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執狼記 2-3

 街から帰ってきたYが最初に行ったのは羊を3匹、牧場から買い取ることでした。どれも生後3か月くらいの子羊です。毛の手入れや爪切りなどは人にやらせていましたが、餌やりだけは自分でやっていたのを覚えています。そのとき彼は必ず、瓶の中の薬を1滴だけ落としました。
 また羊を育てるのと並行して、去年の冬と同じようにカリストを求めて森の中をさまよいます。もちろん猟銃を手にして。今度はあの立派な猟犬も主人とともについてきます。そうして目当ての狼の姿を見つけると、彼は自分の飼い犬に向かい、こう言い含めるのです。見てごらん、あれがカリストだと。このとき犬はいつも濡れた鼻をひくつかせて、遠くにいる狼をじっと眺めていました。

 カリストを探すついでに、私たちはキツネや鹿を仕留めては持ち帰ってものでした。この思いがけない報酬は村民たちを大いに喜ばせたようでした。歓呼の中には多少の社交辞令も含まれていましたけれど、作物や家畜を食い荒らす害獣たちに一泡吹かせたという爽快感も大いに存在しているのを私は肌で感じていました。
 動物の肉はシチューや串焼きになり、剥がされた毛皮はしかるべきところに売られて金銭に変えられました。毎日盛大なごちそうがふるまわれ、均等に分配されたので村の誰もが浮足立ちました。それが降誕祭まで毎日続きました。

 そんななかで祖父だけは苦々しい顔つきで、むっつりとしていました。そうして村中がトンチキ騒ぎに興じているとき、彼はいつも忍び足で宴会から抜け出し、小屋に戻って独りで酒盛りをしたものでした。
 そしてある日、森番小屋に戻ってきた私に彼はこんなことをぼやきます。

「あまり狩りすぎるな。壁が崩れる」
「壁?」

 私がそう問いかけても、それきり祖父が口を開くことはありませんでした。ただ、黙々とビールをあおるばかりでした。

 このようにカリスト探しと、狩りの繰り返しが一週間ほど続きました。そのうち村民から狩猟について、新たな声が上がり始めます。森の狼が畑や牧場を襲うので、どうにかして欲しいと。

 それを聞き届けたYは待っていたとばかりに、飼育していた子羊のうちの1匹を、意気揚々と柵の外に引き出しました。そこで動物は何か、不穏な雰囲気を感じ取ったようです。小さな羊はぴょんぴょんと彼の周りを飛び跳ねては、黒い顔や頭を幾度もズボンに擦りつけて鳴きました。
 その様を見ていると私の胸に、ぎゅっと掴まれたような名づけがたい感覚が起こりました。子羊の鳴き声は強く大きかったけれど、どこか頼りなさげだったからです。まるで楽しく遊び回っているうちに、帰り道もわからないほどに遠いところに来てしまったという風に。しかし若君はてんで相手にはせず仮面のような顔つきで、動き回っている生き物を見下したまま微動だにしません。

 もはやどれだけ訴えても無駄だとさとったのか、羊はしばらくして騒ぐのをやめました。おとなしくなった羊の首にYは縄をつけて、森の手前までひったっていきます。そこで彼はいましめを解き放ち、生き物を雪の積った暗がりへと追いやりました。
 うなだれ気味に森の中へ進んでいく子羊の後ろ姿は、コーヒーに注ぎ込まれたミルクみたいに、しばらくのあいだぼんやりと浮かび上がっていました。けれども、やがて薄闇の中に溶け込んで見えなくなりました。

 そのころあいを見計らい、私と若君は羊の後をつけていきます。もちろん手に猟銃を携え、脇に1匹の猟犬を連れて。そうして私たちは、あのカリストと初めて相まみえた野原にたどり着きました。

 いきなり広い場所に出てしまった羊は、はじめのうちどうしたらいいのか途方に暮れているようでした。落ち着きがなく、そわそわとあたりを行ったり来たりします。そのうち不意に立ち止まると、前脚で雪を掘り起こし始めました。どうやら草を食もうとしているらしいのです。そして羊が開いた穴に顔を近づけた。その向こう側――森の奥、黒々と覆われた木陰の中で何かの影がちらちらと動いているのを、私たちは双眼鏡越しに捉えました。狼です。

