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越境する光 4-2

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 しのごのいったところで本番当日はやってくる。聞くところによれば前売り券の売れ行きは好調だという。当日の来場者数も期待を持てるかもしれないとも。満席。そんな単語もちらほら小耳に入ってくる。しかし弓生と佐山は我関せずの態度だ。
 来る日を前に彼らは楽譜を読み込み、音源を聴き、ひたすら指を弦の上で閃かせる。そうして口少なだった。必要最低限のこと以外は、ほとんど何も言わない。他にやるべきことや、関心を持つべき事柄が山ほどあったから。

 唯一の例外は本番当日の朝。弓生は自分のSNSアカウントにこんな投稿をした。

《ブロック機能って不思議ですよね。たとえその場から排除したとしても、別に存在ごといなくなるわけじゃない。見えないところに追いやった相手は必ず、この世界のどこかで生きているわけです。そんなことを長いあいだ、ずっと考えています》

 ――私や君がどう捉えて何と言おうと、佐山君もこの世界の一部だ。音楽が世界の産物である限り、その事実からは絶対に逃げられない。

 いつか。そう弓生から言われたのを好春は覚えている。どんな目に遭って何をされようとも、自分はここから一歩も退かないという風な巌とした口調も。そしてその堅い意志は前日のゲネプロのみならず、当日のリハーサルにも現れていた。

 開演数時間前。会場を包むはずの音色を、好春は観客席でいち早く耳にする。楽器の製作者――調律者としての義務だ。

 大空間に響き渡る『光越境』は、聴く者にある種の期待を持たせる旋律だった。これまでで耳にも、目にもしたこともない何かがある――そんな期待に満ちた音楽を、あの二人は時間と労力を掛けて造り上げた。好春とは少し隔たった場所で。また、それは限りなく近いはずなのに、どうしてだか手の届かない場所でもあった。

「むかし、私の実家には筝があったらしいんです」

 二人が舞台袖に去ったあとに、山城がそのように零す。好春が隣席を見やると、彼女はいまだ舞台を見据えたままでいた。冷然とした声調に釣り合う厳粛な横顔だった。テーラードジャケットのスーツに、人魚の脚を思わせるタイトスカートという装いが、なおさら面持ちの重々しさを強めている。
 少しの間を経て、山城は再び話を始めた。

「正確には日本の筝じゃなくて、伽耶琴(カヤグム)という韓国や朝鮮の弦楽器です。慶尚南道から下関まで渡って来たときに、曾祖母が持ち込んだものなのでした。外国人の――女性の働き口が少なかった当時としては、貴重な生活の糧だったようです。でも、その楽器はもうこの世界にはありません。長い歳月のあいだに壊れてしまったのか、自ら捨てたのかは知りませんが」

 山城の母親は喪失した楽器の代わりに、娘に筝を習わせた。日本名を使わせ、日本の学校に通わせ、長じてから帰化させた。大学生のときだそうだ。法務局にアポイントメントをとって面談を幾度か行い、指定のフォーマットに従って履歴書や居宅地近辺の略図を作成、韓国大使館を通じて公的な書類を取り寄せて翻訳しと落ち着かない日々が一年ほど続いた。その最後に『私は日本国憲法に従い……』と法務局員の前で宣誓した瞬間の記憶が今でも蘇るという。

「毒にもならなければ薬にもならなくてもいいから、子どもには平穏無事に生きて欲しいと母が願っていたのを知っています。けれども――本人が自覚しているか否かは別として――同時に他人をなぎ倒して、文句を垂れさせないような才能も母は求めていました。そしてこの相対立する二つの項目は、どうやら彼女自身をも引き裂いているようでした」

 そこまでしなければ自分も娘も、生きてはいけないと思っていたのだろうと山城は言った。音楽に乗って、どこかへ過ぎ去ろうとするみたいな忍びやかな声音で。そのまま彼女は続ける。

「今日、母をこの会場に呼んだんです。手紙と一緒に、チケットを送って。来てくれるかはわかりませんけど」

 きっと来てくれますよ。そんな文句が喉元までせり上がったが、好春はついぞ出さなかった。その場しのぎの言葉は、ときに相手を深く傷つけるのを理解していた。そしてそれは弓生と付き合うようになってから、身を切って知った事柄だった。

 好春にとって清原弓生とともに生を刻む行為は、世界の新たな側面を確かめる作業でもあった。弓生がもたらす悲喜こもごもには、彼だけでは捉えきれなかった視点があり、触れえなかった感覚がある。月の砂漠みたいに独りでは辿り着けない場所に、〝彼女〟は連れて行ってくれた。それはとても素晴らしく、幸運な営みだと好春は思う。

 もちろん享受できるのは、楽しさばかりではない。ときには己の醜悪な面を突きつけられる苦しみがある。特にこの一年あいだは、苦痛の方が顕著に表れていた。主たる要因は佐山の存在だが、根源はもっと個人的な奥深いところにある。

「なあ」

 開演前に弓生と会って別れたあと。控室附近の長椅子に座り、物思いに耽っていたときだ。 佐山がいきなり頭から声をかけてきて、好春は反射的に顔を上げた。

 彼はすでに支度を済ませていて、灰色のフォーマルスーツに白いネクタイを締めている。どこにも非の打ちどころはない身なりだ。礼装のサイズは背丈に合っているし、着こなしもしかるべき形式をきちんと抑えている。なのに手放しで優美とは言い難かった。

 緊張しているのか。見下げる格好の……逆光のなかでもわかるほどに顔色は青白く、こちらに向けた目は据わっていた。纏う陰影があまりに深刻なので、格好が端整な分、見る者をひやりとさせる趣がある。幽鬼。この単語がまさしく似つかわしい佇まいだ。

 そんな穏やかならぬ顔つきで、彼はこちらに問いかけてくる。少し、いいか。好春は相手の言葉に頷き返す。

「あんた。あいつと何の話をしてたか、気になるとか言ってたな」
「うん。でも、知ってることばっかりなんだろう」
「実を言えば、まだ、あいつにも話していないことがあるんだ」

 にわかに彼は腰を屈め、好春と目線を合わせて肩に手を置く。そうして耳元に唇を寄せた。まもなく熱っぽい吐息とともに、低くささやかな声が吹きかかる。紡がれたのは長すぎない、しかし短からぬ言葉だった。

 いささかの後にじゃあと、佐山は手と身体を離す。次の瞬間には、彼の姿はどこにもない。相手を引き留め損ねたのは佐山の身のこなしが軽やかなためだったのか、あるいは己が余韻に打たれていたせいなのか……原因はいまひとつ判然としない。

 どちらにせよ好春が相手の言葉を、確かに受け取ったのに違いなかった。

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