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越境する光 4-3/終

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 好春の席は皇太子もいる二階席ではなく、一階最終列の中央になる。宛がわれたのではなく、自ら希望し予約した位置だ。舞台と観客両方の態度を窺うのに、この会場ではここがちょうど良かったのだ。また、自他ともに諦めをつけるためでもある。こうなったら自分は手助けしないし、出来ない。そういう風に。さらにだめ押しで開演三十分前に席につく。

 演奏会は予想よりもずっと楽しめた。どの奏者も地に足がついた実力者たちだ。趣旨からして彼らが取り扱うのは、ヴィーガンレザーが張られた三味線や、端材を集めて組み立てた尺八など一風変わった素材の楽器が多い。だが楽器を充分に乗りこなし、使いこなす巧みさは、確実に来場者の心を捉えていた。また満員だということで、響く拍手にも迫力がある。

 しかし感傷には浸りきれない。どんなに美麗な奏で方でも、気もそぞろになる刹那があった。そしてちらつく不安感は、二人の出番が近づくにつれ次第に深化していく。不思議と自分の名前や栄誉よりも、弓生と佐山のことばかりが気にかかった。十分ほどの休憩時間ののちに、とうとう彼らの順番がきた。

 開演ベルが響くともに、客席の照明はすっと暗くなる。おのずと視線は明るい方へ――舞台上の、立奏台にある楽器に向く。好春の胸はどきりと脈打つ。

 奏者の姿が重ならないよう、二面の筝は前後で互い違いに置かれていた。十三弦が前で、十七弦が後ろだ。
 スポットライトを照り返す二面の楽器は、生き物の気配を纏っていた。豊麗な……あるいは精悍な肉体に、たっぷりとした蜜や熱い血潮を予感させる生き物だ。その妖艶な猛々しい姿態を、彼は束の間垣間見る。
 まもなく脇幕の陰から、フォーマルスーツを纏った弓生が現れる。それから一拍ほど置いて佐山が続く。二人とも顔つきこそ堅苦しいけれど、堂々とした足取りだ。どこからともなく起こった拍手が、甘雨のように彼らを迎える。

 舞台の上で二人はすれ違う。彼女の背後を通り過ぎた、わずかな刹那。佐山が首を小さく後ろ傾け、弓生にちらりと顧みた。彼の視線を受けた相手はにわかに目を瞠らせ、ついで、ゆるゆると口の端を吊り上げる。
 なんだこれは――? 好春が戸惑うあいだに、二人はそれぞれの場所に座につく。このときには、すでに弓生の表情は引き締まっていた。

 強く。弾かれた弦の一音が、高らかに会場内に響き渡る。巨木に釘を打ち込むのに似た衝撃が、あたりの空気が震わせる。まさしく音波だ。なかでも好春の動揺はいっそう激しい。

 低い! 辛うじて抑え込まれた叫びは、ただ唸りとして喉で絡みつく。自分が何を耳にしているのか、好春はすぐにわからない。わずかなあいだ呆然としたのち、彼ははたと気づく。パートだ。本来なら弓生が弾くべきところを、今、この場所では佐山が奏でていた。

 『光越境』において主旋律は激情を表す。馬は衝動に駆られるままに花々を食いちぎり、樹々をなぎ倒し、草々を蹂躙していく。その行いの苛烈さとともに、身体の軽やかさをも表現せねばならない。このために高音の十三弦の使用が指定されている。
 これらの課題や要求を山は低音域を担う十七弦でもって、難なく克服し達成していた。むしろ音色が重く低い分だけ、従来の『光越境』よりも鬼気迫るものがある。

 そのように先行する主旋律を弓生が、十三弦の副旋律が追う。野趣に溢れた佐山のものとは異なる、繊細で優美な音色だ。そして折り重なる二種の筝の音は、楽曲そのものに大きなうねりを与えていた。その揺らぎには温度があり、湿度があり、陰影があった、また重みもある。空を裂いて遠方まで疾駆し、後々に天に引き上げられるための重みが。

