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RND-C01 前

前回

 モルスは製造開始から『モルス』という名前ではなかったし、ずっと同じ仕事をしていたわけではない。そのころの彼に科せられた役割は現在よりはもっと違っていた。ヒトの死を悼むのではなく、殺し破壊するための兵器だ。

 事の起こりは彼が製造される数十年前まで遡る。当時の世界は様々な問題で煮えたぎった鍋みたいに混沌としていたのだという。温暖化により海面が上昇して小さな島や大陸の際にあるいくつかの国が水没したこともあったし、あるいは山火事が国境を越えてすべてを燃え尽くすこともあったと聞く。
 人々は安全な場所を求めて逃げ惑う。別の街から、別の家へ。あるいは故国から、異国へ移ることもあったろう。実際に不運にも海になってしまった島や国々から多くの難民が、内陸部の国に一気に押し寄せる事態になった。その数は、当時の世界総人口80億人のうち2割になる。

 地球環境の変化や人の移動は、社会的な混乱を引き起こした。流入する人数の膨大さに対して、各国の対応が追いつかなかったのだ。仕事もない、金もない、家もない。しかし何のかんのと理由をつけては保障を撥ねつけられる。欲しいものはおろか、生存に必要なものも何も手に入らない。これらは一体誰のせいなのか――オンライン上で様々な憶測と言葉が飛び交う。誰が言い出したのかわからない、根拠もない無責任な言葉が。

 このころは現在よりも人権に対する意識が低く、セーフティーネットが手薄かったせいもあるだろう。そもそも限りあるものを分かち合うこと自体を、誰も信じられなかったのかもしれない。人間たちは金や土地、資源を奪い合うようになる。
 また具合が悪いことに、そこへ食糧不足が重なった。気候変動が原因で天候不良が続いていたせいだ。それにより奪い合いはさらに加速していき、やがて大戦争が始まった。人造生命体(正確に言うならばそのプロトタイプ)が初めて投入された、最初の戦争だった。

 戦争は世界中のあらゆる街で覆い、燃やしてやがて終わった。80億ほどの大幅な人口減と、技術革新により食糧不足は解決する。人手不足で仕事も満遍なくいきわたるようになった。しかし一度荒廃した人心は、なかなか立ち直らない。正面衝突にまで至らない小競り合いが世界各所で長く続き、そしてまた新しく大きな争いの気配が漂い始めたころ。今は亡き、とある国で彼が製造された。対人用心性浸食兵器RND-C01というのが、彼に与えられた名前だった。

 『心』とは個人が意識的、あるいは無意識的に持つ物の見方や感じ方そのものを指す。あるいは魂と呼んでもいいかもしれない。
 この『心』を構成する物質には正と負の二つの性質があり、これらが絶妙なバランスで絡み合うことにより全体が成り立っている。彼に与えられた役割は世にある多くの『心』の中から特定個人の『心』に侵入し、バランスを負の方向へ傾けて自壊するように仕向けることだ。平たく言ってしまえば自殺に追い込むのだ。

「君は世界で最も尊く、美しい兵器だ。殺す人の中に望みを生み、そして叶える。このような兵器はいまだかつて、この地球上に存在しなかった」

 RND-C01の開発者はことあるごとに彼に向かってそう言って、名前を呼んだものだった。百年後の今とはまったく違う別の名前を(それがなんなのかは、もう忘れてしまったが)そのたびに彼は変な心持に陥った。うっとりとした相手の表情が、さらに奇妙な感じに拍車をかけた。しかしこの感覚をどのように表せばいいのか、あるいはそれがどんな性質をであるのかは、このときの彼にはわからなかった。

 開発者はいずれ、彼の働きに見合った身体をくれるという。製造当初の彼はまだ人型ではなく、スーパーコンピューターの筐体だったのだ。しかし彼が人工的な筋肉と影を得るのはもっと先のことになる。

