私はすぐに声は出ない。急いでいたために息が上がっていることもある。けれども一番には胸がいっぱいで、言葉が出てこないのが大きかった。
 私は自分の妹を抱きしめる。彼女の身体は昔と同じように柔らかかった。髪の毛も以前と変わらず吸いつくように瑞々しく、うなじからもとても良い匂いがする。真夜中に降り積もった新雪に似た匂いが。それらの何もかもが私にとってはひどく懐かしかった。

 さらに彼女をさらに引き寄せて、強く抱きしめる。その途端、胸に痛みが走る。最初は注射針が皮膚の下に入り込んでくるときのような、ささやかな痛みだった。しかしそれは時間を経るとともに、どんどん強さと激しさを増していく。
 腹がしゃっくりを起こしたみたいに慄く。ついで熱く、鉄臭いものが喉の奥からせり上がってきて口内に目いっぱい広がった。粘性のある体液が唇から溢れ、顎をだらりと伝って地面までぼたぼたと零れ落ちる。そうしてシャツがまんべんなく、じっとりと血に濡れているのに気がつく。

 腕の中にある感触も、すっかり変わっていた。身体に密着している感触が枯れ木のように硬く、冷たい。そして、とてもざらついている。明らかに人間の皮膚ではなかった。
 私はおもむろに、相手の背中に回していた腕を離す。そうして今まで抱きしめていたものを、まじまじと見る。すると目の前にあるのは、肩丈ほどの、まだ生え始めたばかりという木だ。私の妹が、小さな木に変身している。あるいはこの木を、ずっと妹だと思っていたのか。いや、そんなはずがない。抱きしめたときの肌触りは確かに人間だった。

 小木から慌てて離れると、胸元に刺さっていた枝が勢いよくずるりと抜ける。それがいけなかった。傷口から血がどんどん溢れて止まらない。みたいに。故障したメリーゴーランドに縛りつけられたみたいに、視界がぐるぐると回る。激しい目眩に気が遠くなる。わずかな間をおいたのちに木を切り倒すような音があたりに響いて、わたしは地面に付したまま動けなくなっている。
 視界がすっかり暗くなり、意識がもうろうとしてきたころ。誰かの声が耳に入ってくる。生まれてから今までずっと聞いたことのない、知らない女の声だ。
 今から、と名前のわからない女は私の耳元で言う。
「今からお前は呪われた者になった。目が覚めれば、お前は地上をさまようことになる。この世界のあらゆる川や泉、野原と森が枯れ尽きるまで。昼もなく夜もなく、どこにも辿り着くことなく永久に」
 そこまで聞いたところで私は意識を失う。

 そして再び目を開いたとき、私の傍には誰もいなかった。私が倒れているところも、もはや森ではない。多くの梢に閉ざされていた空は開けて、頭上には星空が輝いている。そして周囲にはなだらかな砂の丘がどこまでも続いていた。わたしは砂漠で眠りこけていたようだ。

 身体に傷はなく、痛みもなかった。シャツにも穴はなく、しっかり乾いている。まるで何も起きなかったみたいに。でも、記憶にある今までの出来事は夢ではない。入国審査官に取られたものは、しっかりなくなっている。

 しばらくして私は起き上がり、その場に立つ。そうしていささかの後に、再び砂の中を歩き出した。自分でもわかるくらいに気落ちした足取りだった。乗ってきたバイクはもうないから、前より旅の道行は困難になるだろう。現金は取り上げられなかったので、またどこかで購入し直せばいいのだけれど、こんな砂漠の中では販売店など望めない。その事実は私を失望させ、うんざりさせた。

 しかしだからといって、足を止めるわけにはいかなかった。私はどうしても妹に会って、彼女を自分の傍に取り戻さなければならない。そのときまで私は諦めるつもりはなかった。たとえそれが百年後だろうと、百万年後だろうと。

(2019.12)

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