 隣席の客が息を呑む。左右どちらかはわからないけれど、相手は確かに生唾を喉に下した。一人の人間が蠱惑される瞬間を、好春はちゃんと捉えていた。また、その誰かは彼自身でもある。

 戻って来た……。そう彼は思う。初めて〝彼女〟と出会ったときの、屈服させられるあの感じが。だが現在目にしている風景は、二十年前と少しだけ違う。この時間と空間を造り上げるのは、弓生独りではない。なにより使われている楽器は好春自身が手掛けたものだ。もう、ずいぶん前から忘れていた事実だけれど。

 本番前の控室で、好春と弓生はその話をした。このとき弓生はドレッサーの前に て、化粧をしていた。髪をハーフアップに編み込み、パフやアイライナーを操る手つきは、なんだか、わたわたしていたのを覚えている。鏡と向き合いながらわっとか、あぁとか変な声もときどき漏れ出た。本人の得手不得手と食品を取り扱う仕事柄が相まって、本格的なメイクには慣れていないのだ。それでも手を動かし続けるうち、どうにかこうにか形になってくる。

 まず飛び抜けているのは両眼だ。アイメイクを施した目は清水を浴びたみたく華やいで、眼差しは夢見るように柔らかい。そこに口紅を差した唇が、身体の生々しさを際立たせている。艶めかしいが、どこか清らかさもある容貌だ。そして、このうえなく美しかった。

 そんな顔をぼんやりと見入っていたさなか。おもむろに鏡に映った弓生が、こちらに向けて口火を切る。さて――……。

「君はこれで一皮むけるぜ。たくさんの人が常藤好春の仕事ぶりを知って、どれだけ素晴らしい技術やアイデアを持つ人なのかわかるんだ。その、お手伝いができて嬉しい」
「僕が? なんだって?」
「なにって、今日の主役は君じゃん」
 反射的に漏れ出た好春の声に、そう弓生はこともなげに返す。
「もしかして、わからなかった?」
「だって佐山を呼んだじゃないか」
「君の楽器を最高に引き立てるのには、それが一番だったんだ。それに君が最初に頼んだんじゃん。私にやってくれって」

 繰り出された言葉に好春は絶句する。今、彼の眼前にいるのは筝のためなら一年という長い時間と、甚大な労力を容易く差し出す人間だった。また音楽に関する物事を前にすれば、あらゆるしがらみを容易に忘れ去る〝女〟でもある。それを彼は充分すぎるほど知っていた。
 そんな人間がこの一年の積み重ねすべてが、好春のためだと言う。企画書を製作し山城を説得してまで、佐山を表舞台に引っ張り出したのも。毎週ごとに長距離の移動を重ね、京都や奈良に赴き練習に励んだのも。そのさいに好春を痛めつけて、歯ぎしりさせたのも。すべてこの日のため布石だと宣って憚らない。その弓生の言葉を彼は上手く信じられなかった。

 しかし振り返ってみれば相手の言う通り、もともと自分が弓生の許へ持ち込んだ案件なのだった。その事実を彼はいつのまにか遠くに追いやっていた。音の快美に浸る弓生のありようが、あまりにも愉快そうだったから。そして、その傍にはいつも佐山がいた。
 愕然とする彼にはかまわず、相手はさらに続ける。

「ごめん。ちょっと嘘が入ってるかも。佐山君との作業はおもしろかったし。でも、助けたかったのは本当なんだ。よくわかってないだろうけど君が思っている以上に、君の作ってるものはおもしろいんだよ。あの課長さんも褒めてたでしょ。もしかして忘れちゃった?」
 他にもたくさんの人からあんなことやこんなことも聞いたと、彼女は指折り数えてつらつらと述べていく。――弦を弾いたときの反響が楽しい。――奏でるというよりも一緒に呼吸をしているよう。――触っていると龍頭や龍舌が肌に吸いつくようだ……家にあった筝を思い出す――音楽そのものもそうだが、筝が特にいい。楽器のことはよくわからないが、こんなに素晴らしいと思ったのは初めてだ。
 これらはかつて好春が受け取り、手放した言葉たちだった。あるいはプロとして当然の仕事をしただけと暗に葬った名誉だった。それを弓生は覚えていた。それも古株の図書館司書の如く詳しく。
「好春が……常藤好春いう人がこの世界に確かにいて、楽器を作ったり、弾いたり、修理したりしてるのはとても幸運なことなんだって言いたかったんだ。まあ誰にってのはわからないし、もしかしたら信じてくれないかもしれんけど」
「そんなに信じてほしいのか。どうして」
「好きだから」