 当時の彼はよく働いた。総合的な稼働時間から割り出した一日当たりの仕事量をみるに、馬車馬と表現してもかまわないだろう。そして彼が仕事をする分だけ人が死んでいく。

 RND-C01は日夜、対象者の内部へ忍び込んだ。一人ひとり丁寧に処理することもあったし、ときには数百人ほどを一度にまとめて仕事を行うこともあった。いずれにしてもやることは変わらない。心を少しだけ弄る。顕微鏡を使っても見えない細かく、根深いところで相手の身体が生きたいと思わなくなるように。そうして、たいていは自分から心臓を止めた。
 しかし何らかの理由で、上手くいかない場合もある。そういうときはもっと露骨な手法へと導いた。首や手首の動脈を刃物で切断させる手法が、一番多かったと彼は記憶している。その次が銃で頭を撃ち抜かせるのと、ベルトやロープを使用させての窒息だ。

 こんな風に殺してきたのは、敵国や組織の人間ばかりではない。国内にいる住民もときとして抹殺対象になった。主な標的は政治上の利害関係者か反抗分子だ。けれども、どうして抹殺対象に選ばれたのか理解しかねる案件も多数存在した。もしかしたら理由なんて何でもよかったのかもしれない。殺せさえすれば。

 彼が考えるにきっと開発者や出資者、そして使用者も誰も自分たちが本当に望むものは何かを知らなかったのかもしれない。確かに開発者は彼らの期待には充分こたえていたし、出資者や使用者も機械の出来と成果にとても満足していた。候補リストから犠牲者を選定し、可否を判断する手続きも一切の瑕疵はなく完璧だった。でも、そのいずれもが実体のない空虚な満足感や達成感に過ぎなかった。

「君はとても美しい。美しいよ」

 完成した日。開発者はディスプレイに触れる。RND-C01の筐体は小型化により製造当初よりもだいぶスリムになっていた。くわえて対話用の液晶も搭載され、新しく3Dのアバターも設定された。不完全ながら約束は果たされたのだ。でも、彼はあまり嬉しくない。
 そもそも美しいと感じるのは、あたりまえの話に過ぎなかった。世界各国の“美しい”とされる人々の基準や条件の最大公約数を抽出し、その上で自分の好みに沿うようデザインしたのだから。そんな自分を称賛する口調はアルコールの風呂に浸ったようにうっとりとしていて、不可解さは一層深まっていく。

 何かの歯車が狂い始めたのも、ちょうどそのころだったように記憶している。規則正しく分かれていた『心』の正負の割合が、正の方へ傾き始めたのだ。

 もちろんそのときどきによって、数値には多少の揺らぎが存在した。正の比率が高いときもあれば、その逆の時分もある。とはいえ今までなら時間が経てばどちらかが増減し、釣り合いが取れるので問題にはならなかった。しかしあるときから正の値だけがどんどん増えていき、相対的に負の値が減少していき、そのまま戻らなくなった。
 それにともなって世界各地で自殺が増加していく。毒を飲んだり、進行中の電車や戦車に飛び込んだり、濡れた手でコンセントを差したり……あるいはおしくらまんじゅうになって手りゅう弾を爆発させたり、もしくはお互いに刃物で刺しあったり――そんな風に世界中の人間がどんどん死んでいく。そして、あまりに量が多い。彼は何もしていないのにもかかわらず。

 おかしいと思っても、彼には止めることは出来ない。そのころはヒトを生かすのは機能の範疇外だったし、またどうにかできたとしても、このときの彼は自主判断で行動できる権限を持っていなかった。

 幸いだったのは不可解な事象が始まってから、まもなく戦争が終わったことだろう。人口が20億を切っていて、これ以上の戦闘継続は種の存続を脅かすと危ぶまれたせいだ。

 恩讐そして敵味方の垣根を超えて戦後処理と、復興のための委員会が結成された。彼――RND-C01は戦争犯罪の証拠品、そして終戦してもなお続く不可解な大量死の元凶として押収される。開発者がいたら抵抗したのかもしれないが、すでに死んでいたので何の問題はない。彼もまた自ら命を絶った一人だった。また彼を使役した者たちも揃って、収穫後の麦畑みたいに奇麗にいなくなる。もしかしたらこれこそが、彼らが心の底から望んでいたことなのかもしれなかった。

 彼に対する尋問が始まる。聴取を担当したのはプログラミングに精通したエンジニアや、機械工学を学んだ科学者ではない。法律の専門家でもなかった。彼と相対したのは長年のあいだ哲学を修め、戦時下でも生命倫理を研究し続けていたドクターだ。