 とはいえそれはカリストや、そのつがいではありません。どこにでもいて、気が向けばいつでも見られるような毛色の狼でした。

 狼は執拗に同じ場所を歩き回っていました。その動作からは戸惑いと躊躇が感じられました。まるでお小遣いをもらったばかりの子どもが、おもちゃ屋やお菓子屋の前を行ったり来たりするみたいな。そして相手が誘惑に耐えきれなくなるのを、私と若君は双眼鏡をのぞいてひたすら待っていました。
 どれくらいの時間が経ったのか。しばらくして木陰から、濃灰色をした模様の狼が姿を現します。しかし1匹きりではありません。続いて1匹、また1匹と同じような個体が次々に顔を出しました。そうして計3匹の彼、彼女らはゆるりとした静かな足取りで、子羊に近づいていきます。

 もちろんこの異変に、羊も気づかないわけはありませんでした。にわかに顔を上げた刹那、その場から駆け出そうとします。でも、無駄でした。次の瞬間には3匹の内の1匹が羊を追い越し……というか飛び越して、退路を先回りします。もちろん羊は引き返すわけにはいきません。まさに前には崖、後ろに狼というありさまで、そんな進退窮まったところに同時に躍りかかられると、子どもの羊は用意に組み伏せられてしまいます。

 まもなく私たちの目の前で、ささやかな宴が繰り広げられました。狼たちは爪で引き裂いた傷口におのおの鼻先を突っ込んで、ぴちゃぴちゃと水音を立てながら熱烈に羊の肢体にかじりついています。新雪がじわじわと紅色に染まっていくともに、甲高い悲鳴があたりに響き渡りました。

 せめてもの抵抗か、あるいは肉を裂かれる痛みのためか。小さな羊は始終喘ぎながら、のたうちまわって身悶えしました。けれどもその甲斐もなく、相手は口を離すことはしません。牙と歯であらゆる内臓を喰い破り、舌を筋肉の奥に差し入れて血まみれの骨をしゃぶり尽くしていきます。抜け出す隙を与えないように執拗に、血肉を1つとして残さないよう丹念に。そうして羊の体内が水で洗われたみたいに白くなっていく光景は、ただの食事ではなく、ある種の奉仕ではないかとさえ私には思われました。

 そのうち羊の悲鳴は途切れとぎれになっていきます。のたくる勢いも次第に失われ、徐々に動作がとろくなっているようでした。やがて完全に動かなくなり、とうとう相手にされるがままになりました。このあとは狼たちの独壇場です。

 しばらくすると、かつて子羊だったものは見る影もなく姿を変えました。あとに残ったのは大量の血痕と、わずかな皮ばかりでした。狼たちは見事に捧げられた獲物の何もかもを消費しきったのです。ほどなくして食糧の残骸を背景に、彼と彼女らは森の中へ帰っていきました。粗悪なジンでも舐めたような、どこか不安定な歩調で。

 それらの一部始終を眺めて、丘の屋敷の若君……Yは満足げな笑みを浮かべました。やはりはっきりとした笑い声は発しませんが、顔が頬紅を差したみたいに強い赤みを帯びていて、彼がひどく興奮しているのが、傍目からでもあきらかに理解できました。そんな表情のままYは双眼鏡を下し、傍にいた私に対しこう問いかけてきます。
 見たか? ――見た、と私は答えました。すると、相手はすぐにこんなことを返してきました。

「お前は証人だ。これからお前は童話や、おとぎ話の語り部になるんだ」

 似たような光景が日と場所を変えて、あと2回繰り返されました。

 その最後の晩。いくつもの狼の遠吠えが森番小屋で寝ている、私の耳に届きました。それはいつも聞いているような、綽々とした明朗なものではありません。もっと切迫した、不穏さを帯びた咆哮でした。

 祖父は寝酒のためか、それとも知らないうちに口に含んだ薬のためか、ぐっすりと眠り込んでいました。だから、あの奇妙な遠吠えにも気づきはしません。もしあれを聞くことがあれば、彼はきっとただならぬ事態を察知したでしょう。あるいは銃を片手に森の中へ様子を見に行ったかもしれません。いずれにしても、そんなことは現実には起こりませんでした。

 絶叫は東西南北全ての方向から響き渡り、お互いに遠ざかったり近づいたりを繰り返しながら夜明け前まで続くことになりました。それを私はベッドの中で、シーツを深く被ってやり過ごしたのでした。

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ヘッダー:joel fillip @unsplash

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