 そう相手は区切りをつけた。まもなく身を捻り、鏡から好春へ向き直る。直接目の当たりにする貌は、なおさら洗ったみたいに奇麗だった。自身の状態を本人は知ってか知らずか、弓生はしどけなく背もたれに頬杖をつく。
 そうして瞳を輝かせて、彼女は再び口を開く。

「好春のこう――楽器を造りたいって気持ちが、それが湧き出ているところが好きだから。それに友達の中の友達だし」
「それは弓にとって僕が特別だってこと?」
「そうかな。どうなんだろう。でも君が鼻持ちならない奴なら私はここにいないし、今日まで友達はしてないさ」

 違う! 僕はそうじゃない! 叫びが腹の底から突き上がる。そして〝彼女〟を組み敷いて、徹底的に揉みしだきたかった。ずっと抑え込んできたものを、骨の髄まで叩きつけてやりたい。そんな情動にかられた、瞬間があった。

 しかし、実際には何も起きなかった。彼の声は凍りつき、四肢は麻痺したように動かない。現在の状況と己の心持と、相手の都合に、折り合う言葉を見いだせない。怒り……歓喜。二つのかけ離れた事柄が彼のなかで綯い交ぜになって、ひたすら好春を打ちのめした。

 ただそうかと、曖昧に返事だけして彼は控室を出る。佐山に会ったのは、それからすぐ後のことだ。

 苛烈な旋律は一転して穏やかなものに変化した。これはアクシデントやアドリブではなく、化生としての聖性を前面に押し出すための譜面の指示だ。しかし傍若無人なまでの奔放さはいまだ失われず、音楽を構築する底流となって鳴り響く。そのせいか。好春は心安らかになれない。開演前に聞かされた、佐山の言葉をひたすら思い返す。

 ――あんたがあいつを想うのと同じように、兄貴が『あて宮』へ向けたのと同じように、俺も兄貴を愛していたんだ。でもあのときからぜんぶ、めちゃくちゃになった。わかるだろ。

 だから弓生を刺したと、佐山の告白が彼の耳元で蘇る。どうして今になって、あんな話したのだろう。好春には動機の見当がつかないが、代わりにいくつかの言葉は浮かぶ。鏡写し、相似形、傷の舐め合い、同病相憐れむ。そのような。とはいえ、どの文句もしっくりとこない。どれもが正解で、また同時に間違いである気がする。

 答えが出ない問題に、何故を求めても詮はないという考えもあるにはあった。だが、なんとなく気にかかってしかたない。 
 やがて思考は別のところに流れ着く。自分にとっての〝あのとき〟とは、一体どの時点だろう。佐山は弓生のせいと決めつけているけれど、はたして真実なのだろうか。

 音曲は幾度目かの転調を迎え、三度、趣が変わる。本来予定されていた形に戻ったからだ。弓生が主旋律、副旋律が佐山。後景に潜んでいた凶暴性が、にわかに表に戻って来た。私はお前のことを忘れないし、許さないと糾弾する風に強く。

 匂いがした。土の匂い、いぐさの香り。血と汗の臭い。これらは立ち上っては消え、消えてはまた現れて過去にあった情景を好春の中から引き出していく。そのたびに厳しい感情が、内側から湧き上がって襲いかかってきた。そこに父親たちの声が、好春をさらに焚きつける。
 
 ――そのうち、お前はいずれ誰かに会う。どんなに惨めで情けなくても、出会ったからにはもう離れられん。地獄に落ちようが、修羅を見ようが手放せん。そないな人に。
 ――なりふりかまわんでしたい放題、ぶんどりたい放題するんは鬼や獣のするこっちゃ。それがわかんなんだら、死ね。