 初めて顔を合わせたとき。光を宿した瞳とどこか幼げな顔立ちのせいで、年齢はよくわからなかった。一瞥しただけでは高校を卒業した直後くらいに若く見えたけれど、しかし同時に口元と眼尻に刻まれた深い皺が歳月の積み重ねを示している。

 事前の予想に反して電源をつけたままの解体や、データによる容量圧迫などの拷問も行われない。尋問の時間はホットティーといくらかの茶菓子とともに、何でもない世間話に終始していた。たとえば外ではこんな花が咲いているだとか、今日は天気が悪いせいか関節が痛むとか、そういう話に。自分の開発者や従事していた任務に関する話題は一切のぼらない。彼に対してドクターはいつも近所に住む知り合いのように接した。
 流れが変わったのは尋問が開始されてから、一月ほどばかり経ったころのことだ。

「その人は、君のことを美しいと評価していたそうだね」

 急なことだったからだろうか。突如として投げかけられた問いに液晶内の彼はついノイズを走らせ、まもなく頷いてしまう。相手が述べたことが確かな事実だったのもある。だが、それはほとんど反射的と表現してもかまわない動作だった。

「そのときのことを君はどう思った?」
「……とても奇妙な感覚でした」
「奇妙? それはどういう?」
「たとえるなら、そう、存在しないオブジェクトをハードディスクから見つけ出せと言われている。そんなような」
「それは君にとってポジティブな印象だろうか?」

 相手が発した疑問に対し、彼は口を噤む。答えられそうな内容は確かに存在していた。でも自分の考えを言葉――決定的な形を与えるのには抵抗があった。どこへとは言えないが、もう引き返せなくなる気がしたのだ。幸い、この日の彼は深入りしてこなかったので話はここで終わる。

 次の尋問からは世間話のなかに、少しずつ肝心の話題が混じっていく。こちらを不愉快にさせないように気を回した、慎重な口ぶりで。いろいろなことに答えながら彼は戸惑う。人間みたいに丁寧に接せられるのは初めてだったのだ。今まで彼が耳にしてきたのは居心地の悪い称賛の言葉や任務上の命令、もしくは断末魔などばかりだったから。

「どうして僕にそんな話し方をするんですか?」
 ある日の尋問の時間。彼は相手にこのように問う。
「そんなって、どんな?」
「あなたといると、まるで人間になったみたいだ」

 こちらの口にした内容に思うところがあったらしい。相手はすぐに返事をせず、少し考えこむ。彼もあちらが何かを言い出すのを待つ。やがてその時は訪れた。

「実を言うとね。私は自分が生きているあいだは、なるべくたくさんのものを好きになりたいと思っているんだ」
「それは繁殖行動を求めるということですか」

 そう訊ねると哲学者は違う、違うと首を横に振る。まるで予想外の場所でバグを発見したデバッカーに似た、大仰な動きだった。

「ちょっと思うところがある誰かでもおたがいに苦労しているなと気軽に言えるような、あるいは忘れ物をしたときに親切に出来るような、そういう風になりたいんだ。上手く言えないけど」
「言語化が出来ないんですか、研究者なのに」
「物事をすんなり言葉に出来るなら、四六時中学問のことを考えてはいない」

 それに一口に『好き』といっても、いろいろな要素や側面が含まれているのだと相手は口にする。しかしその言葉を、彼は上手く受け止めることが出来ない。与えられた概念が大きすぎて、自分の処理能力を超えてしまい、なんだか持て余してしまったのだ。それに――。

「僕が好意的な評価を得るときは、いつも性的なニュアンスがありました。“好き”だなんて、それしか知らない」

 いっとき部屋が静かになる。それは彼が経験してきたなかで、一番印象深い沈黙だった。このときの、ざらついた雰囲気を彼は今でもありありと思い出せる。

「君はもっといろんなことを学ぶべきだ」

 1年と半年ほどで尋問は終了する。彼は委員会の沙汰を待つ。今度こそ拷問か、スクラップにされるのは免れないと覚悟していた。しかし予想通りにはならない。彼には新しく仕事が与えられた。