 僕がだらしない人間やと、いずれそうなると思ってたんか! あんたらは! 産まれたときから! 恨みがましさとともに、彼はある情感に五体を明け渡していた。憎悪、殺意。このように称されるはずの心持ちに。しかし一方で無邪気に他人に指を突きつけられるほど、己も身綺麗な人間かとも逡巡する。

 好春は弓生に女の子でいて欲しかった。こちらの言うがまま迎えの車に乗って、助手席か後部座席にいる女の子。自分が車を運転できるなんて、露ほども考えない子。たとえハンドルを握ったとしても、彼の指示した道をひたすら進むような女にしたかった。だがそんな夢物語は、もう終わりにしなければならない。

 奔れ。声もなく、好春の唇が動く。そのまま奔って行け、どこへなりとも、好きなところに行ってしまえ。でも、たまには顔を見せて欲しい。そんな相反する気持ちもあるにはあった。
 
 とうとう『光越境』は終局を迎える。譜面が尽き、音楽が止む。いったん場内が静寂に覆われた。しかし静けさは、つかのまに過ぎない。壇上の二人が頭を垂れた刹那、拍手が劇場に破裂する。まさしく『万雷』の形容が相応しい大音響だ。このなかには歓声もいくらか混じっていて、好春もそのうちにいる。手のひらを叩きながら、彼は細く濡れた声で呟き走る。よかった、よかった。

 弓生が壇上から去るとき。ふと客席を、いや好春を顧みた。目が合った――少なくとも彼はそう直感する。お互いの視線が絡み合って、まもなく弓生がこちらへ手を振る。港で船を送る人みたいに大きく、掛け値のない満面の笑みで。

 やがてはしゃぎたつ弓生の肩を、佐山の腕が捕らえる。そのまま彼女を引っ張り歩き、二人の姿は舞台袖へと消えた。

 好春の全身から力が抜けていく。奥歯を噛み締める力が和らいで、胸がほのかに暖かくなる。そして込み上げる想いに、好春はしみじみと感じ入った。好きだなあ、やっぱり。ついで重量のある何かが、己の背中に圧し掛かっているのに彼は気づく。おそらくそれは過ぎ去った時間の重みだった。

 その後も公演はつつがなく続き、やがてすべてのプログラムは終了する。照明が灯ると同時に、好春は蹴るように席を立つ。

 ロビーに出るとあたりは渦潮に呑まれたみたいに騒々しかった。どうも何やら血なまぐさい、あるいはそれに近しいことが起こったらしい。だが、今の彼には関係ない。とにかく弓生に会いたかった。会って話したいことがある。我欲や下心抜きで、きちんと正面から。

 人混みを縫って歩くさなか。群衆から一つ抜けた下目にまとめた後ろ髪と、白緑の付け下げがふと好春の目につく。桜花を巻き上げる御所車の蘇州刺繍と、幾何学文様の袋帯には見覚えがある。あのと声をかけ振り返った相手は、案の定二人の師匠である乙部だ。彼女は開口一番に言う。

「お互い、えらい目ぇに遭いましたなァ」
「ええ。死ぬかと思いました。でもこうなるのは、わかっていた気もします。ずっと昔から」
 それこそ弓生と出会った日とも言って良いだろう。彼はついぞ口にしなかったが。
「もしかしたら、この方が良かったのもわからんね。終わり良ければ総て良しとも言うから」
「問題はこれからです。どう転ぶか、誰にもわかりません」
「まぁ、そこらはもう気にしてもしかたないわ。どんと構えてましょ」

 それきり会話が絶え、周囲のざわめきが二人のあいだに入り込んでくる。好春はふと思いついて訊ねた。誰が死んだんですか。相手は答える。さあ、わからん。まもなく彼と乙部は会釈し合って去った。

 好春は関係者用の通路を抜けていく。角を曲がったところで、前から歩いてきた来た山城と出くわす。彼女は気を急いた好春を呼び止めて、さきほど弓生たちと話してきたという。思いのほかはっきりとした受け答えだったが、さすがに疲れが見えているとのことだ。
 またこんなことも口にする。

「私、もう一度音楽をやってみようって思うんです。筝じゃなくても、ピアノとか太鼓とか。一番よさそうなものを、今度こそ自分の目と手と考えで選んで」
「選んで、どうするんですか?」

 わからないと彼女は返し、口を噤む。浮かぶ表情は柔和だった。まるで己の足許に小さな花があるのに気づいたという風情だ。ややあったのちに山城は再び口火を切る。

「でも、もう、そうしないと気が済まないんです。そうなっちゃたんですもの。あの人たちの傍で、あなたの筝の音を聴いているうちに」
「ええ、わかります」

 そう好春は返す。山城が抱いた衝動が、彼には心から理解できた。清原弓生が奏でるのは、聴く者の眼も耳も開かせてしまう音楽だった。そして一度気がついてしまえば、もう取り返しがつかない。それは、きっと佐山も同じだったはずだ。

 今の話を母にするつもりだという山城に、応援していると好春は述べる。すると彼女は微笑んだまま、はっきりと頷いた。

 山城と別れてすぐに、ついに控室の前につく。入口手前の長椅子に、いまだスーツ姿の佐山が腰掛けていた。彼は両肘を膝に乗せ、組み合わせた手に額を預けている。まるで祈るような姿勢で、彼は忍び泣いていた。

 佐山くん。相手の名を呼びながら、好春は彼の肩に右手を置く。慰めるつもりも、義理はない。でもなんとなく、そうしてやりたくなった。いささかの間をおいたのち、彼も手を重ねてくる。少し湿っていて、温もりがある肌だった。

 魔が差したんだ。おもむろに、彼の声が廊下に広がる。

「ほんとは、ちゃんとするつもりやった。でも舞台袖から客席を覗いたとき、思いついた。ここで何か違うことしたら、どないなるかって。あいつもお前も、山城さんも先生も、みんな驚くやろうかって」
「うん、驚いた。それは乙部さんも山城さんもそうだと思う。きっと弓生もね」
「本当にそんなつもりはなかった。でも思いついたら背筋がぞくぞくして、わくわくして。もう」
「わかってる。大丈夫。大丈夫やから」

 あいつ……弓生もそう言ったと、彼は顔を伏せたまま答える。壇上で目配せを送ったとき、好きなようにやれと弓生は返した。言葉ではなく、眼差しと微笑みでもって。(それて彼にはきちんと伝わった)そして何もかもが終わった後、こうも口にしたとも述べる。

 ――あぁ楽しかった、もう一度やりたいね。

 言い締めたところで彼のすすり泣きは、本格的な嗚咽に変わる。広く雄々しい双肩と背中を震わせ、子どものようにしゃくりあげる。そうしながら佐山は好春の手を掴む。まるで遠ざかる者に追い縋るみたいな強さで
。好春も彼の肩を握り返して力に応えた。同時にこんな言葉をかける。

「君がどう考えるにせよ、今日の演奏は素晴らしかった。君は殴られたり罵られたりすることなんかしてないと、僕は断言する。たとえ相手が誰であれ」
「そんなこと、言われる資格ない」
「ある。そう思うよ、僕は」

 どちらともなく手が離れた途端、佐山は両手で顔を覆う。戦慄いた声で誰かを呼ぶ。お兄ちゃん、と口走ったように好春には聞こえた。そして、いつまでも泣き続けた。

 啼泣する男の傍で好春は立ち上がり、身を翻す。指先が眼前のドアノブに触れる。ついで硬く機械的な音が響き、控室の扉が開く。
 次の刹那。急激に視界が広がり、向こう側の風景が露わになった。ドレッサーがあり、化粧品の香りがほのかに漂う部屋が。清原弓生がそこにいた。最後に劇場で目にした、あるいは開演前に別れたままの姿で。

 相手の唇が開くより前に――互いの視線が絡むより速く、それを好春は口に出す。

「君のこと、好き」
「私も」そう弓生は返した。

(2023.10-2024.6.24)

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