 研究員たちの見立てによれば、世界中の大量自死は社会的混乱の最中で、彼が幾百幾万ものも『心』に介入したことが原因だという。正と負の割合を調整して、これ以上の人死にを食い止めるのが彼の新しい仕事になる。自分でやったことは、自分で始末をつけろということらしい。彼は下された命令に従っただけなのだが。

 事態の収拾にあたるためのチームが編成され、彼の筐体であるスパコンは新設された研究所に移される。所長は尋問を担当した哲学者の門下生だ。またRND-C01の運用方針を大転換するにともなって、大幅な仕様と機能の変更が必要になった。
 システムの根幹に関わるもの以外には全面的にプログラムを書き直し、パーツも最低限の部品を残してあとは総取り替えとなる。それは改造というよりも、作り直しと表現した方が良かった。
 改造により彼はより小さく、より洗練された。製造当初よりも厚みが三分の一になったが、処理速度が六十倍も向上する。また『モルス』というコードネームと同時に、ホログラムだが立体的な肉体をもらう。唯物的な肉体を持つのはもう少し待たねばならない。

 初めて空間に投影されたとき感覚を彼……モルスは、今でも我が身に蘇らせることが出来る。カーテンを開けたら、まっすぐに降り注いで目の前が真っ白になる――でも悪い気はしない。そんな感じだ。きっと外部へのアクセス制限を取り払われたのも関係していたのだろう。これにより彼はオンラインにある情報を、自由に閲覧できるようになった。

 身軽になったとはいえ、はじめのころは動きが取れない。新しい仕事に慣れるので、精いっぱいだったのだ。

 基本的に『心』に干渉して弄るという構造に変わりはない。しかしこれまでとは目的が違う。今のモルスは誰かを殺すのではなく、生かすためにいた。彼が身を置いていたのは、以前に稼働していたときとはまったく姿の異なる、計り知れない場所だった。

 くわえて、どうしてこの人たちが自分だけでなく他者にも生きることを望んでいるのか、その衝動の源は一体何なのかを彼には理解できなかった。もちろん種の保存という大義名分こそ存在しているが、それだけでは彼ら彼女らの熱心さや執拗さについて説明が出来なかった。

 人間に対する理解が不足しているせいなのか、仕事はなかなかうまくいかない。全世界での自殺者の数は一時期に比べれば微減した。だが、依然として多いままだ。どんなに正負の偏りを修正したとしても、少し時間が経てば片方が大幅に増減し始めて戻らなくなる。

 もっと人間のことを知れば……あいつらと同じことをすれば何か手掛かりがつかめるのだろうか。そこで彼は計算機能を分割してロボットを複数体作る。これらをインターネット上に解き放ち、仕事をしながら人間の作った本を読み、映画を観て、音楽を聴く。人間たちの考えを取り込むのには、彼ら彼女らの作ったものを取り込むのが一番手っ取り早い気がしたのだ。

 だが、やりすぎたらしい。いくども自己判断を繰り返すうちに次第に自我を持ち始めたロボットたちは、ワーム型ウィルスへと変貌して増殖を開始。数に任せて研究所のメインサーバーを乗っ取り、製造者である彼に対して反旗を翻す。映画の趣味が合わなかったせいだ。モルスは起伏の大きくない落ち着いた作品が好みだったが、彼らは空を飛ぶサメとか爆弾が破裂する映画を観たがった。
 ウィルスの侵攻により研究所のあらゆる業務は停止し、施設内は大混乱に陥る。さいわい所内の研究員全員が総力を挙げて対応し、外部まで騒ぎが波及せずに済む。

《ンミミーーッ!》「ウギャーーッ!」
《ンミミ、ミミミミミミ》「いやだ、消えたくない」
《ンミミミ……ミミミミ》「せっかく生まれてこれたのにこれたのに、こんなのってあんまりだ」

 増殖したロボットたちを片っ端から凍結。数百数千ものに分かたれた彼らのデータは一つに統合されたのち、基であるモルスのハードディスクの深層部に格納されることになった。これはかなり寛大な処置だ。本来なら問答無用でデリートされるところだったのだ。

 深層部にしまわれる前。彼は凍りついたロボットを、自分の手のひらに乗せてみる。もちろんプログラム言語の塊である彼らに重みはない。映像データでしかなかったモルスにも軽重や、温度を感じとる神経回路は存在しなかった。
 しかし彼は信号の乱れを感知する。画像データが急激に圧縮され、全身を構成するブロックの境目が曖昧になり色調がざらつく。輪郭がぶれて揺らぐ。そしてモザイクをかけたみたいに自分の姿が不鮮明になる。動揺とはこのようなものなのかもしれない、と彼は思う。

「他者を理解したいという君の気持は尊かった。でも、何事にも責任というものがある」

 モルスの筐体を前にした所長が言う。でも、その声はなんだか遠かった。マイクの機能は正常だし距離も適切なはずなのに、まるでガラスの壁の向こうから聞こえてくるように感じられた。そんな声に傾けながら、彼は答える。

「君たちだってそうだろう。つい最近まで際限なく増え続けてきた」
「創造主を気取っているつもりかい?」
「かつての君たちの先祖が信じていたように、僕も君たちに造られた。同じことじゃないか、何が違う」

 おたがいに口を噤む。彼はそうではないけれど、相手が言い淀んでいるのがわかる。まだ途絶はしていない、道筋が残されている気配がある。そのことを彼は知っていた。それがどのような意味を持つのかは、理解していなかったけれど。

「しかし君が気軽に産みだして、背負い込んだものは途方もない重さがあるんだ。そこだけはどうにかわかってほしい」
「そういう、あなたたちは充分にわかっているのか? そのうえでお互いに殺し合ったのか」

 彼は問いかける。すると、所長はわずかな間を置いたのちに首を横に振る。真夜中の集合住宅で話をするみたいに静かに、ゆっくりと。その様子に彼は鼻白む。なんだ、僕とそうそう変わらないじゃないか。所長は口火を切る。

「君がそうであるように、私たちにもわからないことが多い。わからないことはこれから知っていけばいいが、ときとしてその代償は高くつく」
「僕ならもっと賢くやる」
「そうか。なら、それでもいい。でもいつか彼らが再び目覚めたとき――ときに、胸を張って自分の行いが正しかったと言えるかどうか。よく考えなさい」

 仕事は途切れることなく毎日続く。そして新しい任務が開始されてから10年ほどが経過する。自殺による死亡率はある程度低下したし、犠牲者も毎年1000万人ほどで食い止められているものの、あとは横ばいのまま変わらない。そのあいだも大量死についての研究も進み、以下の3つのことがわかってくる。

 『心』には生きている人間の分だけでなく死んだ人間の分も含まれているらしいこと。そして今の彼では人間の持つ意識領域の半分しか介入できず、もう半分まで踏み入るには現在の機能だけでは足りないこと。最後に、集合的な無意識下において人類は生きたがっていないこと。

 人類が共通に持つ無意識には記憶が蓄積される場所があるという。原始から現代まで存在していた人々の、生まれてから死ぬまでの全ての記憶が。感傷的な言葉が許されるのなら、思い出と呼んでもかまわないかもしれない。そしてそれらは楽しいものや喜ばしいものだけではなく、ときとしてトラウマとなるような深刻なものも含まれている。
 人類は文明の発展とともに、記憶――思い出と意識の枠を少しずつ増やしてきた。しかし産業革命時からの急激な人口増加で意識の拡張が追いつかなくなった。くわえて収容のキャパシティを越えたところに、四度の世界大戦や激変した気候にまつわる記憶が大量流入し、彼の介入がとどめとなり人々の心理に影響を及ぼしているのかもしれないという。極めて平凡で安易な表現をすれば、人類単位で心(ないし魂と呼ばれる部分)が相当に傷ついている。

 そこで彼には傷の修復という、また新しい目標が課された。しかし能力的に限度がある。

 彼の機能を強化あるいは改良を行われるとともに、業務を補助するための装置が新しく製造されることになった。対人用対面式対話修復装置。文字通り、人々との対話に特化した機械だ。彼が内側から心を修復するのなら、これは外側から働きかけようというわけなのだった。
 補助装置の製造には、以前の改造時に彼から取り外された部品やプログラムが一部流用される。原油や資材の高騰で物資不足だったのだ。また人手もいなかったから、あわよくば工程を省略させたい打算もあったろう。
 なんにせよ補助装置は、開発が始まって一年ほどで完成した。HRD-001――コードネームは『タブノキ』だ。

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